医務官の仕事

 例えば、大きな秘密を抱えているとする。社会的地位が高く、誠実かつ謙虚な人柄で、能力が優れている人間が、一度ひとたび公表されてしまえば自分の命の存続さえ危ぶまれるような隠し事を胸に秘めているとしよう。
 誰にも口外せず自分の内にだけ秘めていれば何も問題は起こらないのだが、意図しない場面で他人にその秘密を暴かれてしまったなら。その場合の手段として、その者の口を閉ざしてしまうか、自ら命を絶つか、永遠に身を隠して生活するしかなくなるだろう。

 ジーンは割り合い、生に執着する性質ではないが、育ての親に恩返しをするためにも使命を全うしなければならないと考える、気難しい質である。それゆえ、自分の命は大切であった。ジーンなら前者を選択するはずだった。

 例えば、大きな秘密が露見したとする。そして、社会的地位が高く、誠実かつ謙虚な人柄で、能力が優れている人間の、一度公表されてしまえば自分の命の存続さえ危ぶまれるような秘密が、他者に受け入れられたとしよう。
 育ての親に先立たれ、使命が消え、後ろ盾もなく孤独に生きていたのなら。もし安寧の世界で生きられるような、それが可能な者に手を差し伸ばされたのなら。

 ジーンはその手を取ってしまった。口煩く説得された事もあるが、真摯に自分の事を想ってくれる優しさに初めて触れ、心を突き動かされたと言う事もできる。その後のジーンはその者と同じ道を歩まんとするのだが、大きな秘密が障害となる壁が現れてしまった。
 壁の名前は"組織"といった。優しさでジーンを救ったその者とは異なり、合理性を重視する"組織"にとってジーンの秘密は重石にしか成り得なかった。
 しかし幸運にも、この重石をいいように扱える人物がいた。その人物こそ"組織"の頂点に成り得る人物だった事もあり、ジーンはまたもや受け入れられた。これ以降、その者に憧れて同じ道に乗り、その人物の手足として従う新しい世界がジーンの前に開かれていた。

 例え大きな秘密を抱えていたとしても、要は良い環境が必要だった。運と環境に恵まれたジーンは、命を長らえさせた。


* * *


「仕事は?」
「終わりましたよ。当直だったのでとても眠いです」

 秘密を知られ開き直ったジーンは、"組織"たるウィスタル城の頂点となったイザナ・ウィスタリア・クラリネスに対して平気に軽口を叩き、剰え壁に凭れ掛かって話すなど、解雇通知を押し付けられるレベルの無礼を働く事ができた。むしろこの無礼はイザナ本人から強要された事でもあった。友を作りにくい環境に生まれ育ったイザナにとっても、歳が近く、秘密を掌握している対象であるジーンは気を緩めやすかった。さらに言えば、使い勝手のいい存在であるらしい。彼は以前、「お前は使いやすいな」とジーンの盛大に詐称された経歴書を見せびらかしながら話していた。
 周囲に人がいる手前は形式上の礼は取り、2人の際でも敬語という一定の線引きはしているものの、身分を取っ払った時に纏う彼らの雰囲気は王族と家来の関係性が感じられにくい。ジーンは、イザナが次期国王として十分な素質を持っている事など承知の上なのだが、時折彼が悪戯好きのガキ大将に見えてしまい困る事が多々あった。
 当直明けで疲労困憊なジーンは大きな欠伸をひとつして背伸びをした。「お前、本当に女か?」と上品で高貴な女しか相手にした事のないイザナは眉を顰め思わず苦言を呈する。余程酷い顔をしていたらしい。

「正真正銘どっからどう見ても女です。これでもモテる方なんですよ」
「誰が?」
「私が!!」

 さっきから誰の話をしてるんですか。突然すっ呆ける王太子殿下に突っ込みを入れざるを得ない。プライドが高く身分に厳しいハルカ侯爵がこの光景を目にしたら、現実逃避のため王城を一周走って来るんじゃないかという程のイザナ渾身のボケである。ジーンは頭を抱え、そもそも自分が王子の前で大欠伸をしたのが悪いと内心反省した。
 突っ込みにウケてくれているのか、クスクス笑っているイザナを横目にしてジーンは壁から背を離す。今回、忙しい合間を縫ってイザナの部屋まで馳せ参じたのは、何も雑談をしに来た訳ではない。イザナも今朝方外交から帰還し、暇ではないはずだ。

「して、今回は何用で?」

 執務卓の前で両手を後ろ手に組み、背筋を伸ばして最初に問い掛けた質問を再度問う。王族に対して傲慢にも、本題に移れ、と暗に示すが、今この場で礼儀だ格式だと宣う者は誰もいない。

「アレが赤髪の女を連れて来たと聞いてね」

 イザナの言う「アレ」が何を差す代名詞なのかはすぐ分かった。「あぁ、はい」と顎に手を当て、思い出す風の仕草を見せるジーンは、功績に反し批判の数が多い医務室での意見を思い浮かべて口を開いた。

「白雪さんの事ですね。ラクスドでの件は聞きました。彼女、洞察力すごいですね。ただ、薬剤師見習いが医務官の領域に手を出したと爺様方がちょっとお怒りみたいです」
「何者だ?」
「…何か懸念でも?」
「そうだな」

 イザナは机の引き出しから上等の紙を取り出し、インクを付けて羽ペンを走らせた。不愉快さを隠そうともしない発言に、ジーンは訝し気に眉を顰めた。イザナの全てを理解している訳でもないため何が気に食わないのか皆まで分かるわけもないが、何となく、王子として誇り高い彼が何を第一優先事項に置いているのかを顧みれば、大まかな考えは予想できる。ジーンは顰めていた眉間を緩め、納得して頷いた。

「大好きなんですねぇ。弟君が」
「煩い。オレは赤髪の娘は何者なんだと聞いている」
「失礼致しました。噂程度にしか知らないんですけど、彼女はタンバルン出身だそうです。何が目的でクラリネスへ入国したのか知り得ませんが」
「他には?」
「え?えーっと、ゼン王子のご友人?」
「それだけか?」

 イザナのくどい言い回しが鼻に付く。夜勤明けで疲れているところに呼び出され、恩人だから行かない訳にもいかず、わざわざ馳せ参じているというのに。

「…恐れながら、入城者の身辺調査は情報局の仕事でしょう。殿下がお目にかけているのなら、彼女の調査はすでに行っているのでは?」
「ああ、すでに終わっている」

 蟠る感情押さえながら言葉を吐くものの、イザナは羽ペンを滑らせたまま苛立ちを含んだジーンの声色にビクともしない。また、国内外の情報を取り扱う城の情報局が収集した、白雪含む今期入城者達の身辺調査報告をすでに受けているようだった。
 ウィスタル城は国外出身者にも非常に寛容的な王宮である。ある水準以上の能力を示せば、ジーンのような薄暗い経歴を持っていようと受け入れてくれる。
 しかしその反面、国に仇なす思想や行動を一片でも見せれば、一切の容赦はない。このような不逞な輩の監視、防衛、制裁のため、クラリネス王国は不戦宣告をしているにも関わらず、強力な兵団と情報局を所有していた。
 ジーンは医務官としてウィスタル城に仕えている。一介の医務官が国政に介入する事はあり得ないのだが、弱みを握られ"薄暗い経歴を持つ"ジーンは、医務官の職務とは別に度々隠密紛いな仕事を任せられる事があった。

「では、今回私は何をすればよろしいでしょうか。イザナ王太子殿下」

 嫌味を含めてイザナの名を呼ぶ。言いそうな事は粗方予測はつくが、彼の口から言い渡されて初めてそれは仕事となる。

「赤髪の娘を見張れ」
「承知いたしました」

 イザナの下達にジーンは間髪入れず承諾した。
 しかし「見張れ」とは、随分と赤髪の白雪さんを警戒しているなと心の中で呟いたジーンだったが、「クラリネス王国第二王子に近づく一般人」という背景を顧みれば、警戒するのも当然であろう。過去にゼンが友と呼び、密かに繋がっていた弓矢番が暗殺を企てていた事があった。イザナは、おそらくそれと同じ事が起きぬよう警戒している。

「ついでだ。最近、サルも王城に入っているようでね。出て行くように威嚇程度でいいから対策しておいてくれ」
「サル?それなら衛兵に言っておきましょうか?」
「いや、随分すばしっこくて衛兵では太刀打ちできないだろう。アレの周りを彷徨いているようだから、お前に頼むよ」
「…本当、大好きですよねぇ」
「行け」
「はい。失礼致しました」

 弟大好き弄りは殿下のお気に召すものではないらしい。肩を窄めながらイザナへ一礼し、ジーンは逃げるように退室した。

「…さて、面倒事押し付けられてしまった」

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