小説 | ナノ


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 再度入った室内は、昼間とは比にならないほどの死者の気配で満ちており、ソーヤは軽い眩暈を覚えた。だが、オームが羽を膨らませて毛玉になるような有様というのに、この家の主であるコータルはそれよりも初対面のトクに異常な警戒心を示していた。
 灰色の無精ひげで覆われ、常に険しい表情のトクにも非があるなと思いながら、ソーヤは二人を放置してオリヨの部屋に繋がる階段を一歩ずつ上がる。
「貴方は誰ですか!?」
「トクちゃんです」
 階下の二人のやりとりを放置し、オリヨの部屋をそっと開ける。扉の隙間から漏れる優しい月の光を確認したソーヤはほっと安堵のため息を漏らした。
 その直後だった。家中の明かりが瞬時にして消え、ソーヤが部屋の中に引きずり込まれたのは。
 籠ごと投げ出されたオームがギャアギャアと叫ぶ。前のめりに転んだ際に打った額を押さえて顔を上げると、目の前には窓から漏れた月の光を背にして立つオリヨの姿があった。
 戸の向こうから名を呼ぶイノラの声に返答も出来ず、ソーヤはじっとオリヨを見つめる。否、それはもうオリヨではなかった。
「あなた、オリヨのお母さんですよね?」
 その問いかけに、オリヨの姿をした者は歪んだ笑みを浮かべて首を縦に振る。やはり、彼女の母、スイはもう亡くなっていたのだ。それも悪いことに強い未練に取り付かれた状態で。
 月明かりでは見える範囲に限りがある。だが、今のオリヨは不自然なほど姿がはっきりと見えていた。その姿に五年前の記憶が蘇る。
「お前ね、鳥を連れた鈴送りの少年は」
 オリヨの体を奪ったスイは籠を拾い上げ、まだ這い蹲ったままのソーヤの右手を踏みつける。右手首は紐で鈴が結ばれているため、踏みつけられては鈴を鳴らすことが出来ない。
 顔をしかめるソーヤに、それは割れ鐘のような声で笑う。同時にオリヨの体が黒く歪んでゆく。
 不味い。ソーヤは唇を噛んだ。今、オリヨの母はオリヨの魂を食らおうとしていた。死者が生者の肉体を食らうことはそうない。弱らせ、抵抗できなくなった生者の魂を食らうのが一般的である。生者の色が変色していくのは、死者に近づいていることを意味している。
 何とか動こうともがくのだが、身体能力がそれほど優れていないソーヤが同年代の少女、それもスイに乗っ取られたオリヨに押さえつけられては適うわけもなく、蝕まれてゆくオリヨを見上げることしか出来なかった。
「邪魔をしないでもらえる? お腹がすいて仕方が無いの。分かるでしょう。父に母を喰い殺された貴方なら」
 その言葉に、ソーヤの目が見開かれる。
 五年前、仕事に出た父は帰宅予定日の三日後の深夜、父の皮を被った何かになって帰ってきた。
 帰ってきたそれはまず出迎えた母を喰い殺し、祖父を傷付け、オームの騒ぐ声を聞いて起きてきたソーヤをも喰おうとした。
 あの時の光景は今でも夢に見る。廊下の戸の隙間から見えた、赤く染まった居間で転がる物言わぬ母。傷付いた祖父。そして隙間から此方に向かって手を伸ばす父だったものの姿を。
「付き人なら来ない。私の夫が相手をしているから」
 忌まわしい記憶を思い出し、息が荒くなるソーヤへと、それは畳みかけるように囁く。事実、階下では操られ、放心状態になったコータルとトクが対峙していた。
「お前に私は送れない。家族が喰われるのは一番のトラウマでしょう? 可哀想に。でも安心しなさい。オリヨを食べた後、お前も食べてあげるから。一人は、寂しいでしょう?」
「……オーム!」
 大声で叫ぶと、オームが籠を持っているオリヨの手を噛む。それに驚いたスイがバランスを崩して鳥籠を放した。それを見逃さず、ソーヤは押さえられていた右手を抜き、腕を突き出すと同時に鈴を鳴らす。
 リン、と澄んだ美しい音色が響くと同時にオリヨの体が崩れ落ち、黒い影と化した死者が彼女の体から引きずり出される。
 引きずり出されたスイは苦々しげに何故だと呟く。死者の噂では鈴送りは心が揺らぐと鈴の音も揺らぐと言われている。だが、最大のトラウマを蘇らされたにも関わらず、ソーヤの鈴の音は聞いたことも無いほど澄み渡っていた。
「僕は送れるよ。いいや、送らなきゃならない。この旅を終わらせて、送らなきゃならない人がいるから」
 壊れた鳥籠から出したオームを肩に乗せ、そしてまた鈴を揺らす。また、澄んだ鈴の音が響き、スイの影が悲鳴と共に大きく揺らぐ。
 すっかり影を失い、生前の姿となったスイをソーヤは癖のある髪の間からじっと見つめ、鈴を持った右手を動かそうとする。が、その手は思いもよらぬ人物によって止められた。
「ソーヤ君。お母さんを……、消さないで」
 すがるように腕を握るオリヨの手は、声は、震えていた。
「知っていたの。お母さんはもういないって。毎晩私を連れていこうとしているのは、お母さんだって。でも、それでもお母さんに会えて嬉しかった」
 オリヨは全て知っていた。知った上で、自らを捧げようとしていた。
「駄目だよ。そんなの」
 小さく呟き、ソーヤはオリヨの手を左手で掴む。その手はオリヨと同じくらい震えていた。
「君がいなくなったら、コータルさんはどう思う? 残される寂しさ。それは一番オリヨが分かっているよね。オリヨ。君にとって大事なのは戻って来ない過去じゃない。これから訪れる未来だ」
 その言葉を耳にしたオリヨの目から、大粒の涙が零れ落ち、掠れた謝罪の言葉と共にソーヤを掴んでいた手が離れた。
 同時に心身ともに限界が来ていたオリヨは意識を失い、支えきれなかったソーヤ諸共床へと崩れ落ちる。
 器用に頭に移動したオームがオジイチャンと叫んだ時、ソーヤは扉を破壊して乗り込んできたトクと、オリヨに飛びかからんとするスイの姿を見た。

「最後の最後まで手のかかる孫だなあ」
 無意識に目を閉じていたソーヤはイノラの苦笑混じりの声に目を開け、現状を把握する。
 彼の前には、スイの手を掴んで立つイノラと、オリヨがソーヤを押しつぶさないように支えてくれているトクの姿があった。そう言えば、オリヨがのしかかる感覚はなかった。
「すまねえな坊。人間相手しか役に立てなくて。あと、扉」
「ううん。ありがとう、トクちゃん。あ、コータルさんは?」
「……寝ている」
「それ、眠ってもらったの間違いだろ……」
 落ち着きを取り戻したソーヤとは反対にスイは動揺していた。幾ら鈴送りの一族と言えど、生者が死者に触れることは出来ない。が、スイの腕はイノラの手によってがっちりと掴まれている。
「何故、何故私に触れられる……!?」
「答えは簡単。お前さんと同じだからさ」
 スイの手を掴んだイノラは困ったように笑う。
 五年前のあの日。廊下の戸を開けてソーヤを喰い殺そうとした死者を送ったのは、重傷を負ったイノラであった。
 その後、イノラは胸の傷からの出血が多く、間もなく事切れた。本来ならばイノラの魂はこの世から離れる筈だったのだが、ここである誤算が生じる。
 体を離れて不安定な状態のイノラの魂をまだ幼いソーヤが捕まえ、あろうことかリュックに封じてしまったのだ。
 その結果、イノラは自分の意思でこの世を離れることもできず、リュックに封じられた死者兼お守りとしてソーヤの旅に付き合っていた。
「鈴送りの子息が外法に頼るなんてね」
「そう。僕は知らないとはいえ、許されないことをした。喰われた両親の魂はもう消えてしまって存在しない。そして、お爺ちゃんも……」
 死者に喰われた魂は死者と同化してしまうため、もうこの世に現れることは出来ない。故郷にある両親の墓には、ただ器が眠っている形だけの墓である。そして、悪意がないにしろ外法によりこの世に存在しているイノラもまた……。
「あなたはまだ人を食べていない。今ならまだ間に合います。一度送らなきゃ行けないけど、また来ることもできる。あなたは僕の両親とは違うんだから」
「今更どの面下げて戻れるの? 私はあの子を……!」
「嘘はもういいですよ。あなたは本気でオリヨを食べたかった訳じゃない。他の死者に唆されたんでしょう。それに、オリヨが倒れた時、あなたは彼女を助けようとしていたんですよね」
 送られることもなく死体と共に晒されていたスイは弱っていた。そこに悪意ある他の死者が唆し、道を逸れてしまっただけにすぎない。事実、オリヨが邪魔するまでの鈴の音でスイの悪意はほとんど消えており、オリヨが倒れた際には触れられないと分かっていながらも彼女に手を差し伸べていた。
「それに、オリヨの名前、あなたが付けたんですよね? 古い言葉で「ここに居てほしい」という意味でしょう? オリヨのこと、本当に大事に思っていたんですね」
「……馬鹿馬鹿しい。もういいわ」
 言葉とは裏腹に、スイは憑き物が落ちたかのように大人しくなった。
 すっかり黒い影も失い、ただの死者に戻ったスイはトクによってベッドに戻されたオリヨを見つめていた。何か伝言でもあるかと尋ねると、彼女は黙って首を横に振った。
「ああ、やっぱり噂通りの音色なのね。……ありがとう」
 最後に穏やかな笑みを浮かべ、スイは鈴の音に送られていった。
 安堵と、寂しさが入り混じった表情で振り返ると、そこには次に送らなければならない相手が立っていた。
「ソーヤ、よくやったな。次、頼むぞ」
 これ以上ない重い依頼に口を閉ざしていると、フードの上に飛び乗ったオームがワカッタと鳴いた。


 五年ぶりに帰ってきた故郷は拍子抜けするほど変わっていなかった。
 トクが根回しをしてくれたのか、過剰にソーヤに接する者もなく、ただ穏やかな日常がそこにはあった。
 トクとソーヤとイノラ。三人で並んで歩く丘は夕日で橙に染まり、二つの影法師が長く伸びていた。夕日を背に受けて歩いたその先には、ソーヤの一族の墓がある。トクの家族が定期的に掃除をしてくれていたのか、五年ぶりに参った墓は綺麗なままだった。
「トクちゃん。今まで世話になったな」
「本当にな。坊の事は任せておけ」
「ああ、助かるよ」
 また逢おう。とは言わず、簡単な挨拶をしたトクはその場を去ってゆく。恐らく、別れは二人だけの方がいいだろうと気を利かせてくれたのだろう。ソーヤより付き合いが長いのだから、惜しむことは山とあるだろう。にも関わらず、ソーヤの時間を優先してくれたトクの優しさに、胸が苦しくなった。
 最後というのにイノラの口数は少なく、只ならぬ雰囲気を察したのかオームも黙っていることが多い。水で墓を洗う間、オームを籠から出してやると、イノラをこよなく愛している鳥は高い声で鳴きながらイノラの寄代となっているリュックに体を寄せ、触れることの出来ない祖父に甘える。
 墓を掃除し、花を供える間、ソーヤの脳裏に今までイノラと過ごした記憶が波のように押し寄せ、イノラとの別れを拒む気持ちが現れ始める。
「さあ、ソーヤ。送ってくれ」
 本音と建て前の葛藤に震えていると、イノラが優しい声色で促しを掛けてきた。言い返そうと振り返って理解する。イノラの体は半分ほど黒く歪んでいた。
 幾ら強靭な力を持っていたイノラでも、五年以上も帰る所に帰らなければ、魂は穢れ、堕ちてしまう。むしろ五年間も正気を保っていた方が異常だ。結局、自分は最後まで祖父を振りまわしていたのだと思うと、迷っている暇は無かった。
「じゃあ、送るよ」
 いつものように向かい合って座ると、いつもとは違いソーヤが静かに鈴を鳴らす。
 鈴が揺れる度に周囲の空気が震え、イノラの色が、影が、存在が薄くなる。意識すれば辛くなると分かっているのに、ソーヤの頭には今までの暖かな思い出が。胸には祖父への多すぎる感謝と謝罪の言葉が。そして目からは大粒の涙が止めどなく溢れてゆく。
 頭も、心も、顔も見られたものではないのに、それでも鈴の音は澄んだままで、イノラの存在は着実にこの世から消えようとしていた。嫌だ、止めろ。心の中でどれほど叫んでも鈴の音は変わらず、イノラの消滅は進んでゆく。
「なあ、ソーヤ」
 不意に声を掛けられて顔を上げると、そこにはほとんど消えてしまっているイノラの姿があった。鼻をすすりながら返答すると、鼻が詰まっているからか、いつもより無愛想な声が出た。
「お前、オームはあまり自分に懐いていないって言っていたけど、それは違うぞ」
 何を言い出すのだと思っていると、自分の名を呼ばれたことに反応したオームが、ヨンダ? と騒ぎ出す。
「オームの喋る言葉な。あれ全部ソーヤの言葉を真似しているんだよ。ああ見えてオームはソーヤのこと一番よく見ているんだぞ。な、オーム」
『ソウダネ。オジイチャン!』
「ほら!」
「……意味分かっていないでしょ」
 名を呼ばれると直ぐに調子のいい返答をするオームに、涙を忘れて思わず笑う。
 ひとしきり笑いあった二人はどちらが言うでもなく顔を見合わせ、そして頷き合った。
「ああ……、やっぱり綺麗だな。ありがとう、ソーヤ。お前はもう爺ちゃんがいなくても大丈夫だ。片意地張らず、そのままのソーヤで真っ直ぐに生きなさい」
「うん。……僕の方こそ、ありがとう。お爺ちゃん、大好きだよ」
 短い言葉にありったけの気持ちを込め、ゆっくりと最後の鈴の音を響かせる。
 いつも以上に透き通ったその音に乗せられ、イノラは満面の笑みでこの世を去った。

 イノラが去った丘でソーヤは空っぽの墓を見つめて立ち尽くしていた。どれほどそうしていただろうか。頬を撫でる風の寒さに我に返り、丈の合っていない外套を着直して帰り支度を始める。
 喪失感からふらつく足取りで、最後にイノラのいないリュックを拾い上げる。するとそれまでリュックの傍で何かもごもごと喋っていたオームがソーヤの肩に留まった。
 初めてオームが自ら肩に留まったことに目を白黒させていると、オームは声を張り上げ、
『ソーヤ! スズノネ、キレイ!』
 それは、イノラがソーヤを励ます度に口にしていた言葉であった。
「なんだ、お爺ちゃんの嘘つき……」
 最後にイノラが置いて行った嘘に、ソーヤの顔に再び笑顔が戻る。イノラはいなくとも、イノラの心は、言葉はこうして生きている。そう思うと、寒さが幾分和らいだような気がした。
 先祖が眠る墓に向けて一礼すると、しっかりとした足取りでゆっくりと丘を下る。性懲りも無くフードによじ登るオームを降ろすことはもうなく、ソーヤは穏やかな笑みを浮かべたまま歩いた。
 丘の麓でこっそりと待っていたトクは、大人ぶっていた顔から一転し、少年らしくなったソーヤの顔つきを見た途端、男泣きに泣いた。
 オームと共に慰めるソーヤの手首から、金色の鈴が美しい音を奏でる。時を同じくして丘の上に並んだ鈴送りの墓では、錆付いた鈴と共に、夕日によく似た色の花が風に吹かれて微かに揺れていた。
 持ち主を失い、錆付いてしまったその鈴はもう二度と鳴らない。
 けれど、その鈴の音は、新たな担い手に確実に受け継がれていた。

 お前の鈴の音は綺麗だ。
 優しい嘘とばかり思っていたその言葉は、僕のこれからの人生で大きな支えとなった。

墓参りアンソロジー Epitaph 寄稿作品


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