1 危ないぞ
 謎の球体と虫が世界を襲ってから十年後、十年前まで生息していた生物は半数以下にまで減少していた。
 球体が世界を襲ってから十年間、世界の気候はがらりと変わった。それに順応出来ない生物は次々に命を落とし、順応できても虫に対抗できる術を持たない生物は次々と虫に食われ、その数を減らしていった。
 文明など関係無い、食いつ食われつ、人ではなく虫を頂点とした真の弱肉強食の世の時代で、物語は幕を開ける。

--烏 カラス--
一話〜出会い〜

 アスファルトであったであろう黒い地面の所々に穴が空き、その穴からもうもうと白い煙が立ち上がる。空にはカンカンと照りつける太陽。上と下、両方から熱が伝わり陽炎が漂う中、黒いマントを被った人物がふらりと坂の下から現れる。
 ブシューと炭酸のペットボトルを開けた時のような音を立てて、アスファルトに空いた穴から熱気がこもった水蒸気が大気へと舞い上がる。
 坂の下から現れた黒ずくめの人物は、目の前の穴から沸き上がった水蒸気を鬱陶しそうに避けて坂の頂上に進み、頭の上で照り付ける太陽をさも憎らしげに睨み付ける。
 坂の頂上で太陽を見上げて立ちすくむ人物だが、その背後で何やら動く巨大な生物があった。
 地面を這っていたその物体は、黒ずくめの人物を見るや否や、人であらずその巨体を音を立てないよう静かに、だが素早く接近させる。
 人の丈程もある枯れ草の間を、縫うようにして焦げ茶色の太く、長い体が黒ずくめの人物に向けて近付いてゆく。そして黒ずくめの人物との距離が二メートルにも満たない程になった時、その焦げ茶色の巨大生物は枯れ草から蛇のように身をもたげる。
 焦げ茶色の体の上に、幾重にも重なるシワのようなたるみ。そして点々と生える短くとげとげした、身を守るには頼りない体毛。そして五メートル程もある脚が見当たらない太い体と、顔の中央に生える、鋭い二対の牙。その姿はまるで巨大化した芋虫そのものだった。
 芋虫の主食は植物の筈。だがこの巨大化した芋虫の口は草食生物には不釣り合いな鋭い牙を持ち合わせている。しかも視線は草ではなく、太陽を見上げる人間に向けられており、二対の牙の間からは血の混じった唾液が漏れている。どう見ても、この芋虫の主食は草ではなさそうだ。
 肉食の巨大芋虫は尚もジリジリと獲物である黒ずくめの人物と距離を詰め、その首をもぎ取る為に掲げた首をグッと引く。相変わらず黒ずくめの人物は空を見上げたまま微動だにしない。万事休すと思ったその時、

「クロキ、危ないぞ」
 危ないとは全く思えないような、低く落ち着いた声が聞こえると共に、巨大な石が芋虫の頭の上に降って落とされた。
 いくら体が大きくとも、いきなり大きな石を頭に落とされたら巨大な芋虫と言えどもひとたまりもない。頭部を潰された芋虫は体液を辺りに飛び散らしながら、潰されていない体を蠢かせて痛みにもがく。
 一方、クロキと呼ばれた黒ずくめの人物は芋虫が頭を潰された際に飛び散った体液を頭から被ったまま、突っ立っていた。
「……親父」
 ようやく口を開いた黒ずくめの人物は、目の前で暴れる芋虫に構うことなく、ゆっくりとした動作でフードを外して、頭上にある崖の上に立っている人物、父親を見上げる。
 緑色の体液が滴るフードの下から現れたのは、夜を思わせるような短い黒髪と、髪と同じく黒い、目付きの悪い双眼をした、不快そうな表情を浮かべた青年の顔だった。
 青年が口を開いて、父に文句を言おうとしたまさにその時、彼の前でのたうち回っていた巨大な芋虫が方向を変え、彼の方へ踊りかかって来た。
 迫り来る巨大な影に気付いた青年は、さすがに驚いたのかギョッとした表情を見せる。だが直ぐに、鎌首を持ち上げて緑色の体液を流す芋虫を鬱陶しそうに睨み付ける。芋虫との距離はもう一メートルもない。
 グシャリ、と何かが潰れるような、水気を含んだ嫌な音が周囲に響いた。
 全身が緑色の体液でまみれてしまっている青年の隣には、僅かに痙攣している巨大な芋虫が静かに横たわっていた。
 結局、芋虫が青年を押し潰す事は無かった。しかし、助かる代償に青年は頭から足先まで、生臭い緑色の体液を被ってしまっていた。
 避ける際にしりもちを着いてしまった青年は、顔に着いた体液を拭うと、憎らしげに芋虫に止めを刺した人物を見上げる。
「おう、大丈夫か? クロキ」
「……じいちゃん、大丈夫だけど気分は最低」
 皮肉を込めてそう言うと、芋虫を仕留めた人物――彼の祖父は「そうかそうか」と豪快に笑うだけで何も気にしていない。恐らく前半しか話を聞いていないのだろう。
 青年は半ば諦めたようにため息を吐くと、体液でべとべとになったマントを脱ぐ。強い陽射しに当てられたマントからは、耐え難い異臭がした。
「クロキ、ぼーっとしてるな。早く虫を袋に詰めろ、ぼやぼやしてると腐るぞ。じいさんはもう持って行っちまったぞ」
「またこの虫? 臭いからあんまり食べたくないんだけど」
 不満を漏らしながらも青年は父から投げ渡された袋に、既に祖父によって切断された芋虫の肉塊を詰めてゆく。
 食料を詰め込んだ麻袋を背負う彼等を、灼熱の太陽が照り付けていた。


―――崩壊期0010

 ――世界が壊滅してから、俺があの子に助けられてから、早くも十年が経った。俺は、21歳になっていた。
 あの日、世界を襲った球体は朝になったら消えており、正体は分からなかった。しかし球体と一緒にやって来た虫はそれからも猛威を奮い続けている。
 虫には様々な種類がいるようで、無害なモノから先ほどのような人を襲うものまで幅広く生息している。中には金属や人工物を好んで食べる種類もいて、その種のせいで人類の叡知の結晶である機械はほぼ全滅していた。
 また、気温はぐっと上がり、虫にとっては暮らしやすい環境となっている。それに伴い、虫達は他の生物を捕食して次々に繁殖し、そして各地に合った進化を遂げた。
 人が減って、虫が増える。かつて人類が治めていた世界は、今や虫が統べるものとなっていた。

―――

「兄ちゃん、父ちゃんお帰りーっ!」
 半時間後、クロキと呼ばれた青年と父親は二つの山の間に挟まれた山の頂上にある、自宅に着いていた。
 木で作られた柵を開けてみれば、十数匹の犬達とクロキより幼い五人の子ども達が、盛大に騒ぎながらクロキとその父を迎えに来る。
 その様子は平和そのものだが、二人の肩に背負われている、緑色の染みが着いた麻袋が妙な威圧感を出している。
「お帰り、お父さん、クロキ」
 じゃれつく犬達と子ども達を適当にあしらいながら、年期の入った木造家屋に近付く二人に、玄関から中年の女性が声をかける。年とその発言により、彼女がクロキの母だという事が伺える。
 ただいま、とそれぞれに答えながら、二人は玄関の手前で袋を下ろした。ベチャという、なんとも嫌な音がした。
 二人の回りについて離れなかった十歳そこらの子ども達はクロキが下ろした袋に、嬉々とした表情で集まるのだが、中身を見た途端に「うわぁ」と言って凍り付く。どうやらこの子達もこの芋虫は苦手らしい。
「クロキ、また随分汚い格好して……」
「……これ、夕飯。言っとくけど汚したの、俺じゃなくて親父とじいちゃんだから。あ、体流してちょっと町の方へ行ってくる」
 素っ気なくそう言うと、クロキはさっさとその場から去ってしまう。何とも愛想の無い態度だが、両親は顔を見合わせて苦笑するだけで、彼を咎めたりする事は無かった。
 何故なら今日は虫が現れてから丁度十年経つ日。目の前で世界が塵になっていく様を幼い頃に見た彼が、どこか上の空になっているのも無理はないのだ。

━━━
━━

 生臭い緑色の体液を風呂場で洗い流したクロキは、真新しい外套を身に纏って町への道を歩いていた。
 家を出る際に父から安全の為に犬を数匹連れていけ、と言われたが、彼はそれを断った。何となく、一人でいたかったのだ。それに、この道は世界が消える前にも後にも、目を瞑っても歩ける程通った道だ。不安など微塵も無かった。
 学校へ行くために通っていた、舗装もなにもされていないじゃり道を、クロキは一人歩き進めて行く。鬱蒼と繁った木々が影となり、砂利道は随分涼しかった。
 パキッと荒れた歩道からそう遠くない場所から、枝が折れる音がした。
 クロキは少し足を止めて音がした方を見つめたが、さして興味がないようで直ぐに前を向いて歩き始める。先の芋虫の件がある為、もう少し警戒心を持ってはどうかとも思うが、彼は生まれてからずっと此処に住んでいるのだ。どの場所が危険か等、彼が一番知っているのだ。
 枝を折った正体、鹿が茂みから見つめる中、クロキはようやくアスファルトで舗装されていた道に出る。
 十年前には綺麗に舗装されていた道路も、整備する人が居なくなり、急激な環境変化に晒された今では、かつての姿の面影すら見出せない程変わりきっていた。
 熱気で所々穴が空き、その穴から吹き出る熱い水蒸気に当たらないよう、クロキはアスファルトを避けて、道の端にある土がむき出しの道を歩く。歩きやすいように作られた道が、今ではただの危険な道と化している。何とも皮肉な事だ。
「こんな物、人間が居なくなりゃただのゴミなのに……。当時のお偉方は何を思って作ったんだよ」
 地熱と太陽の熱により、一部がタール状になっているアスファルトを横目で見たクロキは、十年前から遥かに低くなった声で憎らしげにそう呟く。溶けたアスファルトのゴム臭い嫌な匂いが、辺りに充満していた。
 クロキにとって、いや生き残った者達にとって人間達が残していった物――所謂人工物は邪魔でしかなかった。
 鉄が長い間晒されて錆、その錆が水を汚す。そしてその匂いを嗅ぎ付けて人工物を食べるように進化した虫達が群がる。当然、虫が集まる場所で他の生物は生きていけない。
 かつて人が物を作った場所には人が集まったが、今では虫が集まり、人は物から離れざるを得なかった。むしろ、物がある場所では生きていけないようになったのだ。
「良い迷惑だっての」
 少し体重をかけると、粘土のようにポロポロと崩れるアスファルトを見ながら、クロキは至極不快だと言わんばかりに呟いた。
 ぽっかりと口を開けた地面を見ないようにして、クロキは再び歩き出した。
 鬱陶しそうに紫外線避けのフードをかぶり直し、額に浮いた汗を拭うクロキだが、その時、陽炎が漂うアスファルトの道の先に、一つの人影を見たような気がした。フワリと、懐かしい感じがした。
 ――女?
 ゆらゆらと揺れるその人影は、その線の細さから女性だという事が分かった。
 この辺りにはクロキ達の他にも隠れ住んでいる人は居るが、この道の先には虫達の巣窟となっている町しかない。一人で町へ行くような輩は自分のような物好きか、新天地を探そうと、捨て身で旅する者しかいない。
 男ならともかく、このご時世、女が一人で出歩く等、クロキにはとても正気の沙汰とは思えなかった。
 それでも生き残った人間を見殺す事は出来ない。残された人間としての使命を思い出したクロキは、瞬きを一度して人影に声をかけようとした。
 が、

「……居ない?」
 一秒にも満たない瞬きを終え、クロキが再び目を開くと、アスファルトの道の先には陽炎が漂うだけで、人影等一切見当たらなかった。
 どういう事だと、一瞬で消え去った人影に疑問を寄せるクロキだったが、あの人影が脆いアスファルトの上に立っていた事を思い出し、人影が立っていたであろう場所へ駆け寄る。
 アスファルトが崩れて、下に落ちてしまったのではと考えたのだ。
 しかしアスファルトは崩れても、大穴が空いている訳でもなく、ただ小さな穴が所々空いているだけであった。クロキの心配も、杞憂に終わった。
「幻覚? いや、白昼夢か? ……俺疲れてんのかな」
 幻に僅かな間とはいえ振り回されたクロキは、眉間にシワを寄せて首の間接を軽く鳴らす。何となく、頭が軽くなった気がした。
 栄養不足だな。最近あの虫ばっかり食ってるし。とクロキは普段の食生活に責任を転換すると、止めていた足を再び動かし始めた。
 ……その頃、彼の自宅では鉈包丁を持って芋虫を捌いていた母が、特大のくしゃみをしていた。


 瓦礫の地と化したかつての町は、虫達が我が物顔で歩き回る場所――所謂虫のテリトリーとなっていた。
 こう聞けばクロキは半ば自殺をするために町へ行ったように思える。しかしローブ越しに時折見える彼の表情は思い詰めたような表情には程遠く、むしろ欠伸を連発し、時折口笛を吹く程の余裕ぶりだ。
 何故彼は虫のテリトリーでこうも緊張感に欠けた振る舞いをしているのか。それは簡単だ。彼はこの辺りに住む凶暴な虫の生態系をそれなりに知っているからだ。
 かつて世界が滅亡するまで、いくつかの例外は有れど、毒を持った他の生物に害を与えるような虫は大半が夜行性だった。大きさや種は変われど、その辺りの習性は滅亡後の虫も同じだったようだ。
 つまりテリトリーを歩き回ろうと、昼間であればそこまで気負う必要は無いのだ。
 ……ただし、前に言った゛例外゛を忘れてはいけない。
「……うっわ、面倒なのが出たな」
 何か粘着質な物が混ざり合うような音を耳にしたクロキは口笛を止めて近くにあったビルの陰に身を潜めると、慎重に音がする方を見た。辺りには生臭いような異臭が漂っている。
 そっと覗いてみると、灰色のゴムの塊のようなものが見えた。そしてそこから視線を徐々に上げて行く。するとゴムの塊に被さるように、もう少し色の濃い灰色の塊が見えた。
 その濃い灰色をした、比較的すらりとした体型の生物は、鎌のような鋭い二対の腕でゴムの塊をがっつりと掴み、そして腕に挟まれた部位に顔を埋めている。その姿は大きさこそ違うものの、カマキリそっくりであった。
 キョカマ
 クロキ達は鎌を持つその虫をそう呼んでいる。正式名称は゛巨大カマキリ゛そのままだ。
「喰われてるのは……、あの人食い芋虫か。あれなら時間を稼げるな。あんな不味い物よく食えるよな」
 獲物を補食している間、虫は他に害を与えない。その事を知っているクロキはビクビクと痙攣しながら、キョカマに喰われている芋虫を見ながらうんざりした調子で呟く。
 美味しいとは決して言えない、思わず顔をしかめてしまうような、あの臭くて苦い味。それをひたすら食べ続けるキョカマに、クロキはこっそり称賛の拍手を送ったのだった。


 それから昼間に行動する虫達を避け続け、クロキは無事に目的地である学校跡地にたどり着く事が出来た。
 ただ、途中でうっかり蟻の行列に出会ってしまい、遠回りを余儀なくされた事によって時間を大幅にロスした事によって、時刻は夕暮れ時になっている。
「蟻はちっさい物だろ。転車サイズとか成長しすぎだっての」
 愚痴愚痴と文句を口にしながら、クロキは校庭の中央へ向かう。
 校舎自体は十年前の災害で跡を残すまでに崩れ去ったのだが、何のいたずらか、校舎の屋上に設置されていた時計台だけは吹き飛ぶ事なく、原型を残したままの状態で校庭の中央に落ちていた。
 石造りだったせいか、あの日から一つも変わっていないその時計台は、何時しかクロキ達、生き残った者達にとって災害で亡くなった人の墓石代わりとなっていたのだった。
 そっと両の手を合わせ、十年前に突然人生の終止符を打った沢山の人達に黙祷を捧げたクロキは、ゆっくりと双眼を開く。
 目に入るは、瓦礫とクレーターばかりが占める大地と、地平線の向こうに見える燃えんばかりの夕日。何にも遮られる事の無い夕日は、驚くほど大きく、そして地に陽炎を作りながら妖しく揺らめいていた。
 意味ありげに小さく鼻で笑ったクロキは、懐から一輪の花を取り出して時計台の下に供える。その時の彼は、薄く口に浮かべた笑みに底知れぬ悲しみを隠していた。
「此処が墓地なら、あの子の魂も此処に居るのかな」
 もう一度目を閉じたクロキは、十年前に居なくなってしまった一人の少女の姿を脳裏に描く。
 もはや会う事も、話す事も出来ない、記憶の中の穏やかな表情の少女を思い描いたクロキは、自分はなんて女々しい事をしているのだと、らしくない己を嘲笑しながら目を開けた。
 目を開けた途端にブワッと、強風が吹いたような気がした。

「……あっ」
 だが目を開けたクロキは、開けるなり驚きの声を上げて体の動きを止めた。
 彼の双眼は時計台の奥の夕日に向けられる筈だった。しかし、彼は今夕日を見ていない。夕日は視界に入っているのだが、彼の意識は別の対象に向けられていた。
 夕日の中には、一人の人物が立っていた。文明の成れの果ての地で、自分からそう遠くない場所で華奢な体格の、一人の人間が立っていた。
 本来ならば、夕暮れ時にこんな場所で女性が一人でいる事に驚くのだろうが、クロキがはそうではなく、その女性がかつての少女に「似ている」から驚いたのだった。

 ──クロキ君、明日クッキー持って来るからね。
 最後に交わした言葉が、ありありとクロキの脳裏に蘇り、胸の奥がギュッと苦しくなった。
 夕日を背にした女性が此方へ近づく度に、その容姿、そして格好が明らかになってゆき、同時にクロキの鼓動が高鳴った。

 ――……違う。
 夕日が後ろにあるため、顔は影が落ちていて窺う事が出来なかったが、その他は把握する事が出来た。
 白髪で、両端の襟足だけが長い変わった髪型。藍色の甚平のような上に、膝上程の丈の同じく藍色の下。首に巻かれた藍色の長いリボンに、蔦を編んで作られたかのような草履……。はっきりと分かったその姿は、あの少女とは全く違っていた。
 だが、それでもクロキはこの目の前の女性が、あの少女に似ていると感じた。それは格好等の外的要因ではなく、中身だと、彼の本能が告げる。
「おい、あんた……」
 居ても立ってもいられなくなったクロキは、いつの間にやら乾ききっていた喉から、絞り出すようにしてその女性に声をかける。
 てっきり、クロキは前にいる女性は自分の存在に気付いていると思っていたのだが、彼女はクロキが直線上に居るにも関わらず、彼に気づいていなかったようで、声をかけられた瞬間に足を止め、警戒したように周囲を見渡す。
 怖がらせてしまったかと思ったクロキは、自分が無害であることを示す為に両の手を方の上に上げてゆっくりと近付く。これは彼なりの最善の対象法だったのだが、武器を持っていない事が分かっても、無言で近付いた為に相手に妙な恐怖心を与えてしまう。
 案の定、クロキの不自然なまでに真剣な表情と、無言のまま登場した威圧感に耐えかねたその女性は、彼が声をかける間もなく、脱兎の如くその場から逃げ去ってしまう。
「あっ、くそ! ちょっと待ってくれ!」
 日が沈むまで、残り一時間弱。寄り道をしていれば、家に帰るまでに日は沈んでしまうだろう。
 だが、それが分かっていても彼は女性を追いかけた。それはあの少女に似ているからではない。何故だか彼女を放ってはいけない気がしたのだ。
 かつては町中、今となっては瓦礫の山をクロキは走った。
 夕焼けが周囲を幻想的に照らしても、クロキはそれに目もくれずひたすら足を動かした。追う少女はまるで鹿の如く軽やかに瓦礫の中を走り抜ける。その少女は本当に足が早く、十年山と町を走り回ったクロキでも、引き離されないように付いていくのがやっとであった。
「くっそ……っ」
 中々縮まらない距離に苛立ちを覚えながらも、クロキは少女を追いかけるのを止めないでいた。それは仲間意識もあるが、それ以上に少女を見失ってはいけないと、何かに命じられているような気がしたからだ。
 幸いにも少女はクロキの家がある方、山の方に向けて逃げていた。それは彼にとって非常に幸運で、唯一の助けとも言って良い程であった。
 体力が尽きてきたのか少女の速度が弱まり、クロキとの距離が縮まってゆく。けれど、体力が尽きたのはクロキも同じで、彼もまた呼気を荒くして少女の後を追う。周囲からは時折羽音がしたり、不気味な声が聞こえている。虫達が目覚め始めているのだ。
 不味いなと思うクロキの前方で、少女はまだ形が残っているビルの横を曲がる。

 ――しめた!
 進行方向の変換にクロキは喜んだ。少女が進んだ道が袋小路だと知っているからだ。
 やっと余裕の表情が浮かぶクロキであったが、ビルの横を曲がり、袋小路で立ち往生しているであろう少女の姿を見た途端、余裕は何処へやら、焦りの表情に急変する。
 行き止まりに焦ったのであろう少女は隣にある半壊した建物に入ろうとしていた。それはこの辺りを知り尽くしたクロキにとって、自殺にも等しい行為であった。
 夕日に照らされた紺色の服が少女の動きに合わせて揺れ、首に巻かれた長いリボンが宙を漂う。まるでスローモーションのようだった。
「待てって!」
 少女の体が建物に入る寸前でクロキは少女の手首を掴み、何とか建物への侵入を阻止する。
 そこで、クロキは始めて少女の姿をまじまじと見た。
 陶器のように白い肌、栗色を更に薄くしたような色素の薄い大きな目。紺色の袴をモチーフにしているであろう奇妙な服。ちなみに、下は膝上のスカートのようになっている。
 そして驚くべき事に、左右の襟足だけが長い少女の髪は、老婆のように真っ白であった。
 手首を掴んだまま息を荒げてじっと凝視するクロキに、少女は不安と恐怖が混じった表情で、あの……、と小さく声をかけた。
 鈴を転がしたような澄んだ声に、クロキは我に返って口を開く。
「いきなり追いかけて悪かった。あんたに危害を与える気はない。……とにかく、此処を離れよう」
 とにかく建物から離れたいクロキは手短にそう説明すると、少女の手を引っ張った。だが見知らぬ男に追いかけられ、いきなり手を掴まれた少女からしては、クロキは信用に欠ける存在であった。
 更にクロキは荒い呼吸で少女を凝視した。どう考えても不審者だろう。
 引っ張っても必死に踏ん張る少女を見たクロキは、ようやくそこで自分が不審に思われていると分かり、ため息を吐くと共に懐からライトを取り出して建物の内部を照らす。
 ちなみにライトは電池不要のネジ回しで充電するタイプで、世界が滅亡してからのクロキの必須アイテムとなっている。
「……あんまり見たく無いんだけどな。あんた、声出すなよ。起きたら厄介だから」
 渋々といった様子でクロキがライトの光を動かす。だが光に照らされても見えるのは黒ばかりで、少女は首を傾げた。
 が、暫く光が建物内を移動した後に、複数の赤いパイプのようなものが見え、その正体が分かった途端に少女はヒッと息を呑んだ。
 もぞもぞと大量の赤いパイプのような細長い物が動き、それと共に建物内の“黒”が動いて剥き出しのコンクリートが見えた。黒いのは暗いからではなく、黒い生き物――巨大な百足が部屋にひきめしあっていたからだった。

「分かったろ? 俺が止めた理由が。今はまだ寝ぼけてるけど、日が落ちたら活動を始めるぞ」
 嫌なモン見ちまった。と忌々し気に呟いて手を引くクロキに、少女は素直に従って付いて行く。
 どうやら、クロキが自分を助けようとしてくれていた事は理解したようだ。
 早足で暫く歩き続けていると、少女が消え入るような声で何かを呟いた。しかし聞き取れなかったクロキは、何て? とぶっきらぼうに言うだけだ。
 愛想の無いその物言いに、少女は少し怯えたように、しかし先程よりは大きな声で、
「あ、あの。いつまで手を繋ぐんですか?」
「あ? ああ、悪い。忘れてた」
 ずっと繋ぎっぱなしだった手を指摘されたクロキは短い謝罪を口にすると、さっさと手を離した。
 忘れてたという発言に少女は驚きを隠せなかったが、そんな事お構い無しにクロキは口を開く。何という無神経だろうか。
「あんた、俺ん家来なよ」
 そして意図の掴めぬ発言に少女は目を丸くする。
 無理もない。少女は年頃の娘なのだ。以前の常識など関係無いとはいえ、初対面の若い男の家に訪れるなど、考えられないことだ。
 けれど、無神経なクロキが少女の心配に気付く訳もなく、
「腹減ってるだろうし、宿も考えてないんだろ。町にいたら虫に食われちまうぞ」
「でっ……でも」
「何で迷ってんの? 宛無いんだったら、来るしかないっしょ」
 はい、決定。と、ほぼ無理矢理結論付けたクロキは先程離したばかりの手を再び繋ぎ、これまた強引に少女の手を引いて歩く。
 クロキとしてはやり方こそ乱暴なものの、純粋な親切心で動いているのだが、少女の方はそうは思えなかったようで、
「止めて! 離してくださいっ!」
 そう叫ぶと、少女は自身の腕を掴んでいたクロキの手を振りほどいて距離を取ろうとした。だが少女の抵抗も虚しく、十年間祖父と父に鍛えられて育ったクロキの手は離れる事なく、しっかりと少女の腕を掴んだままであった。
 失敗したと分かった時は余程ショックだったのか、沈んだ表情を見せた少女だったが、すぐに精一杯の威嚇の表情を作ってクロキを見上げる。だが元が優しい顔立ちな為に、クロキからすれば少しむくれているようにしか見えない。
 何故少女が声を荒げたのか分からず、疑問に思いながら嫌がる少女の手を引いていたクロキであったが、ある事を思い出してこう口に出す。
「あんたさ、もしかして俺がいかがわしい事でもすると思ってる訳?」
 かつて保護した女達がそんな事を口にしていたなと、ぼんやり頭に思い浮かべる。有らぬ疑いをして罵声を浴びせかけてきた女達が、何だか腹立たしく思えた。
 それはともかく、少女から返事は返って来なかった。代わりに抵抗が少なくなる。
 図星だな。小さくため息を吐きながら、クロキは再び口を開く。また有らぬ疑いをかけられた事にうんざりしたが、足は止めなかった。日暮れが近いからだ。
「安心しな。俺、あんたに手を出そうなんてこれっぽっちも考えて無いから。何なら指切りげんまんでもする? もし破ったら針千本でも、百足の巣に飛び込むでも何でもするけど」
 なぁ。と後ろを振り向けば、少女は少し顔を赤らめて俯いていた。クロキがその意味に気付く事は無かったが、少女は指切りげんまんという懐かしい約束事に誓うようなクロキを、証拠もなく疑ってしまった事を恥じていたのだ。
 返事がない事から、結局誤解を解けなかったのかと小さくため息を吐くクロキであったが、

「変に疑ってしまって……、ごめんなさい」
 彼の考えとは反対に、後ろから消え入りそうな声で謝罪の言葉が聞こえてきた。
 予想外の展開にクロキは少し戸惑った。今まで彼を疑った女達は「指切りなんて、馬鹿じゃないの!?」と吐き捨てながら去っていったからだ。だけど、この少女は……、

「貴方は私を虫の住処から連れ出してくれた。その時点で信用すべきだったんですよね。すみません、不快な思いをさせて」

 チラリと振り返れば、淡い栗色の目をした少女と目が合った。夕日に照らされた白き少女は橙色の優しい色に染まりながら、涼やかな笑みを浮かべていた。
 似ている。クロキは少女の体温を手の平で感じながら、心中で呟いた。
 似ていると思ったのは、死んでしまったあの子。だけど、あの子と少女の姿はあまり似ていない。仕方の無い事だ。あの子は十歳で歳を止め、この少女は十七、八辺りなのだから。似ているという方が無理がある。
 ならば何処が似ているのか? それは相手を気遣う話し方であった。

 ――似ているからって、何が起こるでもなし。
 十年経っても尚、あの子を忘れる事が出来ない自分を嘲笑いながら、クロキは、じゃあ家来る? と声をかける。
 それに対して少女は直ぐ様はいと返事をした。
「よし、じゃ走るから手を離すぞ。あんた足速いからそっちの方が良いだろ?」
 腕を掴んでいた手を離して走り出すと、直ぐに少女は横に並ぶ。鹿のような軽やかさだと思いながら、クロキはもう一度少女に声をかけた。
「名前言って無かったな。俺、クロキ。あんたは?」
「シロサです」
 少女、もといシロサは、よろしくお願いしますと口にして、はにかんだ笑顔を浮かべながらクロキを見る。
 白と黒か。オセロみたいだなと良く分からない事を口走るクロキに苦笑いを溢すシロサであったが、次に苦笑いを浮かべるのはクロキになるのだった。

「あの、私の事を好きにならないでくださいね」
 ――やっぱり、似ていない。
 自意識過剰な発言をするシロサに、苦笑いを浮かべたクロキは前言撤回を図ったのであった。


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