2. 貧乏人とお金持ち




「……ません、すみません、そこの男性の方?大変申し訳ないのですが、もう閉館時間なんです」

とんとん、と何度か肩を叩かれて、腕を組んで眠っていた男は驚いたように目をしばたき、ゆっくりと寝ぼけた顔を上げた。

「ん……あ、ああ……わるいな…いま何時だ…?」
「七時五分です。閉館時間になりましたので、お帰りなさいますようお願いします」
「もう夜なのか……」

男は小さくうなって首をひねった。
根元まで真っ白い髪をした、壮年の男だった。歳は五十前後といったところだろうか。仕立ての良い上等そうなスーツを着こんでいたが、すっかり履き潰されて傷んだ革靴を履いており、そこだけ妙にちぐはぐな印象であった。
梨代子は少し心配になり、腰をかがめて男の顔をのぞきこんだ。

「あの、大丈夫ですか?どこか具合がよろしくないところでも…」
「いや…そんなんじゃないんだ。ちっと昨日徹夜したもんでよ…、まさか図書館で眠っちまうとは……。手間かけて悪かったな、今出るよ」

男は椅子から立ち上がると、大きなあくびをひとつして、玄関ホールの方へと向かって行った。
梨代子は、男が自動ドアを開けて外へと出て行ったのを確認すると、残りの仕事を片づけにカウンターへと戻った。




梨代子は普段、勤め先であるこの区立図書館まで自転車で通勤している。しかし、その日は朝から雨が降っていていたので、傘をさして徒歩で図書館まで来ていた。
雨は一日中降り続き、梨代子が業務を全て終えて外に出たときも、まだぱらぱらと小雨が降っていた。

図書館の隣は小さな公園になっており、遊具がいくつか置いてある。家に帰るために梨代子がその公園のそばを通りかかったところ、公園の入り口近くの、上に屋根がついているベンチに、白髪の男がひとり座っていることに気がついた。
梨代子が男を見ていると、男のほうも梨代子の存在に気がついたらしく、目を細めて微笑んだ。

「よぉ、さっきのねえさんだよな」
「……あ…、はい、先ほどはどうも」

梨代子は立ち止まって頭を下げた。かたむいた傘の骨をつたって雨粒が転がり落ちた。
男は梨代子から目線を外すと、黙って暗い空を見上げた。その姿があまりにも不可思議であったので、梨代子は訊ねずにはいられなかった。

「あの、ここでなにをしていらっしゃるんですか」

男はまた梨代子に目を向けると、少し間を置いて口を開いた。

「タクシーを待ってるんだ」
「……タクシー…?」
「ああ。さっきからずいぶん待ってんだが、一台も通りやしねぇ」

霧雨ごしに見る、街灯のぼんやりとした光に照らされた白髪の男は、どこかこの世のものではないような気配をまとっていた。
本当にこの人は生きている人間なのだろうかと、訳のわからない疑問を梨代子は抱いた。特に信仰している宗教などは持たず、超常現象等もたいして信じていない梨代子であったが、そのときだけはたしかにそう思ったのだった。

梨代子は公園の中に入ると、ベンチの近くまで歩を進めた。顔を上げた男とまっすぐ目が合う。

「あの、このあたりは市街地ですから、ほとんどタクシーは通りませんよ。でしたらもう少し歩いて、駅まで行ったほうがよろしいかと思います」
「うん、ちょうど俺も同じようなことを考えてたとこだよ。……なぁ、ところで、このへんにどこか泊まるとこはないか?ビジネスホテルとか、泊まれりゃなんでもいいんだが」
「えーと…そうですね……残念ですけれど、このあたりにそういった場所はありませんね……」
「そうか、そりゃ残念だ。駅はあっちだよな」
「はい、そうです」
「すまんな、ありがとよ」

男はそう礼を言うとベンチから立ち上がった。
背を向け、雨の中を水たまりをさけて歩きだそうとする男に、梨代子は思わず声をかけていた。

「あの、泊まるところをお探しなんですか」

男は振り返ると、何度かまばたきをした。白い髪の上についた水滴が小さな玉になってすべり落ちた。

「ああ、とりあえず今日の宿を見つけねぇと」

梨代子は傘の柄を強くにぎると、男に一歩近づいた。
突拍子もないその言葉は、意外にもするりと口からこぼれた。

「もしよろしかったら、うちにいらっしゃいませんか。部屋は余っていますし、布団も服もありますので」

男は片方の眉を上げ、驚いた顔をした。

梨代子自身にも、とんでもないことを言っているという自覚はあった。見ず知らずの男を自宅に泊めるなど、普段の梨代子からすれば考えられないことだった。
しかし、そのときだけは、そうすることが必然であると思えたのだ。泊まる場所を探している男と、家に部屋を余らせている女。パズルのピースが正しい場所にぴったりとはまるような、ごく当たり前のことのように梨代子には思われた。

「去年、父が海外転勤になりまして、母も父と一緒に行ってしまったので、今うちにいるのは私ひとりだけなんです。私の父が使っていた部屋でよろしければお泊めできますが、いかがですか」
「……本当にいいのかい」
「ええ、もちろんです」

男は立ち止まり、あごに手を当てて考えているようだったが、すぐに口を開いた。

「そうか。なら、お言葉に甘えようかな」

梨代子が傘を持ち上げて、どうぞ、と言うと、男はちょっと笑って梨代子の傘の中に入って来た。
梨代子の持つ透明なビニール傘は一般的なサイズであったので、ふたりで入るには狭く、男の肩は若干はみだしたままだった。

「じゃあ、行きましょうか」
「ああ」
「ここからだと私の家まで歩いて十分程度ですよ」

自分よりいくらか背の高い男のために傘をかかげてやりながら、梨代子は歩き出した。

梨代子はどちらかというと人見知りな性格であり、自分のすぐ近く、いわゆるパーソナルスペースに親しくない人間が侵入することを不快に思うたちであった。しかし、名前も知らぬ男と肩がこすれるほどの近さで隣り合っているにも関わらず、なぜか嫌悪感は少しもなかった。
ふたりはしばらく黙ったまま静かな歩道を並んで歩いていたが、ふいに男が左手で傘の柄をつかんだ。

「疲れるだろ。俺が持つよ」
「…あ…、すみません、ありがとうございます」

梨代子が手を離すと、男は傘を受け取り、梨代子のほうへ顔を向けた。

「野村さん、だよな」
「…ええ、そうです。……でも、どうして」
「さっき、名札をつけてただろ」

梨代子は自分がいつもエプロンの胸元に、名字の書かれたプレートをつけていることを思い出した。椅子に座っていた男からだとちょうど目線の位置に当たるので、そのプレートがよく見えたのだろう。

「お名前を聞いてもよろしいですか」
「赤木、だよ」
「……あかぎさん」
「ああ」

赤木と名乗った男は、水たまりに足をつっこんで盛大に雨水をはね飛ばしてしまい、濡れたズボンの裾を見て眉をしかめた。

「しかし、野村さん。ちょっと不用心すぎやしないかい。若い女のひとり暮らしなのに、こんな得体の知れない男を泊めようなんて」
「そうでしょうか」
「少なくとも俺はそう思うがな。やっぱりやめたって言っても別に構わねぇんだぜ」

赤信号の横断歩道の前で、梨代子と赤木は立ち止まった。
どう返答しようか考えながら、梨代子は真横に立つ男に目をやった。メガネのレンズに細かい水滴がついて、視界は少しぼやけていた。

「………昔話では、」
「ん?」
「昔話では、宿を探している人を助けてあげないとばちが当たると、相場が決まっているものなんです」
「昔話?」
「ええ。似たようなお話は世界各国にありますが、そうですね、例えば『貧乏人とお金持ち』とか」
「なんだいそりゃ」
「旅人の格好をした神様がひと晩泊めてくれと訪ねて来るのですが、いろいろ理由をつけて断ったお金持ちは報いを受けて、喜んで迎えた貧乏人には幸せが来る、というお話です」

車道を行き交う自動車を目で追いながら、梨代子はそう言った。赤木はふっと小さく笑って、梨代子の肩先が濡れぬように傘の位置を少し動かした。

「そんなら俺はカミサマってことかい?」
「その可能性もありますね」

信号が青に変わり、ふたりはまた歩き出した。

「ところで赤木さん、夕食はお食べになりましたか」
「いいや。そういや昼飯も食ってねぇや。ずっと寝てたからな」
「それなら、なにかお作りしますよ。ひとり分もふたり分もたいして変わりませんから」

まるで仲の良い恋人同士のようにひとつの傘を分け合いながら、梨代子と赤木は雨の降る道を歩いて行った。
ふたりはまだ、名字だけしかお互いのことを知らないのだった。




Der Arme und der Reiche
KHM 87