脇目もふらずにクロキとシロサ、二人は走り続けた。
虫達が蠢き始めた町を走り抜け、崩壊が始まった郊外のアスファルトの道を走り抜け、そして山道をも走り抜ける。時折木々の間から見える空はまだ赤く染まっていて、クロキの焦りを軽減させた。
木々の根が這う事により、足元の不安定な山道を走る事に今更ながら不安感を抱いたクロキはこっそりと背後の様子を窺った。
自分はこの道を走り慣れたからこそ、薄暗い山道を走る事ができる。しかし後ろを走る、シロサと名乗ったこの少女は初めてこの道を走るのだ。視界の悪い山道は歩くだけでも困難だ。走る事など、論外にも等しい。
――お?
だがクロキの心配を他所に、シロサと名乗った少女は足取りも軽く山道を走っていた。軽やかなそのテンポは、地を這う根に邪魔される事なく続いている。
その様子から、クロキかは彼女の足取りより、激しく揺れ動くスカートの方が危なっかしく思えた。クロキだって年頃の男だ。仕方ない。
日が暮れてきたせいか、シロサの真っ白な髪と肌が闇に浮かび、まるで妖精が舞っているように見えた。
ちらちらとシロサを、いや、正式に言えばシロサのスカートの下を気にするクロキであったが、何者かの気配を感じて突然足を止める。
突然止まった事に反応出来なかったシロサがクロキの背中に、主に胸を重点的にぶつからないかと淡い期待を抱くも、シロサは急な行動にも即座に反応する。数歩後ろで立ち止まるシロサに、クロキは心中で悔しさにのたうち回った。
「……どうしました?」
「しっ……!」
当然の疑問に思わず質問をするシロサに、クロキは黙っていろという分かりやすい合図を送る。
するとシロサは素直に口を閉ざし、木に背を預けて周囲を窺うクロキにそっと寄り添った。衣越しにじわりと伝わる体温に、何故か例の少女の姿が連想され、クロキは無意識に歯を食い縛る。
二人が寄り添うずっと向こうで、ガサリと茂みが激しく揺れた。途端、緊張が走る。そうする内にも茂みは揺れ続け、やがて二人の目が届く場所にまでやって来た。
もし虫ならば……。そう思うと嫌な汗が流れた。
町が虫の生息地となり、森や山などの自然が奴等の縄張りから無縁となったとは言え、虫が一切出現しないという訳ではない。時折都会に野性動物が紛れるのと同じように、虫もまた山に紛れ込む事があるのだ。
「大丈夫ですよ」
やられる前にやるべきか。足下に転がっていた石を鈍器代わりに構え、揺れ動く目の前の茂みに突っ込もうとした時、シロサがそっと手を添えて大丈夫だと諭す。既に日は暮れかけていて彼女の表情を見る事はできなかったが、クロキは彼女が穏やかな笑みを浮かべているのだろうと思った。
石を持ったクロキの手をそっと下げ、シロサは茂みに向かって一礼する。すると、茂みが一層激しく揺れ動いて、ぴょこりと音の正体が顔を覗かせた。
短い毛に覆われたスラリと長い首に面長の顔。そして闇夜のように黒く、ドングリのようにくりっとしたつぶらな目。そう、音の正体は鹿だったのだ。
拍子抜けするクロキを他所に、鹿は悠々と茂みから出てきてシロサとクロキを交互に眺めた。そしてシロサを暫く見つめた後、驚いた事に彼女の頬に顔を擦り付けたのだ。
「うわ、珍しい」
その光景にクロキは驚愕の言葉を口にした。
鹿などの草食動物は他の生き物より警戒心が高い。飼育されて人に慣れたものは例外として、野生の生き物は人間等に対して一定の距離を保つものだ。
だが、この鹿は警戒心を抱く処か、自らシロサという少女に接している。今まで姿を見るなり逃げ出していた鹿が自ら接触するなど、クロキにとっては信じられない光景なのだ。
「ふふ、ありがとう。私、この人に着いて行かなきゃならないから、貴方もお家に帰りなさい」
コシコシと、何度も顔を擦り付ける鹿を帰るよう優しく促し、シロサは鹿の首をゆっくり撫でた。
動物が人間の言葉を分かるものか。そう考え、まるで幼稚園児に言っているようなシロサを心中でせせら笑うクロキであったが、鹿は彼女の言った事をまるで理解しているように、一歩下がって一礼をすると彼女の元から去って行った。
去り際に鹿に値踏みされるように見られたクロキは半分呆然としながら、そしてもう半分不快に思いながら、止まっていた足を動かし始めた。
「あんたさ、鹿と話でも出来んの?」
「えっ? 話は……」
「出来ないよな、化物じゃあるまいし。悪い、変な事聞いて」
「化物……ですか」
「ほら、急いだ急いだ。家はもうすぐだぞ」
何故かクロキの発言にシロサは少々暗くなった。が、彼は気にしていないのか気付いていないのか、少し俯いているシロサを半ば急き立てるようにして走らせる。
それから二人は無言でひたすら走り続けた。その間にシロサは地面を多い尽くす木の根に躓く事も、転ける事も無かった。それどころか、走りなれたクロキが木の根に躓き、シロサに心配される事が二度三度あった程だ。
余所者のシロサに心配されたクロキは恥ずかしいやら、苛立たしいやらでひたすら無言で足を進めていた。だが、頂まで来ると不意に「もう大丈夫だ」と歩を緩めた。
あと半刻で完全に闇に包まれると言うのに、何故ここで走る事を止めるのかとシロサは疑問を抱く。あと少しで着くと彼は言った。ならば一気に走りきった方が安全ではないのかと。
その疑問に答えてもらおうとシロサは不安気な表情でクロキの顔を伺う。が、如何せん彼は日本人特有の空気で場を察する事が出来ない。更にどっぷりと暮れた日が彼のそれに拍車をかけていた。
「あ……、あの!」
どうして歩いてしまわれるのですか? 言葉にしてやっとクロキはシロサの戸惑いに気付いた。だがクロキはその問いに答える事なく、ずんずんと奥へ進む。小さな不安がシロサの胸をよぎった。
暫く歩くと、突然クロキは木々を押し潰して岩壁にめり込んでいる巨石を指差した。
それに対してシロサは素直に巨石を見つめる。しかし幾ら待ってもクロキからの口から説明は出て来ない。またもや疑問が解消されずに困ったシロサは、おずおずと石がどうかしたのですか? と尋ねる。
そこでようやくクロキは石を指差しただけでは伝わらないのだと気付いた。滅多に余所者と関わらないクロキは、自分が分かっている事は当然他人も知っていると思っていたのである。
「あー……、そっか分からないのか」
当然の事を当然と思っていないクロキにシロサは「この人大丈夫かしら?」と少し心配になった。
「あれ、虫と一緒に落ちてきた隕石」
何処から説明したら良いのか分からないクロキはとりあえず初めから説明する事にした。
隕石のすぐ側に歩み寄ったクロキは、こっちに来なとシロサを手招きした。戸惑いつつ隕石の側に寄ったシロサは、武骨な表面から滲み出る隕石の気迫に思わず息を呑んだ。
ドクン、ドクンと心臓の鼓動が嫌に大きく感じられ、シロサは咄嗟に両手を胸に押し当てる。これは只の石ではない。シロサの本能がそう感じているのだ。
「大抵のやつは衝突と同時に壊れちまったけど、何個かはこの通り原型のまま残ってるんだよ」
「あっ……!」
何の躊躇いも無く、手の甲で隕石を数回小突くクロキにシロサの口から驚きの声が漏れる。こんな莫大な力を放つ石に簡単に触れる等、彼女は信じられなかったのだ。
だがクロキは当然のように隕石に触れ、声を上げたシロサを怪訝そうに見ている。すみません。申し訳なさそうに謝罪をしながら、シロサは再び隕石に視線を移す。やはり、謎の気迫が隕石から滲み出ていた。
「どういう訳か虫はこれに近付こうとしないんだ。と言うより、拒否反応を示すな。一度取っ捕まえた虫を隕石に近付けてみたら、引っくり返って身悶えしながら死んじまったよ」
殺虫剤の成分でも含まれてんのかね。ガツガツと乱暴に隕石を叩くクロキに冷や汗を流しながら、シロサは「それは違うと思います」と胸中で静かに突っ込んだ。
言っちゃ悪いが、クロキはお世辞にも人が良いとは言えない。どちらかと言うと、ガラが悪い方の部類さだろう。それ故シロサはクロキの事を少し怖く思っており、意見する事が中々出来ないでいるのだ。
これでシロサも歩いた理由に納得しただろうと、クロキは再び帰路に向かう。クロキの大きな背中を追いかけながら、シロサはチラリと肩越しに隕石を見る。
「……?」
去り際に隕石をもう一度見たシロサは、何かを呟いた。だが虫の羽音のようなその独り言は、クロキの耳には届かなかった。
・
クロキの自宅がある山頂に着いた頃には、既に辺りはどっぷりと闇に染まっていた。闇の中ででんと構えるまともな住居を見たシロサの顔には、安堵の笑みが浮かんでいた。
安全だと言えども、やはり闇には抵抗がある為についつい警戒してしまう。そんな彼女を見てクロキはまたもや無言で隣接する山を指差した。
そこには山の頂に乗るようにして、またあの巨大な隕石がどんと腰を下ろしていた。それが指す事とは即ち、彼の家は十分安全圏であるという事である。
すっかり暗くなった道を先導して歩くクロキは、自宅を囲っている柵を慣れた動作で飛び越えた。近くに扉は有るのだが、あえてそれを無視して柵を乗り越える。どうでもいいクロキの流儀である。
しかしそれを目にして戸惑うのはシロサである。単にクロキが面倒臭がって柵を乗り越えたのか、近くにある出入り口を無視して入るのがこの家の習わしなのか。根が真面目であるシロサはどんどん遠ざかって行くクロキの背に焦りを感じながら、ひたすら困っていた。
はしたない行為には抵抗があるが、郷に入れば郷に従え、だ。恥より、全く止まる気配の無いクロキの歩みに対する焦りが勝ったシロサは意を決して、年期の入った柵に手をかけた。
――ウォン! ウォンウォン!
沈黙を破り、彼の家があるであろう方向から無数の獣の声が響く。その声に驚いたシロサは柵に伸ばした手を引っ込め、戸惑いを隠せぬ表情でじいと暗闇の奥を見つめた。
「あー、ただいまただいま。コラ、飛び付くなっていつも言っているだろ」
が、彼女の心配とは裏腹に、獣の声がした方向からはクロキの少し不機嫌な声がするだけであった。
どういう状況なのかと恐る恐るクロキの名を呼べば「何?」という何とも素っ気ない返事が来るだけであった。やがて地面を踏み締める音と共に、暗闇から羊程の大きさの四つ足の影がヌッと現れる。
姿が分かるまでの距離になった時、シロサはようやく肩の力を抜いてほうと安堵の溜め息を吐いた。そんな彼女を、四つ足の獣――クロキの家の犬達はドングリのようなつぶらな瞳で、興味深そうに見上げていた。
――可愛い……。でもどうしてこんなに沢山の犬が?
代わる代わるに身を乗り出し、フンフンと鼻を鳴らす犬達を前に、シロサは戸惑いを隠せぬ笑みを浮かべる。
「客がビビっているだろ、馬鹿。悪いなアンタ。もしかして犬が苦手か?」
「い、いえ。苦手ではありません。ただ少しびっくりしてしまって……」
「なら良かった。オラ、散れ散れ。入らんねぇだろ」
シロサを興味深そうに見つめる犬より一回り小さい犬を抱え、クロキはシロサの前に集まっていた犬達を退ける。
少し横、つまりは柵の出入り口の前に集められた犬達を見て、シロサは何だか申し訳なく思うと共に、やはり出入り口から入らないのがこの家の決まりなのだと勘違いした。
「ん」
意を決して腰より高い柵を跨ごうとすると、バランスを崩さずに跨ぐ事は困難だと感じたクロキが手を差し出した。その行為に驚き、目をしばたかせるシロサの手を掴み、クロキはぐいと彼女の体を引き寄せる。
よろめきながらも無事に柵を越えたシロサは礼を言うと共に、無神経だとばかり思っていたクロキが手を貸した事にただただ驚いた。どうやら、無神経で我が道を突き進むタイプのクロキでも、たまには気が利くらしい。
シロサが柵を越えた事により、我先にと彼女の元へ寄る犬達を見ながらクロキは少々意外そうに、
「アンタ、大人しい顔してるけど柵を乗り越えたりするんだな。てっきり出入り口から入るんだと思ってた」
ーーそれは貴方が犬達を入り口の前に集めたから……!
そう言いたいのをグッと堪え、シロサはすみませんと消え入りそうな声で謝罪する。その顔は羞恥で真っ赤になっていた。
別にいいけど。そう言って先々進むクロキの背を眺めながら、シロサは「やっぱりこの人変わっている」と心中でこっそり呟いたのだった。
・
「ただいまー」
光が漏れぬように固く閉ざされた戸を開け、まだ真っ暗な玄関にクロキが足を踏み入れる。外よりも暗い室内に抵抗を感じているシロサが室内に入った事を確認し、クロキは玄関の戸を閉め、そして鍵を下ろした。
ガチャン。無機質な鍵の音に、玄関から数歩進んだシロサはビクリと肩をすくませる。犬達とは玄関先で別れた。つまり一寸先も見えぬ闇の中、この場に居るのはシロサとクロキだけなのだ。
クロキを疑っている訳ではない。だが、もし彼が嘘を吐いていて自分を囲おうとしていたら……。
ジャリと細かい砂を踏み締める音と共に、クロキの気配が迫る。
ーー怖い。
後退するシロサの頭にはもはや恐怖しか無かった。だがそれを嘲笑うかのようにクロキは彼女に近付く。やがて彼女の背は固いもの、つまり壁に当たった。そしてクロキの腕はシロサの肩へと伸ばされる。
――……ハクトっ!
パチン。シロサが固く目を閉ざした直後、彼女の肩の横で昔に良く聞いた軽快な音がした。そして音と同時に瞼の向こうが明るくなり、頭上から低いクロキの声がした。
「アンタ此処にいたのか。何? ビビってんの?」
恐々顔を上げると、相変わらずの目付きの悪い表情で見下ろしているクロキがいた。答えられずにいるとクロキは壁から手を離し、靴を脱いでシロサに背を向けて奥の戸を開けた。
壁に目を向けるとシロサの肩の横、つまりクロキが手を置いていた場所には懐かしい、電気のスイッチがあった。単に彼は明かりを付けようとしただけだったのだ。
ーーまた、疑ってしまった。
これでは自意識過剰と言われても仕方ない。そう己を叱責しながら、シロサはクロキが出て行った戸へと向かう。
「クロキさん」
戸から顔を覗かせ、シロサはクロキの名を呼ぶ。けれど目に入ったのは縦に続く長い長い廊下だけで、彼の姿は無かった。
また、放って行かれた。どこまでも自由なクロキに一種の尊敬の念を抱き、こっそりとシロサは落ち込む。
どうすれば良いのか分からず、廊下に背を向けて立つ。古い日本家屋であろうこの家の玄関は、古めかしいながら暖かい気に満ちていた。壁に飾られている中称画を眺めていると、廊下の奥から地響きに似た音が迫って来た。全く想像もつかない展開に、シロサは廊下に向き直ったまま突っ立つ事しか出来なかった。
緊張した表情で手をギュッと胸の前で握っていると、急に音が止み、そして小さな顔が三つ四つと廊下の隅から縦に積まれた形で覗き出た。
これまた目をしばたかせながら停止するシロサに、廊下の隅に現れた小さな顔は、
「うわー、綺麗なお姉ちゃんだ!」
「外の人だ」
「白いお姉ちゃんこんばんはー! 兄ちゃんに変な事されなかった?」
五歳〜十であろう二人の少年、二人の少女達はそれぞれ喋りながら、廊下からシロサの方へ歩いて来た。一番幼い少女は恥ずかしいのか、廊下の隅から顔を覗かせるだけだが、他の三人はズカズカと無遠慮に近寄る。
気迫に押され、吃音混じりに挨拶を交わすと彼等の表情は益々輝いた。
「お姉ちゃん名前は!? 何歳? 彼氏いる!?」
「……おい、モロミ。お前何変な事ばっか聞いてんだ。アンタも早く上がんな」
四人の中で年上であろう少年がシロサの手を握りながら質問攻めしていると、ようやくやって来たクロキが拳骨を降り下ろす。痛みに呻くモロミと呼ばれた少年を無視し、クロキは未だ履き物を脱がずに玄関で立っているシロサを手招きする。
戸惑い気味に靴を脱いで玄関に上がると、クロキに抱かれている少女。廊下の隅でいた女の子がはにかんだ笑みを浮かべて「いらっしゃい」と、歓迎の言葉を口にする。
「ミキばっかり抱っこズルいよ! クロキ兄ちゃんあたしも抱っこして!」
「僕も僕も!」
「ヤダよ。お前等重いもん。親父かじいちゃんにしてもらえ」
──シロサ、また泣いているのかい? ……おいで。
言うなり顔を真っ赤にしてクロキの肩に顔を押し当てる少女を見て、クロキの取り合いを始めた幼子を前にしたシロサの顔にはどこか哀しみを含んだ笑みが浮かぶ。
もう二度と味わう事のない"家族"。十年前に唯一の家族を失ったシロサにとって、仲の良い彼等の姿は羨ましく、そして憧れであった。
ギャーギャーと騒ぐクロキ兄弟の後ろを着いて廊下を歩きながら、シロサは廊下や天井をじっくり観察した。この家はやはり随分古い物らしい。刻み込まれた装飾や、長年人の足に踏まれる事によってツルリと輝きを放つようになった床がそれを物語っている。
その中でシロサが最も気になったのは、数メートル感覚で壁に刻まれている、お伽噺に出てくるような古い鳥の装飾である。
――鳥?
立ち止まってじっくりと眺めたい所だが、相変わらずクロキ兄弟は有無を言わさぬ調子で先へ先へと進む。よって、立ち止まる事はほぼ不可能であった。少しガッカリした心持ちで歩を進めると、前方からトトトという軽やかな足音と共にやって来た小さな手にスカートを引かれる。
咄嗟に目を下に向けると、そこにはクロキを姉に譲った兄弟の中で一番幼い少女、ミキがいた。
「お姉ちゃん、お名前何て言うの? ミキはね、ミキって言うの」
「初めまして、ミキちゃん。私はシロサ。いきなり来てごめんなさい。今夜だけお世話になりますね」
ミキが居るから、少し位足を止めて良いだろう。シロサはミキの手を取ってしゃがみ込み、自己紹介といきなり押し掛けた事への謝罪をする。やはりクロキ達はそれに気付かず歩き続けていた。
よろしくね。恥ずかしそうに顔を朱に染めて微笑むミキに、暖かい感情を抱きながら、シロサは彼女の手を握って歩き始める。手に伝わる自分より少し高い体温に説明つかぬ安堵感を抱くシロサに、ミキは意味深な発言をする。
「シロサお姉ちゃんとミキは同じだね」
それはどういう意味? そう聞くより早くミキはシロサの手を離し、賑やかな声がする部屋の前へ走って行く。
「それに今日だけじゃないよ、お姉ちゃんがミキの家にいるのは。だってお兄ちゃんとお姉ちゃんは……」
ミキの切り揃えた髪が揺れる。直後、ミキの小さな体は糸が切れたマリオネットのように崩れ落ちた。
糸が切れたマリオネットのように崩れ落ちる小さな少女を目の前にして、シロサは咄嗟にその名を口にしながら手を伸ばす。
――嫌、……嫌っ!
自分の目の前で、もう誰かが消えるのは嫌だった。脳裏に浮かぶは十年前のあの日の光景。ミキと同じように笑みを浮かべ、いつもと同じように穏やかな笑みを浮かべて目の前から消えた最愛の人。
──シロサ。
あの人の優しい声が、最後に見た生きた笑みが、また彼女のように焼き付けられる。
指先が倒れてゆくミキの髪に触れる。けれどそれはかすった程度で、一度少女に触れた指先はまた空を掻き、後ろのめりに倒れてゆくミキの軌道を変える事は出来なかった。また何も出来なかった自分に、何も力を出せない自分が堪らなく非力に思え、シロサの目にじわりと涙が浮かぶ。
しかしミキの小さな体が床に叩きつけられる直前、煌々と明かりが漏れる室内からニュッと二本の逞しい腕が伸びてきた。その腕は崩れ落ちる寸前のミキの体を支え、そしてふうとため息を吐く。
「またか、ミキ」
室内の畳に膝を付き、小さな少女の体を抱き抱えているのはやはりクロキであった。
不機嫌な表情を顔一杯に浮かべたクロキは、その表情に似合わず、優しくミキを抱え直すと「大丈夫か?」と少女の前髪をかきあげながら尋ねる。すると少女は弱々しいながらも、小さく頷いて「いつもごめんね、クロキお兄ちゃん」と精一杯の謝罪の言葉を口にした。
気にするな。そう言ったクロキの顔は俯いている為に見えなかった。しかし、彼を包む雰囲気がふっと和らいだ為、シロサは彼が微笑んでいると分かった。この人も優しく笑う事があるのだ。そう思うシロサの前でクロキは立ち上がって部屋に一歩入り、中に入るようシロサを促す。
「親父達が待ってる。早く入んな」
「は、はい」
恐る恐る室内に足を踏み入れると、そこは六畳程の至って普通の和室であった。ただ一つ、部屋の奥に地下に通じる階段がある事以外は。
シロサを階段に招き入れ、そして地上と通ずる扉を閉めたクロキはいつの間に持っていたのか蝋燭に火を灯すと、先導して階段を降りて行く。
小さな火に照らされた石を積まれて作られた壁は、先の廊下と同じく長年に渡って触れられていたのか、ツルリとした光沢を放っている。
「クロキさんの御自宅は随分立派なのですね。私、世界がこんな事になってから、初めて家らしい家を見ました」
「立派って言うより古いんだって。別に気使わなくて良い。実際古い訳だし。何かウチは昔から烏を奉ってるらしくて、かなり昔っから続いてるみたいだし。昔からあって、一度も越したりしなきゃ家なんてでかくなるもんだろ。俺は女が一人で旅してる方がよっぽど珍しいと思うけど。あー、理由とか聞こうなんてしてないから別に言わなくていい。アンタも干渉されたくないだろうし、俺も興味ないから」
「お兄ちゃん、失礼だよ」
何が失礼なんだと、一回りは悠に違うであろう妹にクロキは質問を投げ掛ける。
だがシロサはクロキの発言より、クロキがあんなに喋る事の方に驚いていた。今までぶっきらぼうに一言二言しか喋らなかった彼が、あんなに長い言葉を喋る事が出来るとは。失礼だが、シロサにとってはそちらの方が気になっていたのだった。
そしてもう一つ、今更ながらミキの言葉で驚いた事が。
「クロキさん、クロキさんってもしかして名字ではなくて下の名なのですか?」
「何、アンタ今まで俺の名前の事名字だと思ってたの? なんで弟達が俺の事を名字で呼ぶんだよ。それだと全員同じ名字なんだから意味分からない事になっちまうだろ」
「……すみません」
クロキと他の兄弟が随分年齢が離れていたので、シロサはてっきりクロキの家族が孤児を育てているのだと思っていたのだった。だが、実際彼等は全員血の繋がった家族だった訳である。
勘違いしていた事が恥ずかしいやら、クロキの家族中を勝手に想像した事が申し訳ないやらでシロサは顔を真っ青にしながら謝罪する。けれどクロキは大して気にしていないようで、シロサの勘違いによって浮かび上がった疑問を尋ねた。
「俺の名前を名字だと思っていたって事は、アンタの名前も名字?」
「いえ。私は下の名です。名字は」
そこまで言ってシロサは躊躇うように言葉を止め、そして眉を曇らせた。
名字。それを口にする事も、呼ばれる事も長らく無かった。辛い思い出が多く、どもそれ以上に優しい思い出が、戻れない月日の象徴である名字。それを言って良いのか。シロサは僅かに戸惑いを覚えた。
「言いたくないのなら言わなくていい。さっき言っただろ。言いたくない事は無理に言わなくていいって。興味ないから」
そんな彼女の心情を悟ったのか、ただ単に僅かな間が鬱陶しく感じたのか、クロキは要らん要らんと顔の前で手を振ると、シロサに背を向けて歩き始めた。ミキの失礼だよという声を耳にしながら、シロサは安堵したような笑みを浮かべて彼に続く。
クロキの無神経さは少し嫌な部分もあるが、今はその無神経さが優しく、そして有り難かった。
「クロキ……さんの名字は?」
今まで異性の下の名を呼んだ事のないシロサは、クロキの名を口にする事に抵抗を覚えて顔を真っ赤にする。
「あー、名字? ブシガワ。ブシガワクロキ」
「ブシガワ……!?」
「変わってるだろ? ちなみに烏の頭の川って書いてブシガワな」
面倒くさそうに口にした名字に、シロサは驚いたように息をのむ。シロサが驚いたのは、変わった名字だからだと思ったクロキはご丁寧に漢字の説明までしていた。
"烏"その言葉にシロサの中の驚きは確信へと変わる。
──良いかい、シロサ。何かあったら東の烏を訪ねなさい。彼等は、ブシガワ家はシロサの力になってくれるよ。
晩秋の夜の事、シロサの頭を優しく撫でながら彼はそう口にした。それから後、全てを失ったシロサは十年近く、"東の烏"を探して旅をしていた。それが、苦難に満ちた旅路が、ようやく今日報われたかもしれないのだ。
緩みかけた涙腺をギュッと引き締め、シロサは再度クロキに声をかけようとした。しかしそれより早く、階段を下り終えたクロキは地下にそびえる観音開きの戸を開き、
「早く入んな。親父達が待っている」
元来気弱なシロサはすすめられては中々それを断る事が出来ない。それは相手が自分を思っての事であれば尚更であり、案の定シロサは質問を我慢して素直に戸の中に入って行った。
室内に入って、シロサの目にまず飛び込んで来たのは、部屋の奥の壁に彫られた鳥の紋様であった。それは地下に入る前に廊下で見た紋様と、少しは様式が違えど同じ鳥をモチーフにしている事がわかった。
大きく翼を広げ、西の方角を向く真っ黒な鳥。それが烏だと理解するのに、時間はそうかからなかった。
「よくぞこんな辺鄙な場所にお越しくださりました」
朧気な記憶と目の前の紋様を照らし合わせるシロサへと、不意にクロキとは違う男の声が掛けられる。慌てて声がした方を向けば、そこには穏和な笑みを浮かべた五十そこそこであろう男性がいた。
「親父、またミキが倒れた。奥の座敷に寝かして来て良いか?」
「また倒れたのか、大丈夫かミキ? クロキ、お前は話があるから此処に居なさい。モロミ、ミキを座敷に連れていけ。そしてじいちゃんを呼んできてくれ」
「えー、じいちゃん今酔っ払ってるよ」
「西から使いが来たと言えば酔い等醒める。早く行きなさい」
まだ不満があるようだが、怒ると異様に怖い父を知っているモロミは、ブーブーと文句を言いつつもミキを抱えて足早に部屋を出ていった。
何だか面倒になりそうな予感がしたクロキはこっそりとモロミの後を追って室内から逃げ出そうとした。が、それを先読みしていた彼の父はローブの襟をむんずと掴み、逃亡を阻止する。
不満たらたらな表情を浮かべるクロキを押さえ付けるようにして座らせ、彼の父はにこやかに笑いながら「どうぞお座りください」とシロサに声をかける。
「申し遅れました。私はこれの父で、ブシガワコウジと申します。よくぞ此処までお越しくださいました。シロサ殿」
「は? 何、親父こいつの事知ってんの?」
「口を慎めバカ息子。知っているも何も、当家とシロサ殿の家は昔から繋がりがある。そう言えばお前はその話をちゃんと聞いた事が無かったな。丁度良い、シロサ殿に改めて話をするついでにお前もちゃんと勉強しろ。何を逃げようとしている」
難しい話になりそうな雰囲気なので、とっととトンズラをここうとしたクロキだったが、そこは父の方が遥かに上。立ち上がろうとした途端に力一杯服の裾を引っ張られ、盛大に転倒してしまう。
「……あの、疑うようで申し訳ないのですが、貴殿方は本当に東の烏でしょうか? すみません、私を助けてくださった方があのブシガワ家だとは、偶然が重なり過ぎているような気がして……」
「謝る事はありません。十年の間に色々あったのでしょう。疑っても何もおかしい事はありません。ですがこれだけは信じて欲しい。私達は遥か昔に貴女の家系に従うと決めた東の烏、ブシガワ家です。はっきりした証拠を出せと言われたら難しい。ですが私達に通う血は、魂は、昔から何も変わっていない。私はそう信じております」
コウジの言葉には強い信念が、そして目尻に深いシワが刻まれた目には、炎のような強く清らかな意思が宿っていた。それはシロサの疑念を晴らすに十分であった。
疑って、すみませんでした。
コウジを信じたシロサは彼の言葉を受け入れると共に、深く頭を下げて謝罪の意を示す。その前で一人状況の掴めていないクロキは、どうやって此処から逃げ出すかを考えていた。