ある天気の良い昼下がり、セツとクサカは赤茶色の岩がごろごろと転がる山道を黙々と歩いていた。二人の目指す場所は山の中腹にある小さな集落。そこは山をくり抜いて造った世界でも珍しい集落で、各地から観光客が訪れる有名な観光スポットとなっている。
しかし、そのような珍しい場所に行くと言うのに、二人の表情は険しい物だった。いや、正式に言えばクサカの表情が険しい。セツはその隣で至極気まずそうに歩いている。
――どうしたもんかね……。
どす黒いオーラを纏ったクサカを横目で見、セツは彼に気付かれぬようこっそりとため息を吐きながらこめかみを掻く。袖から覗く腕にはムヘールに付けられたものとはまた別の、真新しい切り傷が出来ていた。良く良く見てみれば、右の頬にだけ貼ってあった貼り薬も増えている。
――怖いと言うよりは異常だろ、コレ。
運悪く二人の目の前に飛び出してきた魔物に刃を向けながら、セツは心の隅で呟いた。
魔物が出れば接近戦を得意とするセツが前で、武器の形状により、遠、中距離戦を得意とするクサカはセツの背後で応戦。というのがここ最近の二人の戦闘体型になっている。
本来ならばセツが魔物に突っ込み、クサカが後ろから補助、止めをさすのだが今のクサカが狙うのは魔物ではない。
「いっ!」
魔物の首を押さえ、とどめを刺すべく短刀を構えたセツだが、右手に燃えるような痛みを感じて声を上げる。しかし、この数日間でこの手の痛みに慣れたセツはすぐに意識を魔物へと向け、そして魔物の頸動脈を切り裂いた。
……周囲に再び静寂が戻る。
「手が滑った」
「……はいよ」
魔物が息耐えた事を確認し、右手をかすめて岩盤に刺さった武器を抜いているクサカに視線を向ける。セツの右手を傷つけたのは、クサカの放った攻撃だったのだ。
竹筒に入っている水で短刀に付着した血を洗い流し、セツはもう慣れた調子で片手で器用に応急処置を施す。ここが乾燥地で良かった。等と、最早傷つけられる事を前提に考えつつある自分に苦笑を漏らすと、クサカは「行くぞ」とぶっきらぼうに告げてさっさと歩いていく。
その姿を半ば諦めたように見送りながら、深々とため息を吐く。クサカがセツへと明らかに攻撃を加えだしてから、二人が要件伝達以外の言葉を交わすことは無くなっていた。
――やっぱり、あの事が原因なのかな。
遠退くクサカの背を追いかけながら、セツはクサカの態度が急変した日の会話を思い浮かべた。
・
「ヒワの他に思い出した事は?」
「えっと、滅茶苦茶私の事を嫌っていた人と……、あと皆で走っていたこと」
「顔はどんなだった? 名前は?」
たき火の前で夕飯を食べながら、クサカはセツが思い出した記憶について問いただしていた。
詳細を尋ねられたセツは返事を返せずに口ごもる。その様を見たクサカは舌打ちをすると、持っていた串を火の中へ投げ入れた。
「お前、顔も思い出せないくせによく「思い出せた」だなんてほざけるな」
クサカの苛立ったような言い種に、セツは言い返す事なく黙って話を聞いている。
実際、あれからセツはヒワの事しか思い出す事が出来なかった。ヒワ以外に思い出せた事と言えば"誰かと草むらを歩いた"等といった曖昧でどうでも良いものばかりだった。
「お前……、さすがに俺達を纏めている人の名は覚えているだろうな?」
心理を突かれ、黙りこくるセツへと、クサカは声色を低くして、やけに真剣に尋ねた。
急に空気が変わった事にセツは「これは答えないと不味い」と、焦った。しかし焦ったところで都合よく思い出せる程現実は甘くない。
「ちっ、面倒くせぇ」
明後日の方向を見つめながら視線を泳がせるセツを見たクサカは、舌打ちをすると立ち上がって後ろにある小川へと向かった。
クサカが小川で何かをしている間中、セツは頭を抱えて懸命に思い出そうとしていた。が、やはり思い出せないものは思い出せない。
「飲め」
記憶を掘り出そうと頭を抱えて躍起になっているセツに向けて、小川から戻って来たクサカは水の入ったコップを差し出した。
反射的にそれを受け取ったセツは、受け取ったものの直ぐに飲もうとはせず、訝しげに水を見つめる。どうやら、以前にクサカが一服盛った事が気にかかっているらしい。
「毒なんか入っちゃいねえよ。只でさえお荷物なのにそれ以上厄介にさせてどうするんだよ。良いから飲め。今すぐ飲め」
「……うす」
そもそも何故この展開で水を飲まないといけないのか。少々結びつかないクサカの行動に戸惑いつつも、気迫に圧されたセツは「南無三!」と気合を入れると、一気に水を流し込んだ。
微かに普通の水とは違う香りを感じたセツは、また一服盛られたかと思ったが、飲んでしまった後ではどうにもならない。
「……何か入れたね?」
「まあな」
悪びれる事無くしれっと言い放つクサカに少々苛立ちつつも、またもや何かを盛られたと分かったセツは体調が悪くなった気がして仕方なかった。
ああ、胸やけが……。と不調を訴えるセツを冷ややかに眺めながら、クサカは焚火の中から火のついた枝を一本取りだすと、それをセツの前で振り子のようにゆっくりと左右に動かし始める。
「何してんの?」
「黙ってこの火を見ていろ。良いか、今お前に飲ませたのは自白剤だ」
「何つーもん盛るんだよ!? 変態!」
「は、お前の性癖なんざ興味ねぇよ。てか黙れ、殴るぞ」
「……殴った後に言われても……」
「お前は今遥か昔、俺達が全員揃っている時代にいる」
ゆらゆらと目の前で揺らされる炎を見ている内に、セツの頭は霧がかったようにぼんやりとして来た。そして白昼夢を見ているような、不確かな映像が脳裏に浮かんできた。
『薄暗い洞窟で、沢山の人が集まっている……』
クサカが話すとともに、夢見心地のセツの脳裏に薄暗く、巨大な洞窟内の光景が浮かび上がる。そこにいる人々は皆目が虚ろで衰弱しているように見えた。
クサカの語りが続く中で、セツは興味深そうに周囲を観察する。しかし、目に見える人々は痩せ細り、希望も何も無いような力ない表情で虚空を見つめている為、小さな好奇心は瞬時に消え去る。
やがて、正面の方から金属製の重い扉が開く音がした。途端、それまで無気力感しか無かった洞窟内の雰囲気が一変し、緊張感が漂い始める。
カツ……カツ……。
二人分の足音が段々と近付いて来る。それと同時に周囲の緊張感は益々上がって行く。
やがて足音は洞窟のすぐ前で止まった。既に周囲の緊張感はピークに達しており、誰もがピリピリとしていた。
ガコン……ッ!
一際大きく響く、扉のロックを外す音。音が響くと同時に、扉の奥から二人の人影が見えた。入ってきたのは黒髪の男と、白髪の老人。彼らを目にした途端、セツの体が、臓器が、血液が、ざわざわと騒ぎはじめ、そして頭が自然と理解する。
アルティフ・シアル。この人が、自分の主だ、と。
「思い出せたか?」
クサカの声で現実に引き戻されたセツはビクリと肩を震わせ、いつの間にか閉じていた目を開ける。
「うん? 多分」
「多分って何だよ」
「んー、ちょっと引っ掛かっているんだよ……」
きっと、あの白髪の老人が自分達の主なのだろう。しかし、あの老人は仲間と言うより、支配者のように感じられた。あれではクサカが言った「纏めている人」とは似て非なるもののように感じられる。
「……アルティフ」
悩むセツの口から、ポツリと老人の名が漏れた。それは本当に無意識の内に出ただけで、他意も何もない。しかしそれを聞いたクサカの表情は明らかに不機嫌なものになる。
「やっぱり、そっち側か……」
今まで聞いたことの無い低い声で呟いたクサカに、セツは我に返る。そして何の気なしに彼の顔を見た途端、セツの顔は強張った。
クサカの表情は今や不機嫌でも、怒っているでもなく、無表情になっていた。表情が消え、しかし凍りつくような冷え冷えとした殺気を纏った彼を前に、セツは言葉を忘れて見つめることしかできない。
「やっぱりお前は向こう側だったんだな。はっ、少しでも期待した俺がバカだった」
「どういう……」
「黙れ。もう喋りかけるな」
呆然とするセツを残し、クサカは食事の片づけもそこそこにその場を離れていく。
追って問い詰めることも来るだろうが、セツには出来なかった。老人の名を口にした直後に放たれた冷え冷えとした殺気。アルティフがクサカの触れては行けない所に触れてしまったのは明らかである。
しかし、原因が分かっても何故クサカがそこまで怒りを露わにしたのか。それが分からない。クサカがああなってしまっては聞くことすら出来ない。
力なく焚火の方を見たセツの目に、二人で騒ぎながら作った料理が映る。
つい先程まで暖かかった食事が、今では只の冷めきった食料と化している。それはまるで、セツとクサカの関係をそのまま現しているようだった。
「話しかけるなって……、今の私にはあんたしか頼る人がいないんだよ……」
食器ともう手を付けないであろう食事を片付けながら、セツは力なくポツリと呟いたのだった。
・
それから二人の関係は悪化する一方であった。無視は当たり前のこと、それどころか散々「手が滑った」を理由に理不尽な暴力を振るわれていた。しかしそれでもセツは詰め寄ったり、不平を口にしたりはしなかった。
それはクサカに話しかけるなと言われているのも理由の一つだが、何よりも心のどこかで"これ位はされて当然だ"と思う節があるからだ。
だが、なぜそう思うかは分からない。肝心な部分が思い出せないのだ。
――もう何が何だか分からない。……平凡だった日々に戻りたいな。
思い出せばクサカとの溝は深まり、思い出せないとかつての仲間との繋がりが遠ざかる。
どうしようもないジレンマに陥ったセツは、ノシドでの何もなく平穏に過ぎていた日々に思いを寄せた。
そんな折、不意にクサカが立ち止まる。何かと顔を上げれば、前方に山をくり抜いて造られた奇妙な集落が見えた。
赤茶色の丸裸の山肌の所々に無数の穴が見え、そこから白い煙が上がっている。今までに見たことも、想像したことも無い光景を前にしたセツは今までの感情と言葉を失い、思わず見惚れてしまう。
「おい」
しかしその感動的な時間も、直後のクサカの声と何かがぶつかったことで中断される。
何事かと我に返ったセツの目に映ったのは、地面に転がる無数の硬貨であった。状況が呑み込めず、地面に転がるセツに向け、
「……丈夫そうなロープと脂と水を買ってこい。ある程度経ったら探しに来い」
そうとだけ言うとクサカは振り返りもせずさっさと歩いて行く。道に散らばった硬貨を集めながら、セツはやっぱり怒ってもいいかな? と自分自身に問いかけたのだった。
・
「ロープと脂と水……、よし! 全部揃った」
紙袋の中の物を確認し、セツは満足そうに笑みを浮かべた。
こちらの文字が読めない為に最初こそ苦戦したものの、脂とロープは独特の匂いを辿って探しだし、水は集落の人々に聞く事で買う事ができた。
「ある程度ってどれ位だろう? 数え方が違うから分かんないんだよなー」
ノシドとは時間の呼び名が違う為、自信がなさそうに呟くセツだが、まあほどほどになれば行けばいいかと気楽に考えて伸びをする。背骨が伸びる感覚に気持ち良さそうに目を細めると、体と心がほぐれてきたのか欠伸が漏れる。
――そう言えば、ここ最近欠伸すらしていなかったっけ。
度重なるクサカの攻撃と精神的圧迫で常に緊張を強いられていたセツは、欠伸すらしていない自分の余裕の無さに驚いた。
心身ともに休んだ方が良いかとも考えたが、それよりも好奇心が上回ったセツは「リフレッシュ」と自分に言い聞かせて、当初の予定通り観光することにした。元より観光するためにお使いを走って終わらせたために、時間にはまだまだ余裕がある。
「ここって干物多いなぁ……、あれ?」
店先に干されているトカゲの干物を眺めていたセツは、見たことのあるプラチナブロンドの髪に足を止めた。
目を細めて見てみれば、案の定それはクサカだった。そしてその横には見慣れぬ赤褐色の髪の女性が佇んでいる。
「相変わらずおモテになるこって」
買い物を押し付けておいて自分は女といることに少し怒りを感じたセツは悪態を吐きながら、足音を荒くしてその場を立ち去る。