その日は月明かりが妙に明るかった。
優しく暗闇を照らし出す月の光は儚げに輝いていたが、儚い中に誰にも譲らない強さがあった。
何もかもが淡く光るその中で、暗闇を掻き分けて走る人影が一つ。
その人影は誰もが足を止めるであろう、目の前に広がる月に照らされた花畑すら気にも止めない様子で、ひたすら足を進めている。
「……間に合うか」
その人物が呟くと同時に、どこかから大地を揺るがす衝撃が襲い、凄まじい爆音が大気を震わせた。
大地が揺らいだ事に、走っていたその人物は体制を崩し、地面へ片膝をつけた。
ポタリとその人物から一筋の滴が落ちる。よく見れば白い花の上に、どす黒い一滴の血液がついている。
それだけでない。良く見てみれば、その人物が通った後には所々血痕が残されていた。
「さすがに成功作を二人相手にするのは堪えたか……」
改めて口を開いたその人物に、雲で隠れていた月がゆっくりと光を伸ばす。
月の光が射し込んだ事に気が付いたその人物は、眩しそうに月を見上げた。
その人物は漆黒の長い髪に、同じく漆黒の目をした女性だった。
しかし彼女の結っていたであろう髪は乱れ、紺色の変わった浴衣を纏った体には生々しい傷が残されている。
――二型にすらなれないとは……。情けない。
心の中で小さく吐き捨てると、彼女はふらつく体を何とか立ち上がらせ、再び足を進め始めた。
彼女が走り出した時にも、まだ地響きが続いていた。
地響きの理由が分かっているのだろう。彼女はひたすら音源に向けて走っていた。
体の傷から見ても彼女はいつ倒れてもおかしくない状況にある。いや、既に体の限界は遠にすぎているのかもしれない。現に、彼女の足と手はぶるぶると痙攣している。
――後少し、最後の戦いが終わるまでで良い。それまでは機能を止めるな。
彼女の額から汗と血が混じった滴が一つ、風に乗って飛ばされて行く。
地響きはもうすぐ近くから響いてきている。目的地はあとほんの少しだ。
「私が役目を果たせば、全て上手くいく」
不意に立ち止まった彼女は、自身に言い聞かせるかのように小さい声で呟いた。
そんな彼女に同意するように、薄い真珠色の光が彼女を包み込む。
「付き合わせてごめん」
彼女が真珠色の光を見上げて謝罪をすると、光は彼女の前に移動して左右に薄い光を震わせた。
「……ありがとう。後少し付き合って」
彼女が感謝の意を告げると真珠色の光は彼女の体に寄り、次第に彼女の体の中へと消えていった。
光が完全に消えた事を確認した彼女は最後にもう一度月を見上げると、地響きが止まない方へと走り去って行った。
……彼女が去ってから数分後、地鳴りがしていた方向から獣の咆哮と、まばゆい光が辺り一面を包み込んだのだった。
――それから長い年月が経った――……
「……ここどこだ?」
真っ黒な空間で意識を取り戻した私は疑問を口に出した。
私の記憶が正しければ、ここは夢の世界で自分は先ほどまで魚の干物の食べ放題ツアーに参加していた筈だ。
「おーい」
声を出してみるが返事は無く、自分の声のエコーだけが耳に入る。
じっとしていても何も変わらないと感じた私は、ぐっと伸びをすると歩き始めた。
やはりここは夢の中のようで、その証拠に歩いてみても地面を蹴っているような感じがしない。むしろ歩いているのでなくて、歩かされているような気がする。
「黒ー黒ー黒ー暗い」
全く代わり映えのしない景色にちょっぴり不満を感じて思ったままの事を口に出してみる。が、夢の内容を自分で変えれない事を今までの経験上、熟知しているつもりの私は、ただ流れに身を任せて暗いだけの空間をさ迷っていた。
「ん? 何だあれ?」
少し前の方にうっすらとした光があることに気が付いた私は、意味も無く回る事を止めて光の方へと足を進めた。
光はまるで私を誘うかのようにゆらゆらと揺れては、光を増すといった行動を繰り返していた。
その光に懐かしい感情を抱いた私は灯りに吸い寄せられる蛾のごとく、光に手を伸ばした。
「っ!?」
私が触れた途端に、薄かった光が輝かしいばかりに光を増し、辺りの闇は追い出されるかのように消え失せた。
暗かった空間には真っ白な花畑が広がり、ふわりふわりと小さな花びらを宙に舞わせている。
あまりの美しさに言葉を失った私は、呆然と立ち尽くしながらその景色を眺めていた。
「長い年月を経て……」
突然聞こえた声に、私は開きっぱなしだった口を閉じて辺りを見渡した。
だが、目に入るのは藍色の空に真っ白な花畑。特に変わったものは見受けられない。
「目覚めの時は来た」
しかし謎の声は止まず、こちらに近づいているような気さえする。
無意識にファイティングポーズを取った私は、警戒を怠らずに辺りを見渡した。……つもりだった。
「あなたは誰?」
突然背後から聞こえた声に、私はビクリと肩を震わせて体の動きを止めた。
人間、本当にびっくりした時は動けないものだ。
「あ、あたしですか?」
「そう」
確認のために、念のために聞き返すと何とも短い返事が返ってきた。
「えっと、ユキです」
「違う」
名前を答えた途端に否定された私は、再び体の動きを止めた。
本名を答えたのに否定された私はもうどうすれば良いか分からない。それに、この抑揚のない女性の声が妙に怖い。
「あなたは"ユキ"ではない」
頭も体も動きを止めた私に背後にいるであろう女性は言葉を続けた。
こっそり頭を動かして横目で背後を盗み見すると、空と同じ濃い紺色の浴衣が目についた。
「あなたは忘れているだけ」
女性がゆっくり近づいて来たのか、彼女の服にかかっていた長い髪が一束目の端で揺らいだ。
正直に言って、怖い。浴衣の髪の長い女性が夢に出てきた時点で、偏見かもしれないがホラー要素がある。
女性は先の言葉を告げると、口を閉ざした。どうやら私の言葉を待っているようだ。
「わ、忘れてるって?」
「全て。名前も記憶も……自分の正体も」
女性の無言の圧力に負けた私は少し声を裏返して尋ねた。格好悪い。
すると女性は間髪入れずに答える。
「だからユキですって。年は17で四姉妹の末っ子! 身長はあと十センチ伸びるはず! 忘れてなんか無い!」
自分の事をまるで知らないように他人に言われた私は、少し口調を荒げて告げた。
どうだ、このやろう! 反論するなら来い!
「全然違う」
しかし女性は怯む様子も無く、私の情報を全て否定した。
前否定された私の口からは思わず驚嘆の声が漏れる。
「……少し、見せてあげる」
全く知らない人に、せっかく個人情報を漏らしたのにも関わらず、間違いだと言われて深く落ち込んでいた私の後頭部に彼女の指が当てられた。
途端に頭に激痛が走り、様々な映像と音声が決壊した水のように流れ込んでくる。
彼女が私に触れたのはほんの一瞬だったが、その一瞬で膨大な量の音声と映像が私の頭に入り込んだ。
そのあまりに残酷で悲しい映像を見た私は、彼女の指が離れると同時に膝から地面へ崩れ落ちた。
膝も頭も痛かったが、何より心が張り裂けそうに辛かった。
「分かった? 自分の正体が、自分の使命が」
背後に立ったままの女性は相変わらず抑揚の無い声で尋ねてくる。
彼女の言葉で、私は先ほどの映像が自分の記憶だという事に気付いた。いや、気付かざるを得なかった。
「あなたは目が覚めたらこの出来事を忘れる」
胸の痛みをこらえる私に向けて彼女は静かな口調で語りかける。彼女は長い間、この痛みに独りで耐えてきたのだろう。
「次に思い出す時は、時が満ちた時……。それまでの短い間に覚悟を決めておいて。今の生活には戻れない。二度と」
彼女がぽつりと呟き始めた頃、地面が突然揺れ始めた。
地面が揺れると同時に地鳴りが鳴り響き、美しい花畑に蜘蛛の巣のような亀裂が走ってゆく。
そうこうしている内に、私の足下の地面が陥没する。
慌てて抜け落ちた部分を見てみれば、土があった場所にはただ、真っ黒な闇が口を開けているだけだった。
「半端な覚悟では心が折れる。これは……」
「待って!」
彼女がこの状況にも関わらず、呟き続けている事に気が付いた私は、咄嗟に顔を上げて彼女の方を見た。
彼女は口を閉じてこちらを見ていた。彼女と目があった瞬間、足下の地面が大きく抜け落ち、私の体と意識は闇の奥底へと堕ちていく。
「これは……」
薄れ行く意識の中で、私は彼女の声が何処かすぐ近くでしたような気がした。
-プロローグ完-