ネコとカラス

「チッ、堅物ジジイ共が」

 ジーンは荒れていた。まだ陽が高いところで照り輝いている時間帯だというのに、まるで酒を引っ掛けてきた不機嫌なオヤジのように荒く、宮廷の回廊に落ちていた石を前に蹴り飛ばした。なお、酒はまだ飲んでいない。まだ勤務時間内であった。
 これには理由があった。ジーンは、医師を志した時からずっと抱いていたある案件を医務室上層部へ進言していた。しかし、予算の関係や城下でそのような専門職がまだ存在しない事などを理由になかなか許可が下りず、先ほどまで頭デッカチな医務官達と舌戦を繰り広げてきたばかりであった。
 財務、大袈裟に言えば国の制度にまで手を伸ばす必要のあるこの案件は、医務室にのみ燻らせてはならないのかもしれない。そう進言しても、若いからと年嵩な医務官にはなかなか相手にされず、一部には革新的な案だと好意的に捉えられても、彼らから現実的な課題が突き付けられた。
 納得いかない前者の言葉はさて置き、ジーンの今後の課題は少しでも味方を作り、頭デッカチ達を説得するための材料を集めなければならないだろう。それも、通常勤務を並行しながらだ。
 医務官5年目のジーンは、最近ようやく上の医務官達と意見を交わせるようになった立場であった。未熟で課題が多いのも当然。若輩だからと舐められるのも当然。それでも奴らを見返してやろうではないか。ジーンの根底に抱く熱が呼び覚まされ、やる気となって燃え上がった。
 ただ、今は一度立ち止まり、思考を整える事が必要である。落ち込むどころか苛立ちによって燃え上がった熱情を察した先輩医師から、せっかく気分転換にと外へ休憩に出してもらっているのだから。先輩の厚意を無駄にしないため、大きく深呼吸したジーンはゆっくりと歩を進めた。

「……ん?」

 すると、等間隔に植えられた木々のうち、遠目に見えるある一本が目に付いた。
 サル、か?いや、ジーンにはネコに見えた。急いで柱の影に隠れ、じりじりと距離を詰めながら木陰で涼んでいる大きな"ネコ"を覗き見た。その時、つい先日第一王子から下達された命令の他に任された、お願い程度の命令を思い出した。ジーンと"ネコ"の他にこの場には誰もいない。見当違いだろうかと自分を疑うが、あの下達から今まで殿下が言うような"サル"は見受けられなかった。そのため、おそらくあの"ネコ"が殿下の言う"サル"なのだろうと確信する。
 先ほど苛立ちのままに蹴り飛ばしていた石が偶然にも足元に転がっていた。それを拾い上げ、手の中の感触を確かめながらもう一度"ネコ"を観察する。こちらには気付いていない様子。木陰のせいで顔は見られないが大まかな形と位置は把握でき、大きな欠伸をするだけで移動する気配はない。ジーンは呼吸を整えて気配を殺し、威嚇として最大の効力を持つであろう顔に目掛けて石を投げた。

「っ…!?」

 僅かに掠ったものの、"ネコ"はしなやかに石を避け、それを手中に収めた。目も勘も鋭いらしく、投石したジーンを隠す柱を睨み続け、しばらくすると"ネコ"は静かにその場を去って行った。

「…殿下も人が悪い」

 ようやく体を陽の下へ出したジーンは、手のひらに付いた砂利を払いながら第一王子へ悪態を吐く。殿下の言う"サル"が人間を比喩した代名詞である事は予想の範囲内であったが、それが"ネコ"で、しかもある程度戦い慣れた者が相手だとは聞いていない。ジーンは手のひらの上で転がされている自分に嫌気が指し、腰に手をついて首を垂れた。
 その時、カァと愛らしく鳴く声(当社比)が聞こえ、荒んだ心に潤いが戻って来る。"ネコ"がいた木の上空から可憐に舞い降りてくる墨助は伸ばされたジーンの腕に止まると、もう一度カァと鳴いた。いつもの如く嘴をカリカリ掻いて愛でたあと、伝書鳩ならぬ伝書烏をしてくれている墨助の足を覗き見るが、そこには何もなかった。墨助は、ジーンに愛でてもらうためだけに連絡もない時もやって来る事がある。今回はそうなのだろう。

「あ〜可愛い。たまにはこういうのもいるよね。ねぇ墨助」
「カァ!」

 首元を掻いてやっていたその時、あろう事か、愛で中であったにも関わらず墨助はひと鳴きすると羽を広げ大空へ飛び立って行ってしまった。今までなかった事に「え!?」と驚きを隠せず声を上げ、墨助の後ろ姿を見つめ続けると、飛び立った先の建物の窓からこちらに手を振り笑いかけるあのお方の姿が小さく、しかしはっきりと見えた。

「……うわっ」

 手招きをしだした。そして、結んだ拳の甲をこちらに向け、右手の親指を上に、人差し指を横に同時に伸ばしたハンドサインをする。つまり『来い、急いで』という事らしい。
 この日何度目のため息になるだろう。露骨に顔を引攣らせたジーンを見て、イザナ殿下は愉しげに笑っている。こういう時、主人に刃向かえられる人間だったらと思うが、経歴書と実際の経歴との違いを知る主人に下僕同然のジーンには逆らえなかった。心の中で畜生!と叫びながら、ジーンは走った。



「お前、前より遅くなってないか?」
「本業…、医者、ですから…」

 息を切らし、バルコニーの柵にもたれかかったジーンにはこれ以上言葉を返す余裕もなく、ぐったりとその場に座り込んでしまった。走ったどころか、ジーンは壁を登ってここまで来ていた。身体能力には自信があり、剰え戦闘訓練も積んでいた事もあり壁をよじ登る事くらい造作もないと、数分前のジーンは思っていた。しかし最近の運動不足による体力低下のおかげで、登る事はできたが、ここまで息切れしてしまう始末であった。イザナの指摘に反論ができない。
 しばらく息を整え、周りを見渡す余裕ができたジーンは、自分がどこにやって来たのかようやく理解した。それを口にする前に「ここ、花謡の間に客人を呼んでいる」とイザナは告げる。ひとつ厄介な風を吹かせるらしく、悪い事を考えている顔で「お前にも協力してもらったからな、面白いものを見せてやろう」とまた愉しげに笑った。
 ジーンが把握しているイザナとの協力事とは、今はあの事しかなかった。

「白雪さんですか」
「それと、先ほど見事な投石を見せてくれただろう?」
「あっ、その事で少し怒ってます!何が"サル"です!あれ"ネコ"でしたよ!しかも訓練された"飼いネコ"とか、私聞いてません!」
「カラスとネコでお似合いじゃないか」

 カラスの墨助を相棒とするジーンは昔、王宮へ来る前には"カラス"と通称される事もあった。それを知っているイザナは、カラスとネコの関係から、ゴミ捨て場で残飯を巡って争う様を思い浮かべたのだろう。
 だが、ジーンにとっては"今は昔"の事である。黒歴史当然の過去が呼び覚まされ、恥ずかしさすら抱いた。

「ゴミ捨て場を一緒に荒らせと?イザナ殿下。私で遊びましたね?」
「いつもの事だろう」
「本当に、あなたは人が悪い」

 ガキ大将イザナとその下っ端兼友人のジーン。今の2人は完全にその関係であった。ジーンはバルコニーの柵に背を預け、白衣のボタンを幾つか外しタートルネックも下げ、首の左側に残る古傷を露わにする。走って、さらに壁登りをしたおかげで汗をかき、その古傷に痒みが増してずっと気になっていた。イザナにはとうの昔に知られており人目を気にする必要もないため、堂々と傷跡を手のひらで叩いて痒みを押さえようとした。

「まぁ、今回のカラス対ネコは、カラスの勝ちですよ」

 しかし、"カラス"と"ネコ"とは言い得て妙だとも思っており、傷と言えばとジーンは先ほど"ネコ"との対決を思い出してニヤリと笑った。一方で、笑っていたイザナはジーンの物言いに訝し気な顔で「へえ?」と腕を組み、下っ端兼友人の反撃とやらを受けて立つ、という上から目線のテイで言葉を待った。
 ジーンは自身の左頬に指を2本添え、それを耳側に向けてゆっくりとスライドさせる。「まぁ、これだけですが」とその部分に傷を与えた事を表した。自分でもちゃっちい勝負事であると思うが、今イザナを見返す材料がこれしかなかった。だが、思いのほかこれがイザナにとって好都合な材料であったらしい。一度目を見開き、再び悪い顔を見せたイザナは「ジーン、ありがとう」と珍しく礼を言う始末であった。これにはジーンも驚いた。

「お前はそのバルコニーに隠れていろ。そろそろ来るはずだ」
「あ、はい」
「医務長には俺からも事情を説明してやるから、安心して楽しめ」
「あ、はい」

 イザナの礼がジーンにとって思いのほかインパクトがあり、覚束無い足取りでバルコニーの柵に足をかけると、危うく落下しそうになった。そこでようやくハッとある事に気付いた。これほどまでに準備を重ねたイザナの企みをこんなに近くで見られるのだ。ジーンの内側に燻る悪戯心がじわりじわりと顔を出す。室内から余ほど窓に近寄らなければ見られない死角となるバルコニーの端に腰掛け、窓の外を眺めるイザナと顔が合った時、思わずジーンも悪い笑みを浮かべてしまった。

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