空は晴天。目の前には永遠に続くかのように思える青々しい草原。
一人草原に立つレイールはゆっくりと息を吸い、清らかな空気をたっぷりと吸い込む。
草原の中に佇む金色の髪をした中性的な顔立ちをした青年ーー。それはまるで絵画から抜け出てきたかのような幻想的な雰囲気を醸し出していた。
夕日色の目を草原の果て無き果てへと向けた青年は、ゆっくりと目を閉じて口から大きく息を吐いた。
「レイール様」
名を呼ばれ、ゆっくりと振り返った彼は相変わらず真面目腐った顔をしているかつての護衛、エウロペを見て困ったように微笑んだ。
「奴ら、何の愛想もなく行ってしまいましたね」
「仕方ありませんよ。事態が事態ですから」
城から脱出したレイール達は鷲に連れられるまま、マニャーナ国から遙か東に位置する牧草地、カラゲンにたどり着いた。
鷲はレイールを下ろし、直ぐ様西の方へ飛び去った。その数時間後、帰ってきた鷲の背には、ケミとココー、そして憔悴しきったセツの姿があった。
その姿は見ている此方が痛々しく思うほど弱っており、レイールは初めて見たとき、彼女がセツだと分からなかった程だ。
恐らく精神的な負担により高熱を発したセツが昏々と眠っている間に、レイールはダイナリの最期を聞き、涙した。
ダイナリはレイールにとって、セツと母以外に自分を叱ってくれたかけがえのない存在であった。ほんの僅かな接点しかないレイールですら、惜しすぎる存在を失ったことが寂しくて仕方がないのだ。三ヶ月間共に過ごし、彼を尊敬していたセツの喪失感は想像を絶するものだろう。
だが、一日経った今日、水場で出会った自分に、彼女は何時もと寸分変わらぬ調子で挨拶をした。まるでダイナリの死を忘れたかのような、あまりに自然な彼女の様子に、レイールは夢を見ているのではと疑ったほどだ。
「強くならねばいけませんね」
高熱にうなされている間中、うわごとでダイナリへの謝罪を口にしていたセツを思い出し、レイールは長い髪を一つに束ねた。
彼女は何一つ忘れていなかった。否、都合良く忘れられる訳がないのだ。
うなされるほど後悔しているにも関わらず、セツは自分達と別れるときまで悲しみを一切見せなかった。端から見れば、切り替えの早い。もしくは、薄情な奴だと思われることだろう。
しかし、誰よりも彼女を見ていたレイールは知っていた。彼女は、セツは強くなど無い。ただ、弱音を吐けないだけなのだ。強がっているだけなのだ。
それは恐らく元来の性格から来ているものもあるだろう。だが、レイールは彼女が何らかの理由があって弱音を吐けない立場にあると考えていた。その証拠に、彼女は最も近い存在である仲間たちに時折気を遣うような仕草をしていた。
「私は、セツさんが好きです」
「……レイール様の趣味は理解しがたいですが、存じております」
苦虫を噛み潰したかのようなエウロペの表情に、思わず苦笑が漏れた。
しかし、彼もまた彼女に大きな刺激を受けていることを、レイールは知っている。
「私は彼女のように肉体的な強さは手に入れられないでしょう。ですが、心ならば可能性はあります。守り抜く強さはいらない。ただ、傷だらけの彼女に寄り添えるような存在に、彼女が安心して弱音を吐けるような、そんな芯ある強い人に、私は成りたい。いや、成ってみせる」
一呼吸置き、レイールは手にしたナイフで、束ねていた自身の髪を切り落とす。
黄金色の、美しい髪が草原の風に吹かれてひらひらと舞う。
レイールの髪は母と同じ金色であった。彼が髪を伸ばしていたのは、少しでも父に母の記憶を思い出してほしい。という、縋るような父への思いがあったからだ。
しかし、父と袂を分かった今ではそのような思いなど、何の意味もない。むしろ、生の諦め、父への依存の象徴である長い髪は、新しい人生を歩むことを決めたレイールの足かせにしか過ぎない。最早、母を思い写す長い髪など、彼には不要なのだ。
「エウロペ、今ならば私の首を国王に差し出せば、騎士に戻れるかもしれませんよ」
「ご冗談を。今更手みやげを持って帰ったとしても、斬首にされるのが落ちでしょう。そんなこと分かっているでしょうに。レイール様も人が悪い」
「ふふ、そうですね。では、エウロペ。これからもどうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。新しく生きるとなれば、新しい名字が必要ですね。自分は良くある名字ですが、レイール様のものは王族のもの。隠れて生きるには目立ちすぎます」
「では、私はこれからアルコ・レイールと名乗ります」
「美しい名ですね。どこでそれを?」
短くなった襟足を撫で、レイールは懐かしむように微笑みながら、エウロペの方へと向き直る。
「母の名字です。アルコ・イリス。それが私の母の名です」
太陽の光に照らされ、幸せそうに微笑むその姿は、写真の中の彼女とそっくりであった。
・
一方、レイール達と別れたセツ一行は途中で馬を借り、二日間荒野を駆け抜けていた。
初めての乗馬と言うこともあり何度も振り落とされたセツだが、持ち前の運動神経でものの数十分でコツを掴み、今では他の者と見劣りしない程の乗馬の腕前となっている。
最も、彼女が馬に乗り始めて数十分もの間、馬の首筋に真珠色の石のようなものが付着していたこと、そしてその間馬が酷く怯えていたこと。そして、セツの口調がノシド語に戻り、馬の耳元で囁いている間の表情が般若のようだった事から、彼女が何かしたのは明らかであるが。
「案外大丈夫そうだな、つまらねぇ」
「うん、倒れたときはどうしようかと思ったけど、杞憂だったみたいね」
「そうかなぁ? 俺には無理しているように見えるけど。健気だよなぁ」
「はぁ? きっと忘れてんだよ。鶏と一緒だろうよ、あいつの頭なんざ」
「さすがに三歩歩いたら忘れるは無いでしょ」
「いや、言い切れねぇぜ」
荒野から砂漠に差し掛かる途中。馬を返却するココーとセツを傍目に、残りの三人はひそひそと話し合う。
セツが涙を見せたのは、地下でいた間のみだったと言う。
倒れるまでは虚ろな表情だった彼女だが、起きてからと言うもの、涙を見せることはおろか、陰った表情すら見せない。
さすがに親しいものを失って、あの通常運行は異常ではないか。そう思った三人はそれぞれの考えを持ち寄って議論するが、想像故に空想の域を越えることが出来ない。
うだうだと終わりのない論議に真っ先に痺れを切らせたのはクサカであった。
「面倒臭ぇ! だったら確かめようじゃねぇか。おい、お前さ、あのじじいが死んだこと、もう何も思わねぇの?」
「ばかー! この無神経!」
あまりにセツの気持ちを考慮しない物言いに、クロハエが悲痛な叫び声を上げる。
きゃーきゃーとクロハエが騒ぎ立てる横で、地下でのセツを知っているケミは、最悪の事態を危惧しながら恐る恐ると彼女の表情をうかがった。
ケミは人を慰めたりといった慈しみのこころがいまいち理解出来ない。彼女自体が泣かない為、どのような感情になれば泣くのか。どうすれば泣きやむのか。そのメカニズムがよく分からないのだ。
最悪子育てのプロであるクロハエに押しつけて、バックレよう。そう思う彼女であったが、
「そりゃ悲しいよ。でも、今は優先すべき事あるから」
あっさりと言ってのけたセツの表情は、多少の苛立ちは感じられるものの真剣なものであった。そこに嘘や強がりといった感情は見受けられない。
それもその筈、セツはダイナリに「砂漠の施設に連行されたであろうドーヨーを救ってほしい」と、重大な役割を任されていたからだ。
事態は一刻を争う。めそめそといつまでも悲しみに暮れる、悠長な時間はない。
「あと、親方はまだ死んだ訳じゃない。私は親方が生きているって信じている。あの親方がただで死ぬわけ無いからさ!」
拍子抜けするクサカへ親指を立て、セツは笑顔で告げた。
確かに、ダイナリの死体は上がっていない。
けれど、密閉された空間に、迫る水位。おまけにセツナの存在。それら全てが揃った中での生存は極めて低い。
「お前なぁ……」
「うん、そうだねぇ。あの人なら生き延びてそう」
「へへっ、だって私の師匠だもん! あっと、ココー呼んでるから行くね」
足取り軽くココーの元へ駆け寄るセツを見送り、クロハエは抱え込んでいたクサカの頭を離す。
「アフロてめぇ……!」
「残念、俺もうアフロはぎ取られて坊主でーす。坊、主です……」
「言っておいて泣くんじゃねぇよ!」
「うるさいばーか。それより、クサカ。セツのダイナリさん生存説をあまり否定するなよ」
「は? 否定も何も、明らかじゃねぇか」
「ははは、クサカ君はまだまだ子どもだなぁ。そんなこと、セツも分かっているよ。でも、誰だってあるじゃない。分かっていても、そうじゃないって信じたいことが、さ。クサカ、思い当たるだろ?」
白い室内。血に染まった床に横たわる、変わり果てたツミナの姿。
どれだけ嘘だと叫んだだろう。どれだけ夢であれと願っただろう。
分かっていたそれが紛れもない事実だと。変えようのない、残酷な現実なのだと。だが、否定せずにはいられなかったのだ。世界がツミナの死を認める中で、自分まで認めてしまったら、彼が本当にこの世から消え去ってしまいそうで……。
「っ……! 馬鹿らしい」
足下の樽を蹴り飛ばし、クサカは怒りを露わにその場から去っていく。
粗暴な行動だが、今までの彼ならば物ではなく、セツに直接当たっていただろう。どうやら。クサカも少しは成長しているようだ。
「は、どっちが馬鹿らしいんだか」
「そう言うなって、ケミ。世の中にはケミみたく何でも割り切れる奴ばかりじゃないの」
「別に私も何でもかんでも割り切っている訳じゃないし。ま、あいつよりはマシだけどね」
そう言いながら酒を口にするケミの胸元で、水晶のチョーカーが揺れる。
それは、戦闘の邪魔になるからといってアクセサリーを一切身につけない彼女が唯一身につける贈り物であった。
「過去に縋り、いない人に思いを馳せて自分に嘘を吐く。残っている人の部分がそうさせるんだろうな。俺たちもいい加減、成長しなきゃいけないのかもしれないな」
ペンダントを開き、珍しく物憂げな様子で呟くクロハエの目には、まだ彼が人であった時の家族の絵が映っていた。
・
マニャーナ国、謁見広間。
玉座では痛々しいほどに包帯を巻いたコルムナが、苛立ちを隠さずに腰掛けている。
不機嫌に顰められた眉の下にある夕日色の目は、怒りの色にありありと染まっている。今まで生きていた中で、彼は今、一番腹を立てていた。
これまで彼が望めば手には入らぬ物、思い通りに行かぬ物は無かった。それは彼の大きすぎる権力が可能にしていた、奇跡に近い当たり前なのだが、生まれもって莫大な権力が約束されている彼は、そんなことを知る由もなかった。
しかし、生まれて48年にして、彼は初めて自分の思い通りに行かない事柄に遭遇する。息子の逃亡、儀式の失敗、だ。
初めての挫折は、国家の信用に関わるほど大きいものであった。あまりに大きい挫折は悔しさを越え、深い深い憎悪へと姿を変えていた。
「陛下、ボルヴィン殿、フラウデが参りました」
「通せ。お前たちは下がっておれ」
コルムナの怒りの矛先に向けられることを危惧する兵士にそう命じると、兵士は密かに安堵した様子を見せた。
忌まわしいあの日から、コルムナは何かと付けて城の者達を牢へと送った。送られた者は服のほつれがあったり、コルムナの前で物を落としたりと言った些細な失敗から、髪の色が黒だから。という理不尽極まりないものまで様々であった。
「失礼します」
「しつれいしまーす。うわ、陛下大げさすぎっしょ。大丈夫?」
ボルヴィンに続いて入ってきたミズシが愉快そうに声をかけるが、コルムナはあえてそれを無視した。
無礼だと切り捨てたい気持ちは山々だが、この男はいつもこうして悪たれ口を利く。この程度で切り捨ててしまえばキリがない上に、悔しいことにこの男は有能だ。
ーー化け物の分際で。
「久しいな、ボルヴィン。今までどこに行っていた? そちが居ぬ間、そちの飼い犬どもは私を満足に守ることも出来なかったのだぞ? 躾が出来ていないようだな」
「犬に護衛期待する方がどうかと思うんだけど。なー、ハクマ」
「ミズシ、少し黙っていなさい」
ボルヴィンにたしなめられたミズシは舌を短く出してハクマへ視線を向ける。が、ハクマは相変わらず彼の問いかけ、フリを無視し続けている。
こう見ていれば、ミズシはただの鬱陶しい男である。だが、コルムナは知っている。この男がかつて一人で一国を落とした事を。そして今でもその国は彼の強すぎる異能の力により、草木一つ生えない荒廃した地になり果てていることを。
「この者達の無礼は謝罪致します。まことに、申し訳ありません。何せ、この者達は人とは違う。閣下を初めとした人類とは根本的に考え方が違うのです」
「……そちに免じて今回は許そう。私も失念していたからな、こやつらが人の皮を被った獣に過ぎぬということを」
「陛下の厚いご厚意に心より感謝いたします」
「ふん、構わぬ。それより、そやつらは逃げた賊を取り逃がしたそうだな?」
コルムナの指摘に、それまで微動だにしなかったハクマの肩が僅かに揺れる。
「ええ。地下は思ったよりも入り組んでおりまして……。この者達の力を持ってしても、一人を片づけるのが精一杯でした。……コンク」
名を呼ばれ、それまで一同の後ろでぶつぶつと独り言を口にしていたコンクが前に出る。
その腕には一抱えほどの箱が抱えられており、その中身を見た途端、コルムナは不快そうに眉を顰めて「もういい」と、コンクを追い払う。
「恐らく、賊達は荒野の研究所へ向かったのでしょう。これの部下があそこへ送られておりますので」
「わざと泳がせたのか。経過はどうであれ、あれを討つのなら構わん。しかし、なるべく早く片づけるのだぞ」
「お言葉ですが、あれは非常に良い素材。教祖の遺した有能なものです。片づけるのは少し……」
「聞こえなかったのか? 私はあれを片づけろと言ったのだ。もう二度は言わぬ」
「……承知致しました」
胸の前で両手を組んだボルヴィンは深々と頭を下げると、言葉短く別れの挨拶をしてフラウデ達を部屋から出した。
「ボルヴィン」
名を呼ばれて振り返ると、そこには朝日を背にして玉座に座るコルムナの姿がある。
神々しい姿をした、白銀の髪に夕日色の目をした男はその整った顔に歪んだ笑みを浮かべ、ボルヴィンに一つの命を下す。
「あれの躯は必ず持ち帰れ。王家に、私に刃向かった愚か者だ。刻み、晒し、引き裂いて家畜の餌にでもしなければあの愚行には釣り合わぬ。出来れば生きている内に引き裂いてやりたいが、この際躯でも構わぬ」
「は。王子はどうしましょう?」
「あれはもう要らぬ。その辺りに打ち捨てておけ」
挫折を知らない故に、コルムナの根は深く、広い。
彼の憎悪の矛先は全てセツ一人に向けられていた。いかにして陵辱の限りを尽くし、痛めつけるか。それが今彼の頭の八割を占めている事柄である。
息子よりも、憎き敵をいたぶることに重きを置く王は、足下に転がる黒髪の女の遺体を蹴りつけ、そう遠くない未来に提供される復讐劇を想像し、声高らかに笑った。
・
馬を降り、三日三晩進んだセツ一行は、岩と砂地が大半を占める荒野にたどり着いていた。
ダイナリの遺した言葉、そしてセツに預けた荷物の中に入っている書記には研究施設の場所は此処で間違いないのだが、どこをどう見ても岩と砂ばかりで人工的な建物は見あたらない。
方角を間違えたかと書記を開いて確認するが、残念なことにセツはノシドの外の文字が読めない。レイールと別れる前に基本文字の読み方、書き方は教わったのだが、何分急いでいたためうろ覚えでしかない。
読み方が分からず、書記を手にしながら四苦八苦するセツを見かねたクサカは、貸せと書記に手を伸ばす。それに対し、セツはダイナリに託された物を手渡す事に僅かに抵抗を見せたが、このままではラチがあかないよと諭され、渋々と言った調子で書記を渡した。
「えー、何々……。荒野は岩ばかりで人工物は見あたらない。……知ってるってぇの。しかし、ある行商人が面白いことを言っていた。大勢の奴隷を引き連れた団体が巨大な岩に手を触れた所、地響きと共に岩に大きな穴があいた、と……。これだな。岩探せ」
「探せっていわれても、この辺岩だらけ。あんた阿呆?」
にらみ合うクサカとケミを余所に、残りの三名はそれぞれ周囲を見渡す。
が、見えるのはそこら彼処に散らばる巨大な岩に、岩を避けるようにして広がる荒野のみ。この広大な荒野にある岩を一つ一つ探るなど、気が遠くなるような作業だ。
「無理だな」
一番に降参の音を上げたのはココーであった。
さすがに反論できず、苦虫を噛み潰したような表情で頷く。が、ここで諦めるわけにはいかないセツは、焦燥していた。
彼女には一刻も早く施設を見つけださなければならない理由がある。施設に連行されたであろう兄弟子、ドーヨーを救ってくれという、師であるダイナリの願いを託されているのだ。
もっとも、ドーヨーがこの地の施設にいるという確固たる根拠はない。別の地にいるかもしれない。だが、それでも少しの可能性があるのならば急がねばならない。時間はないのだ。
「仕方ないか。私がやる」
ケミが名乗りを上げる後方で、セツは頭に刺すような痛みを感じて目を瞑る。
ーーまただ。
この頭痛はマニャーナ国に入ってから続いていた。マニャーナ国を離れてからは収まっていたため、もう治ったかと思っていたが、どうやらそう甘くはないらしい。
突如現れる脳を突き刺すような鋭い痛み。すでに幾度と無く経験しているため、最初のように慌てたりはしないが、それでも不快であることに代わりはない。
しかもこの頭痛は不定期な上に、膨大な記憶の波を連れてくる。
一つ一つ流れてくるならまだしも、それはまるで雪崩のように大量に流れ、整理も、理解も出来ない内に去っていく。膨大な記憶を前にしながらも、それらを把握できない現状が、痛みに加えてセツの心を落ち込ませる。
更に最近は記憶の波の中に自分が立っているのが見えるのだ。
恐らく、格好と表情から見るに昔の、聖戦時代の自分だろう。それは死に装束になっている事を除けば、生真面目に服を着ているところ、そして感情が一切伝わってこない無表情から理解できる。
彼女はセツに何をするでもなく、ただ無表情で傍観している。ただ傍観しているだけなのだが、セツにはたまらなく不気味に思えてならなかった。
「……い。おい、行くぞ!」
頭部に鈍痛を感じ、セツの意識はようやく現実へと戻ってきた。
いくらぼんやりしていたとは言え、平手ではなく拳で頭を叩かれたとなれば頭に来る物がある。が、それをなんとかこらえ、皆が向かっている方へと走る。
その時にはもう、セツの頭に先ほどまでの強い不安は消え失せていた。
行き着いた先は他と全く変わらぬ巨大な岩の前であった。
長考に入っていたセツは、一同がここが目指していた場所だと把握した経緯を知らない。
「ここが目的地?」
「そう」
半信半疑で尋ねてみれば、至極当然と言った様子で即答される。
しかし、やはりどう見ても他の岩との区別が付かない。入り口が付いているわけでもないし、ましてや誰かがいる気配すらない。なのにどうしてケミははっきりと言いきれるのだろうか?
腑に落ちない表情で岩を眺めていると、セツの心情を察したであろうクロハエが声を掛けた。
「ケミの能力はねー、っていうかケミに組み込まれた遺伝子は探査機能に長けているんだよ。だから、俺たちの目に見えないものでも察知できるんだ。どうやらこの岩の中に何かがいるみたいだよ」
「へぇ、そうなんだ。便利だね」
「うん、でも使うと疲れるらしいから、ケミはあまり使いたがらないねぇ。相性が悪いんだってさ。ケミはもっと殺傷力ある力が良かったみたい」
俺はそうじゃなくて良かったと心底思っているけどね。こっそり耳打ちしてきたクロハエに、思わず心からの同意を送ってしまう。
ただでさえ戦闘能力があるケミが、殺傷力のある能力を得ていたら……想像するだけで血の気が引く。
「ああもう、着いたは良いけど開け方が分からない。……壊すか」
「あくまで潜入だということを忘れるなよ」
「でも、だからってここでうだうだしてても変わりませんよ。むしろ派手に突破して、中の敵をおびき寄せた方が……」
「クサカ、ケミが暴れないよう押さえておけ」
「……はい。おい、元アフロの現ハゲ。お前もこっちに来て手伝え!」
「元ってなんだよ。今も心はアフロだよ! ハートフルアフロ!」
賑やかな面々を後目に、岩の前まで来たココーはそっと岩肌に手を添える。
後ろの騒ぎも気になるが。それ以上に施設らしい岩が気になったセツはココーを真似して岩肌に触れてみる。感触は当然岩である。指の背で叩いてみる。痛いだけで、反響音などは一切しない。匂いも特に変わった所は無く、舐めてみようとしたらココーに止められたが、おそらく味はしないだろう。
となると、やはり本当に此処が目的地なのかと疑惑が浮上する。別にケミの事を信じていない訳ではないが、こうも怪しい点が無いと信頼性に欠けてしまう。
「神話だったら、扉の前で宴会したら開くけど……駄目そうだね」
閉じこもった神を引きずり出した神話を思い出しつつ、背後のどんちゃん騒ぎに目をやるが、岩は頑として動かない。
さて、どうしたものか。再び視線を岩に戻し、ざらついた岩肌に触れる。
「ああ、そういえばもう一個あったな。山賊が岩の裏に隠した宝を取る話。確か呪文は……」
「開け」
「開けごま!」
同時にココーが同じ言葉を口にしたことに驚くセツの前で、それまで沈黙を保っていた岩が大きく震えた。
そして唖然とする彼女の目の前で、二メートル四方の穴が、施設に通じる入り口がぽっかりと口を開けたのであった。