その日、男とセツは珍しく一緒に町をぶらついていた。
春も近いからか気温はかなり温かくなり、前ほど厚着をする必要は無くなった。しかしそれでも寒い事は寒い。マフラーを外すにはまだかなりの日数を要するだろう。
気温の話はさておき、セツと男は旅の食料が底を付いたので町へと買い出しに来たのだった。
「あのさ」
「何だ?」
大量の食材が入った紙袋を抱えながら、セツは何やら落ち着かない様子で男へ話しかける。
それに反応した男は、セツと同じく大量の食材が入った紙袋を抱えながら問いかけの続きを促した。
「気のせいかも……いや、気のせいじゃないな。何かさ、恋人多くない?」
セツの言うとおり、二人が歩く町中は至るところに二人一組の男女の姿があった。しかも、そのどれもが、周囲の目など全く気にしない熱々のラブラブだ。
「……もうそんな季節か」
異常なまでにスキンシップを取っているカップルとすれ違ったセツは、ぎょっとした表情で一歩横に逸れる。少し縮まった距離間で男は今思い出したかのように、「ああ」と小さく呟いた。
その反応に、男がこの"恋人異常発生現象"について何かを知っているのだろう、と分かったセツは道行く恋人達へと向けていた視線を慌てて男へと向けた。
「あの日だからだろう」
「その"あの日"を知ってたら聞かないって」
男のずれた返答にセツは少しむっとしたように突っ込む。そろそろ男の中々前に進まない話に慣れても良い頃だが、元々我慢強い性格では無い為に、どうしても突っ掛かってしまう。
てっきりセツがこの日の事を知っていると思っていた男は、本当に知らないのだと分かると、多少なりとも驚いたのかローブの下の赤褐色の目を丸くした。
だが、「本当に知らないのか」とでも尋ねれば、何処か殺気が漂っている彼女が暴れかねないと考え、静かに口を開く。
「端的に言うと、発情期だ」
「は!?」
「恋人が何やら祝い合う季節らしい」
「らしいって……」
「俺には関係の無い事だ」
全く興味が無さそうな男の話し方に、セツは思わず脱力する。だが脱力している本人も関係の無い話だったりする。寂しい二人組だ。
一つの謎が解消された事にセツは少しすっきりしたような顔になったが、まだ全ての疑問が解消された訳ではない。
「あの人達、何を渡し合ってるの?」
「チョコだろ」
「ちょ子?」
「チョコレートだ」
「ちょこレイと?」
引き続き、誰もが知っているであろう食べ物について尋ねて来たセツに、男はまた冗談を言っている。そう思い、ため息混じりに答える。
だが返って来たのは妙なイントネーションに変換された"チョコ"だった。省略したのが不味かったのか、と正式名称でさらっと答える男だが、またしても返って来たのは妙なイントネーションの"チョコレート"だった。
その時点では、まだセツがわざと惚けていると思っていた男だが、此方を見上げている彼女のキョトンとした顔を見た途端、疑惑は心配に変わった。
このご時世、チョコを知らない者など滅多に居ない。なのにこの女はその"滅多"に含まれているらしい。
「甘い……菓子だ」
「甘い? まんじゅうみたいな?」
「違う。硬くて茶色い」
「かりんとう?」
「……茶色より黒だな」
ああそうだ、こいつは世間から離れた辺境の地に住んでいたのだった。彼女の遠そうで遠い候補を聞いた男は、セツが外部との交流が無いに等しい辺境に住んでいた事を思い出した。
それにより、冗談だと思っていた彼女の馬鹿げた質問に合点がついた。あんな場所に住んでいれば、今日の行事は愚か、チョコも知る事は無いだろう。
黒くて固くて甘い!? そんな得体の知れん物を食べるのか! チョコの存在を知らないセツは横でそう騒いでいる。説明はどうやら伝わらなかったらしい。
「待っておけ、少し」
得体の知れない食べ物を嬉しそうに渡し合う恋人達を、仰天した顔で凝視するセツへ待機しておくように命じた男は、彼女をその場に置いて恋人達が行き交う町中へと消えて行く。
恋人達の群れのど真ん中に残されたセツは、暫くの間落ち着き無くキョロキョロと視線を巡らせていたが、慣れて来たのか、自棄になったのか、次第に落ち着きを取り戻してきた。
――何か、幸せそうで良いなぁ。
最初こそ発情期の猫のように見境なしにイチャイチャする恋人達に殺気まで覚えたものだが、落ち着いて来るにつれて前者とはまた別の、幸せそうに微笑み合う恋人達が目に入るようになった。
遠慮がちに、だが深い愛情をもって接する恋人達に、その姿を見ているセツの表情も自然と綻んでゆく。
「セツ」
何の前触れも無しに名を呼ばれ、セツは驚きながらもゆっくりと名を読んだ人物の方へと体を向ける。
視線の先には当然あの男が居て、何やら小袋を此方へと向けて立っている。
状況が呑み込めず、あからさまに理解出来ていない顔のセツへと、男は半ば押し付けるようにしてその小袋を渡す。受け取っても尚、顔をしかめて立つばかりのセツへと、男は側にあったベンチに腰掛けながら口を開く。
「開けてみろ。それがチョコだ」
言われるがまま、紙袋を開くとそこには一枚の板チョコが入っていた。
一体どんな物なのだろうと、期待と少しの不安に胸を踊らせながらセツは男の隣に腰掛けながら、板チョコの包み紙を裂いてゆく。
「今日は好いている者、又は大事な者にチョコを渡す日らしい」
包み紙から出てきた焦げ茶色の物体に、目を白黒させるセツへと男はまたもや"らしい"と付けた説明をする。だが慎重にチョコの匂いを嗅いでいるセツにその説明が届いているかは定かではない。
暫く匂いを嗅いでいたセツだが、不意にその行為を止め、今までの慎重さは何処へやら、ガブリと大胆にチョコへとかじりつく。
「美味いか?」
何とも言えない表情で咀嚼していたセツだが、男が尋ねるとほぼ同時にその表情がパアッと輝く。どうやら想像以上に美味しかったようだ。
美味しい! と笑みを浮かべて男を見たセツは、それから次々にチョコへとかじりついて行く。まるでネズミがヒマワリの種にがっついているようなその姿に、男の口端が僅かに上がる。
突然、セツが思い出したように「あ」と呟き、チョコを食べる動きが止まる。
何かあったのか、と小首を傾げる男にセツは板チョコの半分を折って渡す。
「はい」
立場が先程とは一転し、セツがチョコを突き出した事が理解出来ない男は、差し出されたチョコを見つめながら動きを止める。するとセツは半ば押し付けるようにしてチョコを男に手渡した。何だか何処かで見た光景だ。
「チョ子、大事な人にあげるんでしょ? だから半分ずつ。いつもお世話になってます、って意味を込めて」
まだ妙なイントネーションが抜けきっていないセツはそう言ってニカッと笑うと、手元に残っているチョコを食べ始めた。
男は暫く手の上にある茶色の固形物を見つめていたが、鼻で一つ笑うと、ある程度の大きさに割って口に運ぶ。
口に広がる独特の甘味を感じながら、男は「たまにはこんな行事も良いな」と、小さく心の隅で呟いた。
「思い出した」
チョコを食べる事を中断し、セツがそう呟きながら立ち上がる。
そうだそうだと呟いた彼女は体を此方に向けると、何処かすっきりした様子でこう話す。
「今日って有名な司祭が殉職した日だ!」
ロマンチックとは程遠く、お世辞にも色気があるとは言えないが、それでも男は良い日だと、そう心の奥底で呟いたのだった。