黄昏時。クロキは静かな山の中を一人で歩いていた。
聞こえてくるのは虫の声と風が静かに木々を揺らす音……。そして自分の足音のみ。まだ平和だった頃ならば何と静かな夕刻なのだろう。と静寂を楽しめたであろう。
「もし……」
まだ平和であった頃でも夕暮れの近い人気のない山中で女が出歩いている事はほぼ皆無であったのに、こんな物騒極まりない世界に変貌している状態で女が出歩いている訳が無い。
「もし、迷い人でしょうか?」
気のせいかと、止めていた足を進めた時、今度はすぐ後ろから声がした。
大きくなった声は勿論、不覚にも背後を取られたことに慌てて数歩飛び退く。心臓がうるさく鳴り響き、冷水を被せられたような悪寒を抱かずにはいられなかった。
何故ならば、クロキの背後をいとも簡単に取ってみせたのは、恐らく14、15辺りのまだ年若い少女であったからだ。
赤い花飾りを挿した少女は生足を惜しげもなく晒し出した、裾の短い浴衣を着ており、年齢に似つかわしくない妖絶な笑みを浮かべてクロキを見ている。肉付きの良い太腿についつい鼻の下を延ばしてしまいそうになるが、少女の値踏みをするような視線にあてられていては延ばすものも延ばせない。
「あー、じゃあ頼むわ」
「では私と共にお越しください。集落にご案内いたします。……きっと、気に入ると思いますよ」
驚くほどあっさり少女の申出を受けたクロキ、胸元に手を当てて悩ましげに髪をかきあげる少女の後をのこのこ追いかけていく。
先を歩く少女は気付けなかった。クロキが定期的に周囲の木々に傷を付けながら歩いていたことを。
・
少女に先導されること小一時間。二人は山の中に広がる大きな集落に辿り着いた。
集落に足を踏み入れたクロキの口から、すげぇと感嘆の声が漏れる。それも無理はない。ここは丸太で作られた高い外壁に、井戸や用水路等の集落らしい設備がきちんと整えられていたからだ。しかし、彼が驚いたのは設備だけではない。
集落には二十人程の人が住んでいた。今の御時世一箇所にそれ程の人数が集まっているところをクロキは初めて見た。だが、それ以上に珍妙なことがある。それは、集落の人間が全員女であるということである。
「驚かれましたか? この集落は女性のみで成り立っているんです」
「へぇ、そりゃまた奇想天外なこともあるもんだな。でもさ、明らかに妊娠中っぽい人いるけど。あれ肥満じゃ無いよな。旦那は?」
「ふふふ、それは野暮というものですよ。少々こちらでお待ちください。長を呼んできますので」
「……ふふふて何だよ」
年不相応な妖絶な笑みを浮かべて去っていく少女に仄かな不快感を抱く。否、クロキが不快感を抱いているのは少女だけではなく、この集落全体であった。
集落の女全てがクロキに色目を使い、また入ってくれと言うが如く家々全ての扉が開かれているこの奇々怪々な空間。解放的であると言えばそれ迄なのだが、事情を知っているクロキからすれば露骨すぎて辟易する。色目も、開放された門扉も。全てはクロキの種を狙っての事なのだから。
渦巻く欲望の気に当てられて少々吐き気を催し、気分転換に人通りの少ない集落の端を目指して歩く。時折身体に触れられたり、話しかけたりする者がいたが、どれもこれも初対面で話す内容ではなかった為、余計に気持ち悪かった。
茫々の思いで集落の外れにやってきたクロキは、松明の火もそう当たらない巨大な松の下で大きく息を吐く。
女だらけの集落に潜入すると聞いた時は単純に嬉しかった。本当に嬉しかった。だが、いざ着いてみればどいつとこいつも吐き気を催すような目付き、喋り方でクロキに纏わりつく。誘っているのはあからさまで、今では早く帰りたいと思うようになっていた。
「駄目だ。やっぱ駄目だ。あんな露骨に来られたら引くわ。俺、追いかけられるより追いかけたい派だ」
己の価値観と改めて向かい合えた。と少し喜びつつ、盛大にため息を吐く。自分の価値観を分かったところで、これから追い掛け回されることは変わらないのだから。
今晩乗り切れるかな? 己の行き先を懸念して松の木にもたれかかった時、端の方に朽ち果てた廃屋があることに気付く。それまで妙に整った家屋ばかりあっただけに、こんな外れに家が、それも全く手入れがされていないであろう家がある事に酷く違和感を感じた。
好奇心から廃屋に近付く。不思議な事に朽ち果てた外観とは反対に、真新しい簾の奥に見える屋内は整っているように見えた。そっと簾に手を伸ばし、乾いた葦を捲ろうと、
「それに触らないで」
不意に掛けられた刺々しい声に、口から心臓が飛び出そうになる。慌てて振り向けば、そこには眉を潜めた初めて見る一人の少女が立っていた。
その少女は今までの女達と違い、髪をばっさりと短く切り、そして色目ではなくあからさまな不快な目でクロキを見ていた。
「皆探していましたよ。早くこっちに来てください」
尚も刺々しい口調で少女はクロキを誘導する。それには敵意が滲んでおり、クロキはここに来て初めて欲望以外の感情をぶつけられた。
はいはいと着いて行くと、少女は集落の中で一際大きい家屋の前で足を止める。明らかに他とは違う造りに、ここに長とやらがいるということは説明を受けずとも理解する事ができた。
「お客人、心配致しましたよ。さ、長がお待ちです。どうぞお入りください。……あんたは下がって」
「いや、一緒で良いだろ……」
花飾りの少女が相変わらずねっとりした口調でクロキを招く。が、彼女は直後にクロキを連れて来た少女を突っぱねる。急変した態度に、さすがのクロキも唖然とせざるを得なかった。
クロキの申し出により、渋々少女を連れては家の中へと入る。色々と疲れてきたクロキがなされるがまま従っていると、大きな広間の真ん中に出る。その奥には時代錯誤も甚だしい程の着物を身に纏った一人の女がいた。
わざとらしく時代劇のような肘掛けにもたれ、女はクロキを舐め回すように見つめる。思わずお腹いっぱいですー。と言いそうになった。
「ようそこそいらっしゃいました。見たところお若いようですが、お年は幾つでしょうか?」
「そこって普通名前名乗るんもんだろ。聞きたいなら自分から年言えば?」
ピクリと、女の眉が動く。
「女に歳を尋ねるのは無粋というものですよ」
「ふーん? なら聞かなきゃいいのに」
「この方はお疲れのようです。早急に床を準備するのが得策かと」
何故か少女が慌てだし、クロキと女の間に割って入る。そこでクロキは自分が何か良くないことを言ったのだと分かったのだが、何故そこまで少女が必死になるのか分からなかった。彼からすれば、ごく普通の言葉のキャッチボールをしただけなのだから。
ともあれ休めるのは有難い。少女と女が寝床の手配を進めるのを聞きながら、クロキは広間の奥に描かれた絵に気付く。
これまた歴史の教科書に出るような手法で描かれた絵は、二対の鎌を振り上げる蟷螂であった。最早隠す気ねーだろと呆れるクロキの前で、一通りの伝達を終えたであろう女は再度舐め回すようにクロキを見つめ、
「長旅お疲れ様でした。どうぞゆっくりおやすみください。何かあれば私達に何でもお申し付けくださいませ。それと、ここでの暮らしは少々特殊ゆえ世話人を一人お付け致します。誰を付けましょうか……そうですね……」
「選んでいいなら、この子がいい」
それまで沈黙を保っていた少女を指さすと、それまで色目を使っていた少女が目を剥いてクロキを見る。そして指された本人もやや眉間に皺を寄せていた。
いや、でも。と、口を濁す花飾りの少女を傍目に、クロキは髪の短い少女の手を取り、
「何でも、って言ったよな?」
事実であるが故、誰もクロキを止めることは出来なかった。
・
「何でアンタが!!!」
金切り声が静まり返った集落の外れに響く。直後に麻袋がぶっかるような鈍い音と、少女のくぐもったうめき声が続く。
松明の灯も届きにくいような辺鄙な場所で、花飾りの少女が肩で息をして仁王立ちする。その足元にはクロキに指名された短髪の少女が頭を押さえて蹲っていた。
「男に媚びるどころか無愛想なアンタがどうして選ばれるのよ! あの人をここまで連れてきたのはこの私よ!?」
クロキに選ばれなかったのが余程悔しいのか、花飾りの少女は尚も金切り声を上げて短髪の少女に手を上げる。が、その手は少女に届く前に防がれる。
「自分の魅力の無さを私のせいにしないで」
「はぁ!? 調子乗ってんじゃ無いわよ! ぽっと出が!!」
「じゃあ聞くけど、そのぽっと出に客を取られるあなたは何なの? 人を僻むより、自分のどこが悪いのかをちゃんと理解して改善すれば?」
「うるさい!!」
激昂した花飾りの少女、もとい絵里が空いた方の手で短髪の少女の頬を張った。
乾いた音が周囲に響く。
首を左に傾けた短髪の少女は、口の中にじわりと広がる鉄の味に眉をひそめつつも、真っ直ぐに花飾りの少女を見る。遠い松明の灯のせいだろうか。僅かにその目には白い光が宿っているように見えた。
ああまたこの気味の悪い目だ。
口元を拭う短髪の少女を見下ろし、彼女に出会った頃を思い出す。
森の中でこの少女と出会った時、彼女は今と同じく妙な圧のある目で自分達を見ていた。器量が良かった為連れて帰ったものの、彼女は自分達のやることに素直に従おうとせず、長い髪を切り落とし、誘われて来た男達に無粋な態度を取り続けていた。
彼女の目が、態度が、声が。全てが自分達を馬鹿にしているような気がしていた。
「これで自分が魅力があるなんて思い上がらないでよ。あんたなんて所詮道で拾った犬なんだから! せいぜいゴミがお似合いよ!! それに、あたし達がその気になったら、直ぐに餌に出来るんだからね!!」
追い打ちに土を掛け、花飾りの少女は足速にその場を去って行く。
残された少女は砂を払ってゆっくりと立ち上がると、花飾りの少女が去って行った方をじっと見つめる。
「私だって、選ばれたくない。だから髪を切って、目に止まらないような態度をしているんじゃない」
絞り出すようにして出た言葉は、僅かに震えていた。
本音と共に辛くも、充実していた過去の思い出が蘇る。その思い出には常に一人の少年の姿があった。世界がこうなってから、ずっと共に過ごしていたあの少年の姿が。
「……こた、会いたいよ……」
懐かしい幼馴染の少年の愛称を口にし、少女は足を抱えてうずくまる。
彼女の名前は犬飼美鈴。
小太郎を女達から逃し、変わりにその身を捧げた探し人その人であった。
・
一軒の家に通されたクロキは蝋燭の火を隔てて短髪の少女と見つめ合い……もとい睨み合っていた。
この家に入ってから二人は一言も交わしていない。蝋燭の燃える音すら聞こえてきそうな静まり返った空間。それは間違いなくクロキを歓迎していなかった。
もう何分ほど睨み合っただろうか。不意にクロキがゆっくりと少女に向けて手を伸ばす。途端、彼女の肩がビクリと跳ね上がる。が、彼の手は蝋燭で止まる。
「これ、どうやって作ってんの?」
「……ハゼの実を蒸して絞って固めます」
「ふーん。親父達も作ってたけど、作り方は初めて知った。面倒?」
「何度も乾燥を繰り返すので、それなりには」
「そっか。あのさ」
じりっと距離を詰められ、少女は拍子抜けした身体を再度固める。そうこうする内にクロキは少女の膝の横に手を付き、警戒解けぬ彼女の首筋に口を近付ける。
ぎり、ぎりと服の裾を握った手に力が入る。嫌だ。怖い。その2つの言葉が頭の中に溢れ、息も詰まる。
やがてクロキは首筋に近づけた口をそっと開いた。漏れた吐息が少女の首筋を撫で、背筋に冷たいものが走る。
「人いないところに行きたいんだけど」
囁くような小さな声に、少女はぎょっと目を剥く。何を言っているんだこの獣は、と黙っていると、再度耳もとで囁かれる。
「ちょっと話したいんだけど、明らかに囲まれているだろ? 何なの此処。出歯亀し放題?」
確かに家の外からは複数の気配がある。集落の女達が興味本位で覗こうとしているのだろう。ここに来てから監視が常に付いていたため、少女からすればごく普通のことなのだが、外から来たクロキにとってみれば異質でしかないようだ。
とにかく人払いをせねばなるまい。足早に玄関に出た少女は、気が散るので帰ってくださいと少々きつめに周囲に忠告して戻って来た。その後暫く周辺には人の気配があったが、少女が壁を強く叩くと瞬く間に掻き消えていった。
おお怖と肩を竦めるクロキに対し、少女は話はなんですか? と素っ気なく尋ねる。気のせいか、彼女の言葉の刺は減っていた。
「なぁ、美鈴って子知らない?」
「……どうして探しているのですか?」
「頼まれたから。小太郎ってチビに必死の形相でさ」
途端、少女ははっと息を呑む。
不意に出された懐かしい少年の名は、それまで閉ざされていた少女の心をこじ開けてゆく。知らず知らずの内に、少女の目からは大粒の涙がポロポロと溢れてくる。今度はクロキが驚く番であった。
まだ平和だった頃から一緒に過ごし、世界がこんな有様になっても共に過ごすことが出来た少年。
彼を救う為に自分はこの欲望渦巻く集落に身を投じた。ただ、彼には幸せに暮らして欲しかった。どこか遠くで、危険の及ばない場所で。そんな場所は無いだろうと分かってはいたが、少なくともここよりはマシだろう。自由を奪われ、種馬の如く働かされ、挙句は殺されてしまうような、こんな場所よりは。
しかし、彼は逃げなかった。それどころか彼を救ったはずの自分を助けようと奔走していた。
ああ、助けたと思っていたのに、助けられるのは自分だったのか。なんて愚かなんだろう。涙とともに自分の卑下の言葉が漏れた。同時にそれを嬉しく思う自分がいることに気付き、今度はため息が漏れた。
覚悟が足りなかったんだ。小さく呟くと、少女ーーもとい美鈴は顔を上げる。涙で潤んだ瞳を優しく細めて笑う美鈴はとても美しかった。
「美鈴は、私です」
「だろうな。あんただけ雰囲気違ったもん」
「見ず知らずの方にご迷惑をかけてしまって、すみません。小太郎は、元気でしたか?」
「元気元気。蜘蛛に喧嘩売るくらい元気。で、小太郎からあんたを助けるように言われてんだ。早く逃げよう。うん、逃げよう。さっさと逃げよう」
「……それは出来ません」
予期せぬ否定の言葉に情報処理を上手くすることができず、スタコラサッサと逃走を図ろうとしていたクロキは美鈴の腕を握った状態で固まる。
いつの間にか雨が降ってきたようで、静まり返った室内には屋根に雨が弾かれる音だけが響いていた。