1. 熊の皮を着た男




野村梨代子は家の居間にある大きな本棚の前に立ち、本を引き抜いては、ぱらぱらと中身を確認していた。

「今日はなにを読んでくれるんだい」

ソファーに座ってウイスキーのグラスを回している男、赤木が訊ねる。

「そうですね……今日は『熊の皮を着た男』にしましょう。少し長いですよ、だいたい二十分くらいでしょうか」
「ああ、大丈夫だよ」

グリムの昔話と題された本を持ち、梨代子は赤木の顔が見えるよう、赤木と直角の位置に置かれたソファーに座った。

「じゃあ、始めますね」

梨代子は本を開いて軽く咳払いをすると、すぅと息を吸いこんだ。

「グリム童話より、『熊の皮を着た男』」

赤木はグラスをテーブルの上に置くと、本を前にして真剣な顔をしている梨代子に目をやり、ごくわずかに微笑んだ。梨代子は気がついていなかったが、赤木はいつもこの瞬間、物語が始まる瞬間にほんの少しだけ笑うのだった。

「むかし、あるところに、若い男がいました。兵隊にやとわれて勇ましくはたらき、鉄砲玉が雨あられととんでくるなかを、いつもまっさきに進みました……」




どうしてふたりの間にこんな習慣ができたのか。思い返してみると、たしかきっかけは『かしこいグレーテル』であったと梨代子は回想する。

梨代子の勤める区立図書館では毎月、第一、第三木曜日に小学生未満の子どものためのおはなし会を、第二、第四土曜日に小学生以上の子どものためのおはなし会を開催していた。
その日は第二金曜日で、その翌日のおはなし会は梨代子が本を読む当番の日だった。読むのはグリム童話の中の軽快な小話『かしこいグレーテル』だった。

おはなし会があるとき、梨代子はいつも前日の夜に、読む予定の話を家で何度か練習することにしている。その日も練習をしようと思っていたのだが、夕飯を食べる少し前に、赤木がやって来たのだった。
赤木は仮にも客人であるし、誰かに練習を聞かれるのはあまり気が進まなかったのだが、やらないわけにもいかず、赤木の了承を得て、梨代子はソファーのすみで『かしこいグレーテル』を読んだ。
赤木は梨代子のほうには目を向けず、いつものように酒を飲んだりタバコを吸ったりしていたが、その実、耳ではきちんと話を聞いていたらしい。オチにあたる部分で赤木は静かに噴き出し、物語が終わると笑いながら「面白い話だなぁ」と言ったのだった。

なにがそこまで赤木の琴線に触れたのかはわからないが、赤木は『かしこいグレーテル』をいたく気に入ったらしかった。似たような話がもっと聞きたい、読んでくれと言うので、梨代子は戸惑いながらも本棚からイギリスとアイルランドの昔話の本を引っ張り出した。
梨代子の十八番はしっとりしたロマンチックな童話であり、こういった類の大人向けに近い笑い話は実はあまり得意ではなかった。だがそこまで言うなら仕方ないと、本の中から『だんなもだんなも大だんなさま』というコミカルな小話を選んで語った。
赤木はやはりオチの部分でくすくすと含み笑いをもらし、まるで子どものような、楽しそうな顔を見せたのだった。

それ以来、赤木は梨代子の家にやって来ると、決まってなにか話を読んでくれと言うようになった。




「……悪魔はいいました。『どうだ、おまえの魂ひとつのかわりに、ふたつ、魂を手にいれたぞ』」

梨代子はぱたんと本を閉じると、顔を上げた。

「おしまいです」

赤木は閉じていた目を開けて、すっかり氷の溶けてしまったウイスキーの水割りに手を伸ばした。

「うん、いい話だな。特にラストがいい」
「小学生くらいの男の子が喜んで聞いてくれるんですよ、この『熊っ皮』は。主人公が力強いし、話に筋がきれいに通っているからでしょうか」
「しかしよ、途中で出てきた三姉妹なんだが、実の姉妹なのにそこまで性格に差がでるもんかね」
「…そう言われれば、そうですね……末の娘はすごくいい子なのに、上のふたりのお姉さんたちはやたら意地悪に描かれていますね。本当の姉妹なのに…。でも三人兄弟であれば、いちばん末の子が幸せをつかむというのは一種のパターンのようなものですから」
「そういやぁ、そんな話ばっかだよな。まま母は自分の子どもばっかりかわいがって、義理のほうの子どもはいじめるもんだし」

赤木は残っていたウイスキーを飲んでしまうと、テーブルの上に置いてあったマールボロのソフトケースとライターを手にとった。
くわえたタバコに火をつけ、美味そうに煙を吸いこみながら、いつものように赤木が言う。

「なぁ、梨代子。もうひとつ、なにか読んでくれよ」

その台詞を言うときの赤木は、もっともっとと話をせがむ小さな子どもと同じ顔をしていると、梨代子はいつも思うのだった。
梨代子はつい頬をゆるませながらソファーから立ち上がった。

「それでは、仲の良いふたり姉妹が両方とも幸せをつかむ『クルミわりのケイト』を読みましょうか。しかもお姉さんのほうはまま母の連れ子だから、ふたりは義理の姉妹なんですよ」
「へぇ、そんな話もあるのか。面白そうだな。聞かせてくれ」




Der Bärenhäuter
KHM 101