77
 まだ朝靄の濃い山の中を、セツは一人歩いていた。
 冷たく澄んだ朝の空気が頬を撫で、濃い酸素が寝起きの頭に染み渡っていく。が、当の本人は爽やかさなど全く感じていないのか、いつもの無表情で淡々と足を運ぶ。
 分かれ道に差し掛かったとき、不意に彼女は足を止めて別の道を見る。見えるのは濃い霧に包まれた木々。が、良く見るとその奥から近づいて来る者がいた。
 この地で遭遇する者は限られている。その内の一つであるナツメとは昨日袂を分かっているので、可能性はまず無い。となれば、此方へ来ているのは恐らく昨日この森へと来たというココーだろう。
「おはようございます」
 案の定、霧の奥からやって来たのはココーであった。
 すっかり汚れて穴だらけになった外套を纏った彼は、短くおはようと返し、懐から出した短剣でセツの首を落とそうとした。
 その仕草があまりに自然で、まるでセツにハンカチを差し出すかのようなさり気なさであったため、セツの反応はやや遅れてしまう。結果、彼女はココーの殺意のない攻撃を避けることが出来ず、胸元に赤い花が咲いた。
 何故彼がそんな行為に至ったのか。その理由は分からない。が、目の前のココーは自分を殺そうとしているのは理解できた。
 それだけ分かれば十分であった。今セツがすることは一つ。何としてでも生き延びる。それだけだ。
 ひとまずココーと距離を取るべく、セツは止めていた足を動かし、木々の間を走り抜ける。背中を向けるのはあまり好みではないが、状況が状況なので仕方ない。休み無く木々の間をすり抜けて走れば、幾らココーとて容易にセツに短剣を当てることは出来ないだろう。
 すり抜ける木々に短剣が突き刺さる、どこか小気味音を耳にしながら、先ほど負傷した胸元に手を当てる。触れるや否やじんわりと手のひらを伝うなま暖かい血液から、傷がそう浅くないということを否が応でも認識させられる。
 胸元に結界を施して簡易的に止血をした時、突如背後におぞましいまでの嫌な気配を感じ、セツは咄嗟に進行方向にあった谷に身を投げた。
 直後、バリバリと木を裂くような爆音が周囲の空気を震わせ、それに続いて土煙が朦々と舞い、視界を白から茶色へと変えていく。
 途中にあった枯れ木に捕まり、すっかり茶色に染まった上空を眺めたセツはあれがココーの斬撃によるものだということを思い出した。
 ココーには類希なるナイフ捌き、そして閉ざされたものをこじ開ける特異な能力を持っている。が、真に彼の能力で恐れるべきものは、上記二つではなく、恵まれた身体能力によって放たれる強烈な斬撃である。
 普段は面倒だからとあまり使用することはなく、それ故彼が優れた剣士であることは一部の者しか知らない。が、彼が一度やる気になれば、周囲の地形は変わり、斬撃の対象となった者は呆気なく塵芥と化してしまうことだろう。ーーこの地のように。
 落ちれば谷底、上がればココー。さてどうしようか。この状況を打破しようと長考に入ろうとするも、頭上の土埃からココーが現れたため中断せざるを得ない。
 こうなれば迷っている暇はない。ココーの姿を確認すると同時に枯れ木から手を離し、重力に身を任せる。途端、それまで手を置いていた枯れ木はものの一瞬にして木っ端微塵に砕け散った。
 危ないところだったが、これで当面ココーの斬撃を心配する必要はない。ココーの斬撃にはある程度の溜めが必要である。溜める時間が長いほど威力は増すが、逆もまた然り。今、セツと同じように空中に浮いている彼は、岩肌に足を着けない限り斬撃を放つことが出来ない。
 ーー今が好機か。
 心中で呟いた後、セツは目にも留まらぬ早業で刀を岩肌に突き立て、落下の勢いを殺す。両手に伝わる激しい衝撃に、一瞬握力が無くなったかと思ったが、それが勘違いだと気付くよりも早く、何を思ったのか壁を蹴ってココーの元へと跳ぶ。
 予想外の行動に、ココーの剣がほんの少し遅れる。それは瞬き程度の遅れに過ぎなかったが、セツにとってはそれだけで十分であった。ココーが攻撃の手を止め、彼に触れる隙があれば、それだけで。
 一瞬の制止の後、剣を引いてセツの心臓目掛け、真っ直ぐに剣を突き出す。が、その剣がセツの心臓を刺すより早く彼女の手が剣を握ったココーの手を掴む。
 直後、セツの手を中心として結晶化した結界が広がり、ココーの右手を浸食してゆき、彼の手の自由を奪った。
 右手の自由を奪われたココーはすぐさま懐から短剣を取り出し、首を落とそうとする。すかさずセツも結界で小さな剣を作り出して応戦する。
 片手を繋いだ状態で、二つの黒い固まりは目にも留まらぬ攻防を繰り広げながら、もつれ合って谷底へと落ちていき、やがて重たいものが水に落ちる音と共に、大きな水柱が立って起こる。
 激しい水音の後、周囲にはしばし不気味なまでの沈黙が訪れる。
 が、水面下では引き続き激しい攻防が繰り広げられているのか、水面は絶えず激しく揺れている。しかし、それもそう長く続かず、しばらく経つと水面はいつもの川の流れだけが支配する。直後、水面に現れたのは胸底から上がる真っ赤な血……ではなく、水面はおろか川全体を覆う真珠色の結晶であった。
 結晶に覆われた川は川としての機能を失い、ただただ淡い真珠色の光を放つのみ。やがて川の中央が地割れのように裂け、そこからココーを支えたセツが這い上がってきた。
 セツが去るなりガラガラと音を立てて結晶は崩れ、元の澄み切った水が谷底を満たしていく。
 岸に上がり、岩の上にココーを横たえたセツは前髪から垂れる水滴を乱暴に拭い、ぽつりと呟く。
「……泳げないなら、襲撃場所を考えてください」
 ココーは金槌であった。
 人付き合いを除き、何でもそつなくこなす彼が実は全く泳げない等、いったい誰が想像するだろうか。と言うか、今まで散々泳いでいただろうに。
 それはセツも同じで、川に落ちてからしばらくもみ合った後、いきなり彼が大量の空気を口から吐き、暴れながら意識を失うまで気付きもしなかった。
 今まで散々水には触れていたのに、何故今回だけ。小さくごちり、おもむろに彼の胸に手を当ててぐっと強く胸を押す。すると、彼の口から多少の水が漏れた。が、それだけで他に反応はない。
 何度か胸を押したものの、それ以降目立った変化が無い彼に呆れたようにため息を吐き、セツは剣による傷よりも暴れて出来た傷の方が多い体を持ち上げて、ココーに多い被さる。そして彼の鼻をつまみ、顎を上げさせ、
「あなたは、こんなところで死んで良い存在ではない」
 ぐったりとしたままのココーに小さく呟き、セツは彼の口にかぶり付いた。

 ・

「おい、狗」
 薄暗い洞窟の中で、明らかに馬鹿にして居るであろう鼻にかけた声がした。
 当初はその生意気な物言いが、視線が、そもそも存在が。全てが気に食わず、皮肉な言葉を掛けられる度、目が合う度、そして自分の機嫌が悪いときには周囲に止められるまで痛めつけていた。
 しかし、どれだけなぶろうと、そいつは血の海の中で「満足か?」と晴れ上がった顔で笑みを浮かべ、此方の気が晴れることは一度だってなかった。
 むしろそいつを叩く度に自分の空っぽさが増しているような、奇妙な感じだってした。だが、そうする以外に苛立ちを押さえることが出来なかった自分は、そいつを叩くことを止めることが出来なかった。恐らくだが、そいつは自分がそうすることを望んでいたのだろう。
「おや、無視かい? アルティフの狗」
「……止めておけ、またしばらく物が食えんようになるぞ」
 そいつと共にいることが多い赤毛は、まだ話が分かるようであった。
 事実、そいつは一昨日まで顔が腫れ上がり、咀嚼が出来ない状態であった。
 しかし、赤毛の忠告を鼻で笑い、そいつは尚も楽しそうに挑発を続ける。
「おい、命令を聞くしか能がない空っぽ野郎」
 その言葉にきびすを返し、そいつが収容されている檻に向かう。
 格子越しに目が合うと、そいつは獲物がかかったと言わんばかりに目を細める。嫌な目だった。
「何だ、怒ったのか? 自尊心だけは一丁前だな。中身は空っぽな癖に。なあ、股肱殿」
 隣の赤毛はもう何を言っても無駄だと分かったのか、呆れたようなため息を一つ吐き、檻の奥へと戻っていった。カリカリと、鎖を引きずる無機質な音が耳障りであった。
「……お前に、何が分かる」
「他人のことなんざ分かるわけ無いだろ。ああ、分かるって言って欲しかったのか? あんたのことなら何でも分かる! って。……阿呆らしい。どこのお姫様だよ。他人の事なんざ分かるわけないだろう。ましてや、歩み寄ろうともしない奴のことなんか」
 とにかく気にくわないやつだ。一つ言えば、三つ四つと反論が来る。
 なによりも気にくわないのは、その反論が正論だと言うことだった。
 正論だからこそ言い返せず、貯まった憤りは暴力となって現れる。
 案の定、血だまりの中でそいつは笑った。満足か? と。
「おい、狗」
 檻を出ようとすると、そいつはやや呂律の回らない舌っ足らずな声で声をかけてきた。
「いつか自分で物を考えられると良いな」
 皮肉だとは分かっている。
 しかし、その言葉に胃の辺りが締め付けられるような奇妙な感覚を抱いた。

 ・

 目を開くと、真っ暗な夜空が広がっていた。
 どうしてもう夜になっている? そもそも此処は何処だ? 体を起こすと体に掛けられていた綿毛で作られた布が落ち、肌着だけ身につけた自分の体が露わになる。余計に疑問が増えた。
「ああ、目が覚めましたか」
 誰が熾したのか、明々と燃えるたき火に当たっていると聞き慣れた声が闇の奥からした。案の定、声がした方にはセツが立っていた。その両手に大量の魚を持って。
「随分お疲れだったんですね。ほぼ一日目を覚ましませんでしたよ。あと、風邪を引くと困るので、服を乾かしておきました。そこにあるのでどうぞ」
 瞬時に二つの疑問を解消してくれたセツは、たき火の側に腰を下ろすと手に持っていた魚を予め集めておいたであろう木で魚を刺していく。
 しばらく火で体を温め、服を着た頃には、魚は香ばしい良い匂いを周囲に充満させていた。
 腹の虫が鳴り、それを聞いたセツが魚と岩塩を手渡す。ほぼ二日振りに口にする食事は、五臓六腑に染み渡って行くような気がした。
「泳げないんですね」
「……悪いか?」
「いえ。ただ、どうしてそれを言っていなかったのかと思っただけです」
「聞かれなかったから答えなかっただけだ。クロハエが居れば事は足りるしな」
 そう言えば、水辺ではココーの側には必ずクロハエがいた。単に偶然か、泳ぐのが面倒なココーがクロハエを浮き代わりに使っているのだと考えていたが、今思えばあれは泳げないココーがクロハエにしがみついていただけなのだろう。
 しかし、泳げないのに良くもまあ毎回抵抗せずに水辺に近づくものだ。半ば呆れに近い感心を抱きつつ、魚を全て平らげたココーのために新しく魚を焼く。
「そうですか。……もう殺さなくていいんですか?」
 おもむろにセツが口にした質問の意図が分からず、ココーはしばらく黙る。それが今朝の事を指しているのだと気付いた彼は、ああ。と少し間延びした声を上げ、もう止めた。とだけ口にして、まだ生焼けの魚に手を伸ばす。途端、生焼けは危ないと手を叩かれる。
「……お前を潰せと言われたからそうしようとしたんだが、誰かに命じられて行動するのは違うと思ってな。少し自分で考えてみようと思う」
「おめでとうございます」
 何の祝いの言葉か分からず、ココーは懲りずにまた伸ばしていた手を止める。が、何故か言った本人のセツもココーの手を叩き落とそうとする形で固まっていた。
 しばらく見合った後、時間差で結局セツに手を叩かれたココーは恨みがましくセツを睨みながら、手をさすりつつ後退する。
「……あれは、元気でしたか?」
 代わりにこれを食えと木の実を差し出しつつ、セツは誰を指しているのか分からない質問を投げかける。
 解釈が難しい質問ではあるが、普段それに近い話し方ばかりしているココーにとってはいとも簡単に理解出来た。
「あの非常識に小さい龍か。俺の怪我の具合を見れば元気だと分かるだろう。この実美味いな。何だ?」
「ああ、確かにそうですね。グミです。ああ、もう焼けたようなので食べてください」
「あいつに会わなくていいのか?」
「会う必要がありません。あれは私を嫌っていますので」
「何故だ?」
「姿形があれを従えた者とそっくりなのに、中身が全く違うのが気にくわないそうです。一度、ナツメを連れて結界の補強に向かった時、殺されかけました」
 確かに、あの龍はセツの名を一度も呼ばなかったどころか、どこか毛嫌いするような発言をしていた。
 セツの言うとおり、龍が好んでいるのはかつて龍を従えた者。つまりセツのベースとなった存在なのだろう。だから今のセツを嫌い、ココーに彼女を潰せと命じた。辻褄は合っている。が、何か引っかかった。
 掴もうとしたとたんに、するりと手から滑り落ちていくような記憶。それがたまらなくもどかしく、腹が立った。
 腹立ち紛れに魚を平らげ、セツが捕ってきた全ての魚が無くなった時、セツはもう寝ましょう。と静かに告げた。
「今起きただけなんだが」
「貴方はそうでしょうが、此方はずっと起きていたのです。それに、まだ体の疲れは取れていないでしょう」
「まあ、そうだな。だが、お前にはまだ聞きたいことがある」
「何故今なのです? いつでも聞けるでしょう」
「今聞かなければ、お前はどこかへ行ってしまう。何故かそう思う」
 その言葉に、セツは否定も肯定もせず、ただココーを見つめる。
 セツは嘘を吐けない。
 こっそりとケミがココーに教えたセツの秘密。それの真偽は不明だが、即答しないセツを見るにあながち嘘ではないようだ。
「なあ、お前は何を考えている? 何を思って俺たちと行動を共にしている?」
「私達の目的を果たし、貴方達を自由にするためです。私は昔からその為に生きています」
 先ほどとは違い、きっぱりと言い切ったセツの目は、たき火に揺られて妖しい光を放っていた。けれど、そこに悪意や偽りの色は見えない。
 セツの言葉に引っかかる物を感じたココーは返事を少し置いて考える。
「どうして貴方達で、私達ではないんだ?」
 そうだ、セツの言葉には目的にはセツも含まれていたが、自由にするという言葉にはセツ自身が含まれていなかった。
 ーーさあ、この質問。お前はどう答える?
「当然です。私が死ぬことで皆さんの不老は解けるのでしょう?」
 何を言っているんですかと言わんばかりの回答に、ココーは閉口した。
 確かに、呪いにも近い不老はセツの死によって解ける可能性が高い。だからセツは自由になるというところに自分を含んでいなかったのだろう。
 そんなことは分かってはいた。自分達が望んだことなのだから。しかし、それをセツが知っているとは知らなかったし、セツ本人の口から聞くと自分達が望んでいることの業の深さが増したような気がした。
「お前はそれで良いのか? 俺は、俺たちはそれを何とかしたいと思っている。お前が望むのならば」
「私の望みは貴方達の自由です。他に望むことはありません」
 何を言っても無駄だ。
 セツの短い返答に、彼女の真意を感じ取ったココーはそうかと小さく呟くと体を横たえた。
 セツの今の言葉には、否、今思い返せば彼女の発言の節々には揺るぎない信念が含まれていた。今更他人にどうと言われて覆るものではない。例えそれがココーの命令であっても。
 どうしたものか。心中で呟き、綿毛で作られた毛布にくるまる。ふわりと臭う獣臭に気付いた彼は、体を横たえたまま質問を投げかけた。その臭いは昨日喧嘩をしたばかりの輩の臭いだった。
「この毛布、あいつ等の毛で作っているんだろう?」
「……さあ。どこぞのお節介な方が大量の毛を置いていったんで作っただけです。何処の誰かは知りません。もう、寝ますね」
「おい、まだ寝るな」
 話を打ち切られそうになったため、ココーはセツの体を鬱陶しい程に揺すって睡眠の妨害をする。
「知らない訳がないだろう。あれはお前の……」
「絶縁したんです。あなたにあの場所の秘密を漏らしたので」
 心臓を鷲掴みにされたような、不快な感覚がした。
 過去の書物からアルティフが在るものの遺伝子を使用して作り上げた生命体。そのセツにとって、ナツメ達森徒は血を分けた唯一無二の家族であった。
 セツが彼らについて多く語ることは無かった。誰も聞かず、また、セツも話そうとしなかったから。だから、彼女が彼らの事をどう思っているのか、どんな存在であるのか詳しく知っている者はいない。
 しかし、こまめにメギドに帰り、そのたびに兎や獅子などの手みやげを持ち帰る普段のセツからは考えられない気遣いから、セツがどれだけ彼らを大事にしているのかは把握出来ていた。
 以前のセツならば冗談を言うな。と鼻で笑うことが出来た。が、今のセツは冗談は口にしない生き物であるし、真偽は不明だが嘘は吐けないという制約が付いている。それに、原因が自分にあることから、彼は何故そこまでする必要があるのか聞くことに躊躇いがあった。
「股肱さん、本当にあの場所に入っていないのですね?」
 アルティフの忠臣時代の発音で名を呼ばれ、少々不快に思うココーだが、セツの表情を見て素直に首を横に振る。セツが放つ妙な圧迫感に気圧されたわけではないが、ここは素直に答えねばならないと直感した。
「本当だ。あの非常識に小さい龍が邪魔をして入れなかった」
「なら良かったです。危うく消えるところでした」
「消える?」
「言葉の通りです。ではそろそろ寝ましょう」
「言葉通りとは何だ? お前、話すの下手だな。もっと子どもに言い聞かせるように噛み砕いて説明をしろ」
「なら、坊ちゃん。話の分かる人を連れてきてください」
「逃げるな。起きろ。おい、結界を解け」
「おやすみなさい」
 皮肉を皮肉で返した後、セツはココーの妨害に遭わないよう結界の繭を作った。
 なんて話の分からない奴なんだ。自分の事を棚に上げて憤慨していると、ふと自分の周囲にも薄くではあるが結界が張られていることに気付く。
 セツの結界にばかり気を取られていたが、彼女は野生の生き物に襲われないようにとココーにも防御網を敷いてくれていたのだ。
 礼を言おうとしたが、気を緩めた途端に睡魔がココーの意識をからめ取っていく。薄らいでいく意識の中で、ココーは眠ったとばかり思っていたセツの声を聞いた。
「どこへも行かないよ。消えるだけだ」
 その声が、喋り方が今此処に居るはずのない友の声に似ており、ココーの意識はほんの一瞬覚醒し、体を起こす。
 視線の先には彼と同じく体を起こしたセツがいた。が、良く見れば彼女の目は黒では無く新緑色に変化しており、その顔には柔らかい笑みが浮かんでいた。
 ーーどうしてお前がここに。否、この際それはどうだって良い。お前は、聖戦の後、どうして……。
「ヒワ……!」
 言いたいことは山と有る。が、今ココーの口から出たのはたった二文字の彼の名だけであった。直ぐに優しい睡魔が彼の意識を再度拾い上げ、もがく彼の意識をなだめて深淵へと連れて行く。
「時間はない。でも、まだ早いんだ」
 悲しそうに微笑む彼女を、彼を見、ココーの脳裏に失われた筈の記憶の断片が蘇る。
 ーーああ、どうしてお前は、お前達はいつも何も言わない。俺は、そんなお前達がたまらなく嫌いだ。大嫌いだ。
 年甲斐もなく泣きわめくようにして愚痴をこぼす自分を、白髪の男と赤毛の女と黒髪の女が笑って見ているような気がした。


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