インヨウ島 89

あの手を

「そうか、暫く残るか」

 今朝方、首長とのやり取りの報告を告げると、正面に座す老人は皺の深い手を摩り小さく頷いた。外はまだ明るく、陽はまだ天辺に昇り切っていない時間帯であるから島民の喧騒が遠くから聞こえてくる。ただ、今のこの場だけは壁を幾重にしたような程静かな空気が流れていた。

「期間はソウウンさんが判断すると仰いましたが、私は二年以内で全ての行程を終わらすつもりです」
「…だが気功術を会得したとしても、どうやって島を出る。小鴉一人の為にあやつが易々と船を出す気構えをしとらんぞ」
「それについては大丈夫です。この島にいる覇気遣い約200人の武官全員を倒せば船を出して下さると約束しましたから」
「何、全員だと…!?」

 必要最低限として提示していた滞在の許可は下りたのだが、『ここは弱肉強食。願いを叶えたくば力で示せ』と以前と同じ言葉をソウウンから告げられていた。話によれば武官のレベルはピンからキリなのだという。気の修行を始めて日が浅い者から熟練の猛者まで。さらには剛腕から鉈を操る者や闇討ちが得意な者など戦い方も多種多様で、一筋縄ではいかないとソウウンは不気味に笑って言った。余程島の兵力に自信があると窺えた。

「気の修行に機械鎧の製作。それに島に伝わる"錬丹術"の文献も読んでみたい。いやぁ、やる事一杯で大変ですね」
「暢気に言っとる場合か!」
「まぁ、ある程度の見通しは立ってますよ。幾度も大きく立ちはだかる壁が現れると思いますが、生憎私は探究するのが得意でしてね、壁を攻略する糸口を捉える自信はあります」
「随分大きくものを言うな。どこからそんな自信が湧く」
「んー…、どこと言いましても…。強いて言えば、私がまだ島の兵力について無知である事。それと超えられそうにない壁をぶち破って来た人を見てたから、ですかね。その人を思い浮かべれば自分はまだうまく事を運べるって思えるんです」

 あるのは確証のない自信だった。だが必ず乗り越えられると、いや、乗り越えらなければならないのだという決意は確かなものだ。仲間達と進む道は違えてしまっているいるけれどいつかは再び交わる道だから、その時一つも二つも大きくなった自分で在ろうと強く思う。
 コウウンは根も葉もない自信を持つキアーラに呆気に取られていた。だが辟易したわけではない。強い意志を宿すキアーラの目を見えれば、キアーラが明確なビジョンを脳裏に映し出しているのだと窺える。武官200人を相手取るなどはじめは無謀だと思ったが、この調子だとキアーラを止める方が無謀な行為だと諦めを覚えた。まるで幼い頃の兄を見ているようだと。

「…島におる間は引き続き面倒を見てやる。存分に強くなれ」
「っ!ありがとうございます!!」

 特に何か未知のものに対峙しようとするこの姿勢はよく似ている。探求心のベクトルの方向は些か違えているようだが子供のような無邪気さは兄が宿っているように思えた。

 日照時間の短いインヨウ島で日中は貴重な時間だ。陽が昇っているうちにやらなければならない事は多い。大事な報告を聞き終えて仕事に戻ろうとコウウンが席を立った時、キアーラは一つ頼みたい事があると言う。面倒を見てやるとは言ったばかりだが早速だなと肩を窄め、先程までの無邪気な表情から真剣な目になったキアーラを見返した。

「保留になってる″双龍″、やっぱり頂いても構いませんか?自分本位な理由ですけど、手元に武器があった方が奇襲された時安心ですから」

 確か、キアーラが島に来てから″双龍″以外の武器を持っていた記憶はない。ちらっと体術が戦闘の主軸だと聞いた事はあるが多種多様な武器を扱えるらしい。この時、コウウンの鍛冶師としての血がドクリと沸き立った。

「ならん」
「…そうですか。では、」
「″双龍″はやらん。あれは兄に合わせたものだ。お前とは体格も違えば戦闘方も違う。畢竟、小鴉に合った刀を打ってやる。折角の機械の腕を活かさんと勿体無い」

 声を遮り紡がれた言葉にキアーラは耳を疑った。本来なら突然転がり込んできたキアーラをここまでする義理はないはず。何がここまでコウウンを駆り立てるのかキアーラには理解できなかった。だが、

「貴方に、今後頭が上がりそうにありません。ありがとうございます、コウ老師」
「はっ、大袈裟だ」

 意図を察せられずとも、嬉しい事に変わりない。自分の戦い方に合わせた武器、その道の達人が打つ武器だ。自分の為にという心が何より嬉しかった。
 頭を垂れ礼を取っても隠し切れない顔の緩みようを唇を噛みしめて引締め直す。この感情はコウウンに見透かされているのだろうけど。

 そんな時、まだ覚束無いがある気の流れを感じ取った。走る息遣い。鉄が擦れる音。次第にはっきりする気配は、間違いなくこちらに向かって来ている。徐にその方角に体を向けて見知った気配にキアーラはちろりと唇を嘗めた。

「聞いたぞ鴉!!オレが一番乗り、グボッ、ゴヘッ!!」
「ところでコウ老師。ソウウンさんを″上の上″とする場合、コイツはどこに位置しますか?」
「″下の中″だ」

 不躾にも勝手口から乱入し襲い掛かってきたトウキンを始めに裏拳打ちで意表を衝き、倒れたところで背を踏み付けた。気の流れは読んだものの気を纏わず一人目を倒した事と、コウウンのトウキンへと評価で大まかな武官全体のレベルを把握する。

「なるほど、手強い人がわんさかいらっしゃるようですねぇ。まぁ取り敢えず一人目コンプリート」
「てんめー!!足除けやがれー!」

 以前はあれほど鴉の相手は無理だと喚いていたくせに。掌を返したようなこの奇襲から推測すると、ソウウンはすでに武官達へキアーラとの戦いたの旨を伝えたのだろう。そして、キアーラを倒した暁には何か褒美を与えると言ったところだろうか。
 それに加え、トウキンは未だしも夷狄嫌いな節があるこの島民性から、張り切ってキアーラを倒そうとする者が今後多く押し寄せてくるだろう。キアーラは元よりやる気満々だったけれど、相手の武官達も盛り上がってきたようだ。

「はは!」

 最初に立てた見通しがまだ一人目なのに少しずつ崩れていく。だが込み上がるのは焦燥ではなく、妙な可笑しさだった。何故か腹が擽ったくて笑い声が漏れてしまった。
 きっと、楽しいのだと思う。情報を集め、思考し、これを再構築するのが錬金術師としての醍醐味だから。

 新世界の不可解な現象を解明し、それを自分達の力として引き入れる。そして自分の夢を、仲間の夢を叶える足掛かりとなるのが自分の役割だと今朝決意した。役割を全うする力を得る為のこの2年は、傍目から見れば進展のない2年なのかもしれない。
 けれど新世界を確かな足取りで進むには必要不可欠な2年となる。立ち止まるのではない。遠回りだが確かに進んでいく。キアーラはそう信じて疑わなかった。

 以前コロナ島を出航する時、ルフィが船に乗ろうとしたキアーラに手を伸ばす場面をふと思い出した。
 『掴まれ』と太陽を背にしたルフィの笑顔は、今も鮮明に覚えている。

 キアーラはもう一度、あの手を取りたいと思った。



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