07 女だけの集落
02 アマゾネス

 夜更けの森の中、息を切らせて必死に走る一つの人影があった。
 ガサガサと草むらを掻き分けて走るその影は、3、40程であろう一人の男であった。
 時折、木々の合間から漏れる青にび色の月明かりが時折男の体を照らした。すると、男は一糸纏わぬ姿だという事が分かった。
 ――何で、俺がこんな目に……っ!
 息も絶え絶えに、けれど走る事を止めず、男は心中で自分がこのような境遇に陥った運命を呪った。けれど、いくら運命に罵声を浴びせようとも、彼の絶望的な状況は変わらない。
 男は放浪の途中、男としては興味をそそられる噂を耳にした。そして軽い気持ちでこの森へ足を踏み入れた。しかしどうだ。噂は事実であり、男は夢のようなめくるめく日々を過ごした。
 しかし、タダで夢のような日々を過ごせる事は無い。ましてや、生き抜くだけで地獄のようなこのご時世ならば尚更の事。
 めくるめく日々の代償。それが今、男を追っているのだ。
 何かに怯えるように走り続けていた男だが、走る内に真っ直ぐ先にある森の出口を捉えた。途端、男の絶望的な表情に安堵の笑みが浮かぶ。
 ――やった、やったぞ。あいつらは森から出られない……っ! 俺は、俺は助かったんだ!
 森の出口を前にして気が緩んだのか、男は速度を落とす。しかしその僅かな油断が仇となるのだった。
 ガシャン。
 懐かしい金属音と共に、男は足に激しい痛みを感じて転倒する。何が起きたのだろう。酸素不足ですぐに状況を把握出来ない男は、転倒した姿のままでぼんやりと周囲を見渡す。
 目に入ったのは月の光を受けて鈍く光る、等間隔で真っ直ぐ縦に伸びた柵。そっとそれに手を伸ばして触れてみる。それはヒヤリと懐かしい冷たさがあった。
 等間隔で打たれた鉄の柵。そしてその中央に倒れている自分。いつの間にか、男は金属で出来た檻で捕らえられていたのだ。
 どういう事だ? 混乱する男の耳にクスクスと女の笑い声が聞こえた。途端、男の背筋は恐怖に凍り付いた。
「あらあらお客人。こんな所で何をなさっているのですか?」
 ヒィと情けない声を上げ、声の主が何処にいるのかキョロキョロと探す男へと、更に女の声は話しかける。
「そんな格好で外に出ると死んでしまいますよ? ……お客人。もしかして、逃げようとしたのですか?」
「た、頼む! 許してくれ! 俺は、俺はまだ死にたくないんだ!」
「許す? 何を言っているの?」
 男の命乞いに女の声色が変わる。
 みっともなく命乞いを続ける男だが、女は心底不快そうにため息を吐くと、樹上から飛び下りて男の前に立った。
 裾の短い着物からスラリと伸びた、肉付きの良い白い足。肩の部分で切り取られた着物から伸びる白い腕。そして、目の上で切り揃えられた黒い髪に、木苺のように赤い形の良い唇。まるで人形のような容姿の女は、年齢で言うと16辺りであろうか。
 ともかく、美少女と言っても違いない娘は不意に男の前でしゃがむと、短い髪を揺らしてにっこりと笑った。その美しい容姿に、男は思わず見惚れてしまう。
「お前、今更何言ってんだ?」
 しかしその口から出たのは、先程までとはまるで違う低い声に、乱雑な言葉。
「あれだけ村の娘に手を出しといて、許せだと? 馬鹿言ってんじゃねぇよ。お前、散々毎晩楽しんでたじゃねえか」
「それは、それは女達が誘うからだろ……! 俺は悪くない!」
「相手が誘ったら手ぇ出しても自分は悪くない? ……ふーん」
 軽蔑した目で男を見据えたまま、娘は短い髪を揺らして立ち上がる。そして短く指笛を吹くと、薄い笑みを浮かべて男の檻を開けた。
 突然の事に男は信じられないとばかりに目を見開き、そして四つん這いのまま恐る恐ると檻から出る。
「助けて……くれるのか?」
「逃げられるのなら、ね。足見てみなよ」
 娘の言葉に男は素直に自分の足を見る。途端、男は声にならぬ悲鳴を上げた。男は檻の柵に接触したせいで足の指をほとんど失っていたのだ。
「人知未踏の山奥に
 女の園は静かにおはす……」
 緊張感で痛みに気付かなかった男の悲鳴を聞きながら、娘は鈴を転がすような良く通る声で民謡のような唄を口ずさむ。
 絶叫しながら転がる男。その頭上にはいつの間に居たのか、五人の女が控えていた。
 女達は男が手負いだと気付くと直ぐ様背負っていた弓を構え、静かに弦を引く。
 男の断末魔を背にしながら、娘は胸に入れていた扇子を取り出してひらひらと踊る。その小さな口からは鈴を転がすような綺麗な歌声で、まだあの民謡が紡がれている。

 女の園は誰も拒まぬ
 夢見心地の楽園よ
 殿の吐息は園にて芽吹く
 殿の吐息は園の中
 くるりくるくる吐息を繋ぐ
 ここは女の行く末よ
 おとは要らぬがおと欲しい
 殿の吐息は園の中

 そこまで唄い上げた娘は扇子をパッと畳み、それをそっと口に当てる。
 彼女の後ろには身体中を弓で射ぬかれ、最早虫の息となった男の姿がある。それを改めて目にした娘は眉一つ動かさずに男の身体を檻に収めた。
「園の平和を守りゃんせ……」
 最後の一節を歌い上げ、娘は檻を引きずりながら森の奥へと消えていった。

 ・

 ある晴れた昼下がり、クロキは不機嫌な心境を隠す事なく、黙々と歩き続けていた。仏頂面のその肩には隻眼のカラスが留まっており、隣には至極気まずそうな表情のシロサがいる。
 ミキが咲人として覚醒した為、あれから一日と経たぬ内にクロキは家を追い出された。勿論、クロキは猛反発したのだが、状況は多勢に無勢。しかも無駄に年を食った訳ではない年長者を相手に、クロキの主張が通る訳もなかったのだ。
 そんな訳で無理矢理家を追い出され、あまつさえ出会って一日そこらの女(シロサ)と、今現在死んでくれランキング一位の厄介者(カラス)と共に期限不明の旅に出されたクロキの心中は荒れに荒れていた。家系の縛りが無かったら、一人と一匹を放り出して失踪する勢いだ。
『小僧』
 ぶちぶちと切れていく耐久性に劣る堪忍袋の音が聞こえたような気がしたクロキへと、死んでくれランキング一位のカラスが話しかける。当然、クロキは無視を押し通すのだが、シロサが非常に困惑した表情をした為、渋々反応する事にした。
「……何よ」
『女に興味はあるか?』
 何言ってんのこいつ。
 あまりにすっとんきょうな質問に、クロキは露骨に「お前馬鹿?」な表情を浮かべる。
 蛇足だが、シロサでさえも驚愕の表情を隠しきれていなかった。
「お前、俺が男に興味あるように見える訳?」
『馬鹿者。そうではない。我が封じられている間、旅のカラスから話を聞いたのだ。何処ぞの山奥に、女だけが暮らす集落があるとな』
「え、お前カラスと仲良いの?」
『我の移し身はカラスだ。それに我はカラスという種族の頂点に立つ存在。手下から情報を聞き出す等容易いわ。ふん、カラスの兼属であるブシガワ家次期当主がそんな事も知らんとは……。ブシガワ家も堕ちたものよの』
「おい、家を馬鹿にするのは構わんが、俺を馬鹿にするのは止めろ」
「く、クロキさん。論点はそこじゃ無いと思います」
 直ぐに険悪な雰囲気になる二人を宥め、シロサはズレてしまった話題を元に戻す。
 タビの一件があった為、クロキがカラスに露骨な態度を取ってしまうのは当然であろう。けれど、どうもそれの度が酷すぎて話が全く進まないのだ。
 しかも、
「あの、その女性だけの集落がどうかしたのですか?」
『カヅノに話す義理はない。どの面下げて我に話しかけるのだ。おのれ忌々しい』
 カラスはカラスでかつて自身を封じた家系のシロサを非常に毛嫌いしている。その為、この一行は会話が中々成り立たないのだ。
「……」
『……』
「……」
 無意味な沈黙が暫く続く。
 どうやらコミュニケーション能力が著しく欠如しているこの一行は一度途切れた会話を元に戻すのが、非常に苦手なようだ。
 そんな中、一番に口を開いたのは意外にもクロキであった。
「あのさ、名前無いのは呼び辛いからお前の名前考えた」
『ほう。小僧にしては中々優秀な考えだな。まぁ名前等別に必要では無いが……言ってみよ』
 その内容は今までの会話とは全く関係無いのだが、とりあえず嫌な沈黙が無くなった事にシロサは安堵した。
 そして満更では無い様子のカラスへと、クロキは考えた名前を口にする。
「ケボ」
『ケボ? 変わった響きの名前よな。して、由来は?』
「由来なんざどうだって良いだろ。で、それで良い?」
『まぁ良いだろう。それで呼ぶが良い』
 ふっと今まで張りつめていた嫌な空気が和らいだ。
 あぁ、クロキさんは何だかんだ言ってパートナーの事を考えているのだわ。そう安堵したシロサは微笑みを浮かべながらクロキの顔を覗く。
 途端、彼女はギョッとした。クロキの表情が嫌にニヤニヤしていたからだ。
 慌てて目を擦り、シロサはもう一度クロキの顔を覗く。すると今度はいつもと変わらぬ仏頂面の表情だった。
 見間違いだったのかしら? そう思い込む事にしたシロサは、再び前を見て歩き始めた。

 ・

「で、女だらけの集落って具体的にどんなのよ?」
 町外れの洞穴で野栄をする事にした一行は、周囲の安全を確認してから洞穴で火を焚いていた。そして火に当たりながら昼時のカラスの発言を追及する。
 余談だが良い音を立てて火に炙られているのは、安全確認の際に駆除した甲虫の幼虫である。青虫とは違い、甲虫の幼虫は中々クリーミーで美味な類に入る。
『言葉通りだ。山奥に女だけで住んでおるらしい』
「へー、男にとっちゃあ願ってもない環境だな」
『ふん、鼻の下を伸ばしよって。愚か者めが。ところで、小僧。アマゾネスというものを知っておるか?』
「アマゾネス?」
『遥か昔、ギリシャ神話の時代より存在していた、女のみで構成された戦闘民族だ。女は男より力は劣るが、持久力がある上血を見ても怯まぬ。戦闘は女の方が向いているとも言える』
「ふーん。そりゃ凄いな」
 大して興味ないような返事をしながらも、クロキは前に座っているシロサを見た。
 普段は花のように大人しいシロサだが、いざ戦闘となれば女子プロ顔負けの闘いっぷりを見せるのだろうか? そうなれば面白いが、シロサが巨大な虫を千切っては投げ千切っては投げ。という光景はあまり見たくないものだ。
 じっと見つめていると視線に気付いたシロサが慌て始めたので、クロキは話題を戻す事にした。
「で、それが何?」
『この近くに、それによく似た集落がある。女だけの、集落がな』
 ケボの言葉に、クロキはちょっと良いじゃないか。と呑気に考えた。
 今まで沢山の兄弟に囲まれ、花も枯れるような生活をしていたのだ。健全な男子であるクロキが、女だけの集落とやらに魅力を感じるのも無理はない。
 現にクロキは若干口元に笑みを浮かべて虚空を眺めている。

「あの、クロキさん。そこには寄らないつもりなんです」
『……馬鹿者めが』
 すっかり上の空になったクロキ。そんな彼へとケボとシロサの心配は積もり積もっていた。

 ・

 翌朝
 まだ霧深い山道をクロキ一行は黙々と歩いていた。
 夜は虫に襲われないよう、見張りをしつつ眠るのでぐっすり眠る事はまず無い。特にクロキはシロサを見張り役にする事を拒否しているので、朝一番なのに関わらず人一倍疲れていた。
 そんな訳でクロキは寝不足で益々悪くなった目付きで山道を歩いていた。
「で、次の花とやらは何なの?」
 不機嫌としか思えない表情で次の行き先を尋ねる。
 いきなり視線を向けられたシロサはそのあまりの目付きの悪さに、思わず肩をすくませた。ちなみに、クロキは決して怒っている訳ではない。ただ眠いだけだ。
「この近くにいる筈なんです。でも、ここはまともに11年前の被害を受けていますから、無事でいるかどうか……」
 所々に見える大きなクレーターを悲痛な表情で見つめながら、シロサは落ち着かぬ様子で語る。
 巨大な隕石がまとめて落ちてきたのであろうクレーターの数々。雨水が溜まって巨大な湖のようになっているそれ等は、12年前の災害がどれだけ酷かったのかを見る者へ静かに訴えかけていた。
 当時、この隕石でどれだけの生物が犠牲になったのだろうか。突然の災害の中、何を思って逝ったのだろうか。そう思うと手を合わさずにはいられなかった。
「次は鳥類じゃない奴が良いな。鳥はもう飽きた」
『ふん、鳥一匹満足に従えられぬ者が何を言うか』
「カラス従えて何が楽しいんよ。真っ黒だし声汚いし……。お前一回漂白した方が良いんじゃねぇの?」
『カラスの濡れた羽根は女の理想の髪を指すと言うに……。そんな事も知らぬのか、小僧』
 だがクロキは湖に向けて手を合わせる隣で、また花が鳥だという事につまらないと文句を付けていた。そして尚も黙祷を続けるシロサを尻目に、ケボとくだらない言い争いを始める。

「この……っ、虫め!」
 そんな折、比較的近くで男の大声がした。
 途端、クロキとケボは言い争いを止めて声がした方に何がいるのかを探る。
 その声は山道の斜め下、クレーターの湖の付近から聞こえていた。暫く様子を見ていると、後退しながら吠えている15、6歳程であろう少年の姿が見えた。
 まだあどけない面影が残る、赤茶色の短髪に前髪の一部のみが黒いツートーンの少年は、虫に対してであろう罵声を浴びせている。威勢だけは良いが、少年はひたすら後退を続けている。まだ姿が見えぬ虫に食われるのも、時間の問題だろう。
 そうこうする内に、虫の物であろう長い足が見えた。
「うわっ……」
 虫の全貌が見えた時、クロキは心底嫌そうな声を上げてこれ以上無いまでに顔をしかめる。
「クロキさん……!」
 じわじわと追い詰められてきた少年を見、シロサはすがるようにクロキを見つめる。けれどクロキは直ぐに動こうとしなかった。
 無論、助けないつもりではない。だがしかしクロキにも虫の得手不得手がある。
 この度の虫、蜘蛛はクロキがあまり好きでない虫であった。
「おいケボ、お前何とかしろ」
『何故我が。面倒な事は御免だ』
「は? お前咲人の言うこと位聞けよ。いつぞやの時みたいにパァーと生気吸ってこいって」
『生憎腹は減っておらぬのでな。第一、一体化しておらぬ花は咲人に絶対服従ではない』
「クロキさんっ!」
「ああもう、このボケカラス!」
『何をするか、無礼者!』
 追い詰められた少年を見たシロサが悲痛な声を上げる。その声と状況に、それまで渋っていたクロキは短く舌打ちをすると、ケボをむんずと掴んで山道からクレーターに向かって飛び降りた。
 飛び降りる最中にケボは黒い花弁へと姿を変え、クロキの左手から彼へと吸収される。これが先程ケボが言っていた、一体化するという事なのである。
 クレーターの縁に着地したクロキはゆっくりと立ち上がり、今まさに少年を捕らえようとしている巨大な蜘蛛を見据える。ケボを完全に取り込んだクロキの左手は、禍々しい黒いオーラを放っていた。

「これで今日一日は役立たずか」
「だ、誰か知らないけど助けて!」
「うるさい黙れ」
 ぴしゃりと一蹴にされ、少年は青い顔をして黙り込んだ。
 無理もない。今クロキは寝不足で人相が何時もよりうん十倍も悪いことに加え、本当に不機嫌な為すこぶる恐ろしい表情となっている。言うならば、般若だ。
 本契約を交わしていないクロキがケボと一体化して能力を使うのは一日一回限り。つまり、今一体化したクロキは今日一日はもう能力が使えない。万が一の事があっても、もうクロキはどうする事も出来ないのだ。
 それがクロキの機嫌を悪くさせていた。勿論、眠気と蜘蛛が相手だというのも含まれているが。
「本当面倒臭い。何で俺が蜘蛛なんかと。このガキ……」
 般若の形相で睨み付けられ、少年は益々縮こまる。これではもう何をする為に出てきたのか分からない。真っ正面から悪態を吐かれた少年は蜘蛛とクロキ、それぞれ違うプレッシャーに押し潰されそうになっていた。

 ――あまりに気の毒だわ。
 少年があまりに気の毒で、シロサはクロキと同じように山道からクレーターの縁まで飛び降りて少年と蜘蛛、そしてクロキの間に入った。
「脅かしてごめんなさい。大丈夫ですから。怪我はありませんか?」
「あ、う、うん」
「此処は危ないですから、少し離れましょう。蜘蛛はあの方が退治してくださるので」
 柔らかな優しい笑みを浮かべたシロサに手をひかれ、少年は小走りで蜘蛛から離れた。
 少年とシロサが動き出した直後、それまでクロキと少年を見比べていた蜘蛛がその巨体を動かした。少年を狙った方が役得だと考えたのだろう。
 膨張している腹部の重み等感じさせぬ速さで、蜘蛛は長い八本の足を動かせて少年を追う。
 蜘蛛の接近に気付いたのか、シロサは逃げ足の速度を上げた。俊足の足を持つシロサにとってはそれ程早めたつもりは無いのだが、至って普通の少年は着いていくだけで精一杯である。

「このメタボ」
 命がけの徒競走の最中、クロキは蜘蛛に悪態を吐きながらその剛毛に覆われた足に左手で触れた。途端、クロキの左腕からは何本もの黒い触手が現れて蜘蛛の体をがんじ絡めにして行く。
 甲高い声を上げてもがく蜘蛛だが、時が経つにつれて大人しくなり、やがては全く動かなくなる。
 生気を吸い尽くされたのだ。
 屍と化した蜘蛛を振り落とし、クロキは何かを探るように周囲を見渡す。
 くるりと周囲を観察していると、不意にクロキは「あった」と小さく呟いた。そして視線の先、湖畔に生えている朽ちかけた木へと歩み寄る。
 そこには美しい模様の蜘蛛の巣が。そしてその中央には大人程の大きさの一つの繭があった。
「それは……?」
 いつの間にか近くに来ていたシロサが遠慮がちに尋ねる。彼女を見れば、その後ろには信じられないと言った調子で口をあんぐりと開けた少年がいた。
「卵だよ、蜘蛛の卵」
 言いながらクロキは繭に向けて手を伸ばす。そしてその腕からはまた黒い触手が伸び、繭に包まれた卵を囲んだ。
「なんせこの中には何百と卵が詰まっているから。子蜘蛛が孵るとやっかいだから、始末しておかないとな」
 掌で繭を掴むようにすると、黒い触手は勢いを増して繭を包み込む。
 同時に触手が放つ黒いオーラは濃くなり、そして消えた。それは生気を吸い尽くしたことを示していた。
「……疲れた」
 ポツリと呟き、命を無くした繭の前でクロキは地面に座り込む。
 能力を使うにはそれ相応の体力と精神力が必要となる。まだ慣れていない為、適切な力加減が分からないクロキは無駄に疲弊してしまうのだ。
 今のクロキとケボは、免許取り立ての初心者と燃費の悪い車の関係に近い。はっきり言って最悪の関係である。

「もうお前最悪。こういう時位言うこと聞けよな」
「すげぇ……」
 カラスの姿に戻ったケボを鬱陶しそうに追い払うクロキを見ながら、シロサの後ろにいた少年は感嘆の声を上げた。
「この人なら、出来るかもしれない……」
 黙りを決め込んだケボにひたすら文句を言うクロキを見つめながら、少年は震える声でポツリと呟いた。
 そして次の瞬間、少年はクロキの手を両手で掴んでいた。
「え、は? 何」
「お兄さんお願い!」
「お願い? 何それ……」
「お願い! そのすげぇ力、俺に貸してよ!」
 突然の申し入れに、クロキはただ「はぁ?」と怪訝に返すことしか出来なかった。
 少年の案内でクロキ達は山の外れの掘っ立て小屋に来ていた。
 少年が言うには、あの場所は巨大な蜘蛛の縄張りであり、進むにも留まるにもいかぬかなり危険な場所らしい。その為、少年はまだ比較的安全な場所で話をしようと、彼の自宅へクロキ達を招いたのだった。
 見ず知らずの他人、それもクロキが今日能力を使えない原因となった輩の世話になるのは抵抗があった。けれど、自宅を離れてから野宿続きであった一行――特にクロキは柔らかい布団が恋しくなっていた為、少年の申し出を即答で受け入れていた。
 柔らかい寝床。岩や地面の上ではない、体が痛くならない寝床……。クロキの脳内は寝床らしい寝床で埋め尽くされている。
 しかし、現実はそう甘い物ではない。

「さぁさ、入ってよ!」
「ボロッ!」
「ちょ、お兄さん正直すぎるよ!」
 招かれた先は岩肌に板が立て掛けられただけの、掘っ立て小屋と言っても良いのか危うい程の小屋。否、これは小屋ではない。小学生が作った秘密基地である。
 想像が膨らみすぎた分、しょっぱすぎる現実に意気消沈するクロキ。そんな彼を宥めながら、シロサは恐る恐るクロキと共に秘密基地に足を踏み入れる。

 秘密基地はやはり中も外も秘密基地で、三人が入っると身動きも取れない狭さであった。
『このようなあばら家、我はとてもではないが居られぬ』
 初めに文句をつけたのは意外にもクロキではなくケボであった。ケボは少年の家に入るや否や馬鹿らしいとため息を吐いて外に出ようとした。が、三人で限界に近い室内で翼を羽ばたかせる等到底無理な話であった。事実、ケボは翼を広げたまま身動きが取れずに固まっている。
 しかしプライドはヒマラヤの如く高いケボは自分が間違いをした事は頑として認めたくないようで、懸命に翼を動かそうともがく。が、その努力はクロキの顔面を数回に渡って叩くだけに終わる。
 クロキの肩で懸命に翼を動かすケボ、仏頂面のまま顔面を叩かれ続けているクロキ……。その光景は何だかシュールで、シロサは「カラスが喋った!」と目を輝かせる少年の前で自分はどうするのが得策なのだろうと、悶々と悩んでいた。
「……」
 そんな中でクロキは肩の上で暴れるケボをヒョイと掴み、
「飛べないなら歩けば良いと思うな。ああ、ちっぽけな脳みそにはそんな考えも浮かばないか。失礼、失礼。とりあえずお前……やかましいんだよっ!!」
 怒りの声と共にケボを屋外に放り出した。
 そして外でギャーギャーと喚くケボを華麗に無視し、何処かすっきりした表情で少年に向き直る。
 カラスがぶん投げられた場面を初めて見た少年は暫く呆然としていたが、クロキが自分を見ていると分かると、背筋を無駄にシャンと伸ばす。
「あ、お茶でも飲みますか? 確かこの辺にお茶っ葉が……」
「いいって。てかこの部屋じゃ動きようないだろ。あーもう、だからっ!」
「クロキさん、立ち上がっちゃ駄目ですよっ!」
 何か持て成しをしなければと立ち上がる少年だが、スペースが狭すぎる為立ち上がると同時に転倒してしまう。結果、少年は斜め前にいたクロキへと倒れ込んでしまう。
 これにより、室内はちょっとした阿鼻叫喚状態になった。

「じゃあ本題に入りましょうか!」
「切り替え早いな」
「へへ、良く言われてました」
 誰かが誰かに倒れてぶつかる。それが数分間続き、室内、人共に乱れた環境で少年は屈託の無い笑みで場を仕切り直す。
「えーっと、まずは自己紹介だね。オレ、小太郎」
「クロキ」
「カヅノシロサです」
「へー、兄ちゃんと姉ちゃん、オセロみたいな名前だね!」
 少年の発言にクロキは少し親近感を持った。シロサもまた、この子思考回路がクロキさんに似ている。と思った。
「小太郎君、一人で住んでいるんですか?」
「うん、父ちゃんも母ちゃんも十一年前のあの日に死んじゃったからね」
 小太郎の言葉にシロサは動揺してしまう。
 十一年前のあの日。世界は無数の隕石と虫襲われ、壊滅的な被害を受けた。その後の短い氷河期の影響もあり、自分を含めて生存者は極僅か。残った者も身内を失った悲しみや、迫り来る虫の脅威に怯えながら暮らしている。
 分かっていた。分かっていたつもりだった。なのに自分の口から出たのは無神経とも取れる発言。
 その発言により、小太郎を傷付けてしまったかもしれない。
「変な事を聞いてごめんなさい……」
「何で謝るの? 今の御時世身内が居ないなんて、そんな珍しい事じゃないよ。お姉さん、そんな事一々気にしてたら疲れるよ」
「うん、アンタはちょっと考えすぎ」
 けれどシロサの心配を他所に、小太郎はケロッとしていた。むしろ逆に小太郎から励まされ、クロキからダメ出しをされる。
 なー。とさも当たり前のように顔を見合わせる二人を見ながら、シロサは私が変なのか。と少し悩んだ。
 シロサが悩んでいる間も、似た者二人の会話はどんどん進む。
「でもさ、お前最近まで誰かと一緒にいただろ?」
「何で?」
「んー、何となく俺の兄レーダーが反応した。誰かと一緒に居て……若干甘えてたろ」
「わー、兄ちゃんスゲーや! 当たり当たり。まぁ甘えてたかどうかは分かんないけどさ。甘えてたのかな、あれは」
「あ、当たった。結構適当に言ったんだけどな。儲け物だな、こりゃ」
「何それ!? 兄ちゃんズッケーよ!」
「悪い悪い。でも、分かってたのは事実だぞ。十一年間こんな環境を生き抜いた奴が、馬鹿みたいに巨大蜘蛛に真っ正面から挑むなんてあり得ないから。だからちょっと前まで守ってくれてた誰かが居たんだろうなーって思った」
 クロキの推理に、小太郎はおおっと感嘆の声を上げる。どうやら図星だったようだ。
 凄いと思ったのはシロサも同じなようで、口に手を当てて驚いた表情でいる。失礼な話だが、クロキがそこまで考えていたとは思っていなかったのである。
「二つ上の美鈴ちゃんって子が、十一年前から一緒に居てくれたんだ。あ、ちなみにオレが今十五だから、美鈴ちゃんは十七ね」
「て事は当時五歳と七歳か。そんな小さいとは思わんかった。よく生き残ったな」
「うん、美鈴ちゃんは何だか不思議な力持ってたから。兄ちゃんみたいな、漫画みたいな力をさ」
「……不思議な力!?」
 クロキのような力。その言葉にシロサの目の色が変わる。美鈴という少女が咲人かもしれないと考えたからだ。
「美鈴ちゃんはいつからその力を使っていましたか?」
「え? あの日にはもう使ってたよ。蜘蛛に家族みんな殺されて、泣き叫んでたオレを助けてくれたのは、大きな白い犬を連れた美鈴ちゃんだったから。凄かったよ!」
「犬かー、良いなぁ犬。俺も犬が良かったなー」
 当時を思い出したのか熱くなる小太郎と犬馬鹿を炸裂させるクロキの傍らで、シロサは美鈴という少女が咲人でほぼ間違いないという考えに至っていた。
 しかも、小太郎の話によると美鈴は既に花の力を最も活かせる「具現化」まで習得している。それも、十一年も前にだ。
 花は咲人と契約しても、巨大すぎる力を抑えるため、普段はケボのように小さな身体に納まっていたり、もしくは精神体だけになっている。その状態で能力を使っても、発揮できる力は本来の半分以下である。
 花の真の力を引き出してやるには、咲人が花に精神を注ぎ込み、本来の姿を具現化する必要がある。だが、それには花との信頼が深くなければ、もしくは天才でなければ花に体を乗っ取られる事がある。よってクロキとケボのような火と油のような関係は論外である。
 契約して一日其処らで具現化が出来る等、信頼関係ではあり得ない。となれば、美鈴は……、
「美鈴さんは……天才ですね」
「そうだよ。美鈴ちゃんは頭良いし、可愛いし……」
「ふーん、惚れてんだ」
「……お兄さんねー、そういうデリケートな話は簡単に口出さないでよ。ちなみに、お兄さん何歳?」
「二十二だけど」
「あ、じゃあ大丈夫だ。成人男性は未成年の女の子に手を出しちゃ駄目って法律あったから。だから美鈴ちゃんに手出したら駄目だよ」
「何でそんなの知ってんの……」
 小太郎の知識にクロキは脱力する。
 しかし、法律という物が消え去った今、そんな事柄は過去の異物に過ぎない。破ろうと思えば容易く破れるが、小太郎の嫌に真剣な目にクロキは少々気圧されていた。
 だが、小太郎がそこまで惚れている美鈴という少女に少なからず興味を持ったのもまた事実である。
「その美鈴って子は何処にいる訳?」
 見たい見たいと馬鹿正直に本音を口にするクロキだが、小太郎の顔は何故だか晴れない。
「美鈴ちゃんは、オレを守るために連れ去られちゃったんだ。……蟷螂派のアマゾネスに」
 アマゾネス。聞いたことのある名に、シロサとクロキはそれぞれ違った反応を見せる。
「アマゾネスって言うのは、この辺を縄張りにしている女の人ばかりの集団なんだ。ま、アマゾネスって名前自体は俺達が勝手に呼んでいるだけだけどね。女の人ばっかりの集団だから」
「女だけ。ねぇ……」
「昔はそうでもなかったんだけど、集団の中で蜘蛛派と蟷螂派に別れてから、良く人を。男を襲うようになって来て……。それで先月、オレが蟷螂のアマゾネスに見つかった時、美鈴ちゃんは自分が集団に入る代わりに、オレを逃してやってくれって……」
 当時を思い出したのか、小太郎のズボンを掴んでいる手がわなわなと震える。
 十五そこらの小太郎とて、中身は立派な男だ。想い人であり、家族でもある美鈴が自分のせいで捕まったのは悔やんでも悔やみきれない。
 その思いは、クロキが一番分かっていた。
「初対面の人にこんな事を頼むのはおかしいのは分かってる。でも、オレの力じゃどうにもならないんだ。お願いだよ、お兄さん! 美鈴ちゃんを……助けてください」
 クロキとシロサ、両者に少年の頼みを断る理由はなかった。


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