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「……」
 土煙が去った頃、氷柱を生み出す能力を持ったフラウデは、投げ返された氷柱から身を守るために作り出した氷のドームを解除した。
 先程まで騒がしくしていた標的達は、今や忽然と姿を消している。土煙の混乱に乗じて逃げたのだろう。
「よー、大分派手にやられたな。大丈夫?」
 一体今までどこにいたのか。同じくフラウデの一員である男は、聖殿内の惨状を歯牙にもかけぬ物言いで近づいて来た。
 男は一切合切無視を貫き通すこの態度には慣れているようで、その後も飄々と一言二言交わすと、瓦礫の下に挟まれているコルムナを引き起こした。
 つい先程までは白地に金の刺繍が施された高級な法衣を身に纏っていた国王は、今や地と埃にまみれて見るに耐えない姿となっている。変わり果てた姿のコルムナは、大丈夫? と顔にかかった髪をかき上げようとする男の手を払い、
「貴様等、一体何をしている!? 貴様等は私の下僕なのだぞ! 身を呈して主人を守ることぐらい、その辺の犬でも出来るというのに、何なのだ!」
「あーあ、国王陛下ご立腹だよ。おい、ハクマ。お前なんでちゃんと陛下守らなかったんだよ。お前無傷で陛下ボロボロってどうな訳?」
 ハクマと呼ばれた人物はその問いかけには答えず、そしてコルムナを見ることもなくその場を離れる。
「おい、どこ行くんだよ? 陛下どうすんの?」
「……セツナを出す」
「マジで? まあ良いけど。じゃ、楽しそうだから俺も行こうっと。ああ、でも陛下ほっとく訳にはいかないよなぁ……どうしよう」
「貴様等……! 私を愚弄するのもいい加減にしろ! 私は貴様等のような化け物を飼ってやっているのだぞ!」
「はいはい、すんません。あ、いたいた、コンク!」
 激高するコルムナを軽く受け流し、男が手を振った先には同じくローブを見に纏った細身の人物がいた。
 コンクと呼ばれたその人物はふらふらと覚束ない足取りで彼らの元までやって来る。これで、ボルヴィンを除く全てのフラウデが集まった。
「コンク、俺らシキの生き残り追っかけに行くから、陛下のこと頼むわ。瓦礫から出す位で兵が来ると思うからさ」
 ゆっくりとコンクが頷いたことを確認した男は片手を軽く上げてハクマの後を追う。
「貴っ……様!」
「陛下、俺馬鹿な家畜だからあんたを守ることは出来ねーの。そもそも、俺らの主人はあんたじゃないしね。お守りできない代わりに侵入者に噛みついてくるわ。わんわん」
 両手を胸の前で曲げ、犬の真似をした男は、怒りのあまり言葉を失ったコルムナを見もせずに聖殿から出る。
「あんな状態で偉そうに出来んのって、すげーよな。ったく、何勘違いしてんだか。瓦礫に挟まれて無くったって、俺らに適うわけねーのに。はー、やだねぇ。身の程知らずはさ。なあ、そう思わね?」
 一人喋り続けるミズシを一切無視し、ハクマはただ淡々と地下通路を降りていく。
 この通路はかつてマニャーナ国の国王が緊急避難用に作った、地図には載っていない通路である。知っているものは殆どいないこの通路は、今では罪人を運搬する貨物路、そして、強固に作られたその性質から、決して表に出せないような代物が閉じこめられている場所でもある。
 やがて地下通路は完全に光を失い、かび臭い匂いが漂ってくるようになった。だが、ハクマ達は歩みを止めない。その内、通路には光り苔により仄かな明るさに包まれ、そして物が腐ったような異臭に包まれる。
「おー……相変わらず。大丈夫?」
 一つの檻の前で立ち止まったミズシは、中を覗きながら気遣いの声をかける。直後、前の檻から鋭い爪が伸びて来、危うく彼は鼻を失いそうになった。
「セツナ、おいで」
 騒ぐミズシをただひたすら無視し、ハクマは檻の戸を開けて中のモノを誘う。初めて声を出したハクマのそれは、低くかすれてはいるものの、まだ年若い少女のそれであった。
 ハクマの声に導かれ、檻の中から巨大な影が姿を現す。やがて全貌が明らかになったそれは、白銀の甲冑で全身を覆った四本足の獣であった。セツナという名のそれが呼吸をする度、強い腐臭が周囲に充満する。
 ハクマとフラウデの長のみが手懐けられるセツナは、シキやサイになり損ねた存在である。通常ならば、ただの魔物になるところだが、セツナの素材は希少種で、強靱な遺伝子を持っているものが多い。その為、思考回路は他の魔物とさして変わりないものの、戦闘力は比にならぬ程高い。
 かつてのシキとサイの戦争の際にも、セツナはサイ側に数体おり、シキの軍勢を何隊か殲滅させていた。
「さあ、壊しに行こう」
 ハクマが小さく囁きかけると、セツナは狼のように力強く、雄叫びを上げた。それを見たミズシはどこか呆れたように笑う。彼は知っていた。ハクマが、そしてセツナが、珍しく感情を高ぶらせているということを。その感情が向かっている先は、同じだということを。

 ・

「何よそ見してんの?」
「いや、誰かに呼ばれたような気がして」
「こんな所に誰もいないわよ。それより、ちゃんと前見て走らないと転ぶよ。ここ、永らく誰も立ち入ってないから荒れ放題なんだから」
「確かに……と言うか、良くこんな場所知っていたね」
「宝物庫に忍び込んで地図取っといたもの。城を建築した当時の物だから、抜け道隠し通路も丸裸、ってね」
「それ犯罪じゃない?」
「はん、私から言わせりゃ錠前一つで宝を守ろうって魂胆がおこがましいわ。本当に大事ならもっと警備を厳重にしろってもんよ」
 得意げに言うケミを前に、これはもう何をいっても無駄だと感じたセツは、ははと空笑いをして話を終える。
 聖堂から逃げ出してから、セツはココーの先導に従い、城内の隠し扉から繋がる隠し通路に出ていた。
 先のケミの言葉通り、この通路は誰も使っていないようで、そこら彼処に苔や、風化で崩れた壁等が散乱している。また、人はこの道を知らないようだが、古くから住む先住民は此処を活用しているようで、所々に糞や、彼らーーネズミや虫の死骸が転がっている。
「にしても、気に入らないわ」
 顔にかかった蜘蛛の巣と格闘していると、ケミがうんざりした調子で呟いた。
「フラウデとか言う奴ら、何なの? 奴ら、私達と同じ、シキと同じ力を持っている。ありえない、シキを作る方法はあいつと同時に消えたはずなのに……!」
「恐らくだが、奴らの立場は俺たちシキではなく、サイだ」
「馬鹿言わないでくださいよ! サイだって私達シキの製造法をベースに作られた存在でしょう。シキの製造法はアルティフと共に消えた。なら、サイは……」
「お前だって理解しているだろう。俺たちと同じ異能の力。そして能力を発動する際に、奴は俺たちと違って光りを纏わなかった。それが、奴らがサイである何よりの証拠だ」
 シキとサイ。
 二つは人と他の生物が交わった、人知を越えた人工生物である。それは同じなのだが、シキより後に作られたサイは、遺伝子的にシキより優れている。否、シキのデータをベースとして作られたため、シキより欠陥が少ないと言った方が正しい。
 例を挙げるならば、彼らはシキと違い、能力を発動する際に、独特の光りを発さない。その為、彼らは戦場においても悟られることなく能力による攻撃が出来、また人間社会に溶け込むことも容易であった。
 闇夜の中での奇襲、そして化け物ではなく、選ばれし者として多くの人の賛同を得たサイとの全面戦争であるコメンサール聖戦での辛勝は、数千年経った今でもケミに苦々しい思いを抱かせる。
「でも、例えサイだとしても、どうして今頃になって現れたのです? 先の戦争から余りに時間が経ちすぎています」
「それは知らん。だが、今、この時代に何かが大きく動いているのは確かだ。セツの目覚めも、それに関係しているのだろう」
 突然自分の名前が話題に上がり、それまでシキやサイの情報収集に必死になっていたセツはぎくりと顔を上げる。
 恐る恐るケミの方を見れば、やはり彼女は「そう言えば」という顔で此方を凝視している。が、セツとてまだ全てを思い出せた訳ではないのだ。そのような期待に満ちた顔をされても困る。
「ごめん、わた……」
「セツ、早くこっちへ!」
 答えられない期待は前もって摘んでおこうとした矢先、突然ケミが警告してきた。
 当然、セツはすぐに反応する事が出来ず、状況を把握したココーが彼女の手を強く引いて自分の方へと抱き留める。直後、セツがいた場所の壁が轟音を放ちながら破壊された。
 意外にも鍛え上げられたココーの大胸筋に額を強く打ったセツは、抱き留められている状況に動揺しながらもすぐさまココーから身を離し、背後を確認する。
 もうもうと立ち上がる砂煙、そしてここ数日嗅ぎ慣れた肉が腐ったような悪臭。その中央に何かがいた。四つ足の、大きなーー、
『……ッーー』
「走れ」
 何か懐かしい思いが脳裏を過ぎる。それは、古い古い記憶の狭間に埋もれていた、暖かくて、それでいて寂しい記憶。
 だがそれが何か思い出すよりも早く、セツは再びココーに手を取られ、その場から強制的に移動させられる。
「ちょ、離して! 走る、走るから! 何なの一体」
「出て来て分が悪くなった。まさかあれがまだ残っていたとは」
「主語! それじゃ全く意味が分からん」
「セツナだ。俺たち上級の魔物、シキに成れなかった者のなれの果て。頭がイカれて、ただ破壊衝動に身を委ねる悪魔、それがセツナだ」
「聖戦の時も何体かいたの。そもそも、セツナになるのは希少な生物がベースだし、生まれる確率もシキのソレよりもずっと少ない。限りなくゼロに近い存在。そして会った瞬間に全てが終わる。それがセツナの名の由縁よ」
 直後、ガチャガチャと金属音を立て、背後から巨大な生物が駆け寄ってくる気配がした。
 途端、首筋の産毛が逆立ち、鼓動が乱れる。同時に蘇る古い記憶、そこでは夕日で赤く染まった荒野で、仲間たちの遺骸をゴミくずのように引き裂く、巨大なトカゲのような生物、当時のセツナがいた。
「セツ!」
 名を叫ばれ、我に返る。気が付けばセツナはセツの目と鼻の先にいた。
 背後のケミの声が遠くで聞こえるような気がした。セツの意識はただ、目の前の終わりの使者、セツナに注がれている。
 ゆっくりと、体高三メートルはあるセツナが身を屈め、顔をのぞき込んでくる。
 鋼鉄の甲冑に覆われたセツナの顔は伺えない。唯一覆われていない口には剣のように鋭い牙が行儀良く並び、セツの肉を噛むことを心待ちにしているように思えた。
 ーー駄目だ、勝てない。
 セツナの体格が、気迫が、殺気がセツの第六感に絶望を感じさせる。セツナがツウと爪で一撫ですれば、セツの体は豆腐を裂くように崩れ落ちるだろう。もはや努力では到底埋めきれぬ実力の差に、本能が死を受け入れようとしていた。
「口ふさげ!」
 セツナがセツの顔に口を近づけた瞬間、突然どこからともなく低い男の声が響き、声と同時に真っ赤な煙が通路内を満たした。
 最近セツの生活を支配していたその声は、硬直していた筋肉をほぼ反射的に動かし、口を覆わせる。煙の正体が癇癪茄子という劇薬に近い辛みを持った茄子の粉末だと気付いたセツは、思わぬ助け船にただただ驚いた。
「何突っ立ってんだ、早くこっちに来い!」
 久しぶりに見る師匠、ダイナリは別れた時と寸部変わらぬ厳格な表情でセツを叱りつける。聞きたいことは山とあるが、状況が状況なだけにここで根ほり葉ほり聞くことは出来ない。
 更に驚くことに、ココーは癇癪茄子の粉塵により涙目になるセツを連れ、ダイナリの指示に従って大人しく通路から出た。ココーはともかく、人間嫌いのケミでさえも彼の指示に文句を言わず従う。
 それはあまりに常軌を逸した事柄であるが、うっかり粉塵を吸ってしまったセツはそのことに気付くのに数分を要したのであった。

 セツが気になっていた事を聞けたのは、癇癪茄子の効果が薄まり、彼らが地図にさえ載っていない隠し通路を十数個跨いでからであった。
「親方、どうしてあの場所に?」
「ああ? おめーは散歩するのに理由がいるって言いたいのか? ……ったく、そんな顔するんじゃねぇ。お前には冗談が通じねぇのか。俺は頼まれたんだよ、その男にな」
「ああ、俺がもしもの時に脱出路へ誘導するよう頼んだ」
 恐らく、とても頼むような態度では無かったのだろう。ダイナリの苦虫を噛み潰したかのような渋い表情がそれを物語っている。
「まあ、俺も暇になったから別に良いけどよ。反逆者が一名、謀反者が一名……それも伝説の魔物が所属していた宮廷庭師は消滅。無職になっていた訳だからな。一応言っておくが、お前のせいじゃねぇ。遅かれ早かれ、庭師はそうなっていた。落ち込むなよ、面倒臭ぇからな」
 不器用なダイナリの心遣いが、ほんの少しだけ罪悪感を緩和する。勿論、はい分かりましたと割り切れるものではないが、悔やんだところで現状は変わらない。ならば、前を向くしかあるまい。
 やがて一行は、やがて地下水路へと出た。王城内の排水は一旦全て此処へ集められ、そして浄化槽を通じて外へと排出される。
 腐った水の匂いに顔をしかめながらも、一行は歩を緩めずに歩き続ける。誰もが癇癪茄子ごときでセツナを撒ききれたとは思っていないからだ。
「おい、お前人じゃなねぇんだってな」
 地図を手渡されたケミが先導する中で、ダイナリは宮廷庭師消滅を割り切れず、黙りこくったままのセツに声を掛ける。
 先の騒動で魔物で良いと言い切ったものの、面と向かって人であることを否定されたセツは少々複雑な心境になる。
 さりげなくココーとケミに助けを求めようとしたが、二人は地図を片手に何やら話し込んでいる。とても無言のSOSに気付いてくれるようには思えない。
「まあ、はい。そうですね……」
「何だその煮えきらねぇ返事は。俺は別にお前が人だろうがシキだろうが構わねえ。大体何を根拠に人と違うって思ってんだ? ちと人より丈夫だからか? 変わった力を持っているからか?」
「言われてみれば何でしょう。体の構造、ですかね」
「だったらおめぇは足が片方無い奴を人じゃねぇって思うのかよ? ちげぇだろ。少なくとも俺はお前を異質とは思わん。変な奴だとは思うが。この国の貴族の奴らの方がよっぽど化けもんだ。腐ってやがる。……何だ嬉しそうな顔してからに」
「思ってみれば、親方に励ましてもらうの初めてだなあと思って。いっつもボコボコにされてましたから」
「……本当おめぇは、馬鹿と言うか、単純と言うか……どうしようもねぇ野郎だな。はぁ、何か毒気抜かれちまったな。おい、責任持って昔話につき合え」
 呆れたようにため息を一つ吐き、ダイナリは軽くセツの頭を小突く。
 遠くで壁が崩れるような轟音と獣の声がした。恐らく、セツナが壁を壊して水路に入ってきたのだろう。皆が言葉に出さずとも小走りになった。
「俺はマニャーナ国に滅ぼされた国の出身だ。ドーヨーも国は違えど、同じくマニャーナ国に祖国を滅ぼされている。それ以来、俺とドーヨーはこの国の憎しみを糧に生きてきた。いつか、この国を滅茶苦茶にしてやろうと考えてな」
 驚くセツの耳に、先程より近い場所からの轟音が届く。
 どうやら、セツナは彼らが思うよりも早い速度で迫ってきているようだ。一同の歩みは、既に駆け足になっている。
「だが、結果はこの様だ。忍び込めたものの、扱いはぞんざい。その上、ドーヨーは捕まって、庭師自体も解散。俺が指名手配されるのも、間近だろう」
 口ではそう言ったものの、ダイナリは知っていた。既に自分の手配書が配られていることを。自宅に捜査の手が入っていることも。そしてもう、マニャーナ国では生きていけないと言うことを。
 だが、彼はそんな事はどうだって良かった。
 元来この国には思い入れもない。自宅も必要最低限の物しか置いていない為、荒らされようが燃やされようが構わない。むしろ余計な手間をかけずに処分できたことを有り難いとすら思う。
 そんな世捨て人にも近い彼にも、ただ一つ心残りなことがあった。それは彼が唯一信頼を置いていた、息子に近い存在である部下、ドーヨーのことである。
「分かっていたさ。この国を滅ぼしたところで俺たちの国は、家族は、アルコは帰ってこない。知っているさ、そんなことぐれぇ。むしろ誰もそんな事を望んでなんざいねぇ。皮肉だな、大事な仲間を一人失って初めてそんな簡単な事に気付く。馬鹿だな、俺はもう独りじゃなかったのに」
 雨の中、無惨な屍と化した両親を、虚ろな目で見ていた少年。ほんの小さな同情心で拾った少年は、自分を師と父と慕い、転々と各地を移動する自分に文句一つ言わず、あろう事か、馬鹿げた復讐にまで付き合ってくれた。
 へらへらとした態度は癪に触ることもあったが、一方でダイナリのささくれ立った心を穏やかにしてくれた。それがどんなにダイナリの心の支えになっていたか。しかし、そのドーヨーはもういない。もう、会えないのだ。
 やがて一同は巨大な扉が半開きとなっている広間へとたどり着いた。どうやら此処は緊急時に扉を閉めて水路を塞ぎ、水を貯める施設のようだ。
 ケミとココーが扉を隔てて向かい合っているバルブを確認している間に、ダイナリはセツの頭に手を伸ばす。
 てっきり殴られると思ったセツは即座に身を縮こませる。その姿にダイナリは苦笑を漏らし、なんと、彼女の頭を優しく撫でた。
「お前も、悪かったな。色々辛く当たって。お前は純粋で、真っ直ぐで、気高い。俺が忘れた心を全て持っているお前に、密かに憧れた。お前は、そのままでいろ。何か重い物を抱えているようだが、お前はお前だ。他の何者でもない。忘れるなよ」
 手を離した後、セツの髪には白い小さな花が挿されていた。
 もう一度セツの頭を撫でたダイナリはなにやらバルブに問題があったらしく話し込むココー達の元へ歩み寄る。
 残されたセツは初めて掛けられたダイナリの優しい言葉、態度に涙腺が緩みそうになっていた。が、それと同時に胸騒ぎがした。
 ーーこれじゃまるでお別れみたいじゃないか……!
「ちっ、やっぱり片方イカれちまってんな」
「本当に良いのか?」
「何を今更。俺は約束は必ず守るんだよ。それより何だ。おめぇ、怖じ気付いたんじゃねぇだろうな? ちげぇなら黙って従え。おい、お前何突っ立ってんだ。こっち来てバルブ回せ!」
 妙な胸騒ぎは秒を刻むごとに大きくなる。けれど、いつものダイナリの怒声にセツの体は無意識に動いた。
 半開きの巨大な扉を越えたセツは錆びきった鋼鉄のバルブに触れる。途端、金属特有の冷え切った感触が手を伝い、神経を伝い、脳にまで響く。
 慣れない感覚にため息を吐きながらも、セツは指示通りバルブを回した。
 思ったよりも錆び付きは酷く、セツが渾身の力で回してもバルブはびくともしない。そうこうする内にもセツナの気配はどんどん近づいて来、腐臭が鼻を突く。
「ったく、最後まで見てらんねぇな。おら、この中に油入っているから、それ挿しな」
 扉の手前のバルブ前に立っているダイナリは美しいフォームでセツへと工具袋を投げ渡した。
 それを額で受け止めたセツは涙目になりながら工具袋を漁る。使い古された工具袋の中には剪定バサミや鎌など庭師ご用達しのものから、本や手紙などダイナリの秘密に触れるであろうものまで様々な物が入っていた。
 まるで思い出が詰まっているみたいだ。と心の中で呟いて、お目当ての油を見つけたセツは慣れた調子でバルブの根本に油を差し、思い切り回す。
 ギギギと耳障りな音を立て、バルブは回り始めた。このバルブは一度回すと後は自動で動くタイプのようで、額に汗を浮かべるセツの眼前でバルブと連動している巨大な扉はゆっくりと閉まり始めた。
 これで一安心だと安堵したセツであったが、扉の向こうを見て驚愕する。閉まりゆく扉の向こうには、もう一つのバルブを操作するダイナリの姿があったからだ。
 このままではダイナリは扉の手前に取り残されてしまう。扉が閉まりきってしまえば、迫り来るセツナと積止められた水で無事では済まないだろう。
 つまり、このままではダイナリは死ぬ。
「親方! 早くこっちへ!」
「あ? 馬鹿言うなよ。生憎そのバルブは壊れちまっているようでな。こっちで細かな水路の閉鎖しねぇと完全な働きにならねぇんだ」
「何言ってんですか! このままじゃ親方……」
「ああ、死ぬな」
 あっさりと告げられ、セツは言葉を失った。
 そして全てが繋がる。
 助けに来てくれたのも、あの優しい言葉も、手荷物をセツに寄越したのも、こうなると分かっていたからだと。ダイナリは最初から自分を犠牲にしてセツ達を逃がすつもりだったのだ。
「どうして! 親方の心の内が少し分かったのに、分かってもらえたのに!」
「来るんじゃねぇ! おい、お前ら! 突っ立ってねぇでその馬鹿を止めろ!」
 咄嗟に近寄ろうとするセツを怒鳴りつけ、ダイナリはココーとケミにセツの拘束を命じる。
 間髪入れず取り押さえられたセツは、身動き一つ出来ず、ただ閉まりゆく扉を見つめることしか出来なかった。
「今のご時世、生きててもろくな事がねぇ。俺はもう十分苦労した。次はお前等みたいな若いもんが散々苦労すべきだ。苦労して、失敗して、俺が出来なかった幸せになるんだ。最近は年のせいかすぐ疲れてな、俺はこれ位で許してやってくれや」
 直ぐ近くで羅刹の声がした。もうこの水路へとやってきたのだろう。
 ダイナリは短く舌打ちすると、手元の基盤を操作する。直後、殆ど閉まりかけている扉の間から、天井から勢い良く水が噴射されるのが見えた。
「なあ、一つ頼んでも良いか?」
 天井を見上げたままのダイナリの依頼に、セツは涙でつぶれた声ではいと返事する。
「ドーヨーは恐らく、フラウデの拠点である砂漠の施設に連れて行かれている。あいつを、助けてやってくれねぇかな?」
「約束、します……!」
「ありがとうな。……ひでぇ顔してやがんな」
 ほんの僅かな隙間から、ダイナリは涙でグシャグシャのセツの顔を見て困ったように微笑む。それは、彼が初めて見せた笑みであった。
「お前は生きろよ。短い間だったが、お前と仕事が出来て楽しかった。ありがとうな、セツ」
 初めて呼ばれた自分の名。驚く間もなく、巨大な鋼鉄の扉は轟音を立てて、巨大な水路に、セツとダイナリの間に蓋をする。
「親方……! うあああああーーー!」
 轟音と共に閉まりきった扉を前に、セツはへなへなと膝から水路へ崩れ落ちた。

 最早立つ気力も無いセツを抱え、ココーとケミはダイナリが残してくれた地図を頼りに出口へと向かう。
 意外にもダイナリは筆まめなようで、どこにどういう装置があるか。装置の操作方法まで絵入りで細かに記してくれていた。
 地上に向かう滑車に乗った時、ケミはセツの髪に小さな花が付いていることに気付く。
「この花……」
「知っているのか?」
「確か小雪花という野草です。確か、花言葉が『純粋な君に幸福を』だった筈」
 その言葉を聞いた途端、セツの目から大粒の涙が一つ、音もなくこぼれ落ちた。


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