自傷少女とお節介警官
「うっ、ぐ、あぁああ……!」
「ねぇ、僕は間違っちゃいないよね? ねぇ? ねぇ? あれ、ねぇ、もう逝っちゃった? つまらないなぁ。ねぇ、お母さん」
 様々な謎がある中で、最も身近で解明されていないのは人間そのものである。
 心理的にも、機能的にも謎の多いこの生物は、毎日新しい謎を生み出す生命体である。
 思考も、身体も一致するものが63億人の中で一人もいないこの生物は、今日もまた新たな謎を生み出してゆく。

 間宮朝日は困惑していた。
 彼女は今日、三日に一度参加できる部活動に参加するつもりであった。
 けれど、何の運命のいたずらか、彼女が心待ちにしていた部活動は巷で話題の連続殺人事件が起きた為中止に。
 そして、呆然とする彼女はドタキャンバイトの代役という追撃に遭った。
 ここまでならば、ただついていないだけの笑い話だ。
 しかし彼女は、気分転換に立ち寄った公園で職務質問に逢うという、個人的に笑えない。端から見れば笑い話の状況に立たされていた。
「どこの学校通っているの?」
 警官はなるべくこちらの緊張を無くそうと、にこやかな笑みを浮かべている。その対応は素晴らしいものだが、警察の服を着ている時点で緊張感を与えているとは気付いていないようだ。
 ーー最低。ついていないにも程かある。
 当たり障りの無い質問に淡々と答えながら、朝日は己のツキの無さに毒吐く。
 まだ深夜徘徊の時間ではないのに、何故職務質問をされねばならないのか。きっとそれは、近頃起きている事件が関係している。
「じゃあ、学生証見せて」
「え、どうしてですか?」
「どうしてって……」
 反論すると、警官は言葉を濁らせる。きっとマニュアル通りに質問しているのだから、自分の行動に対して何も考えていないのだろう。
 普段の朝日ならば、こんな挑戦的な言葉のやり取りはしない。彼女自身、事を大きくするのは好きでは無いからだ。
 けれど、今日の朝日は苛立っていた。それが彼女の行動を過激にさせていた。
「学生証を見せなきゃならないのは、信用が無いからですよね? 私が答えたことは全て事実です。それに私は何もやましいことはしていません。では、急いでいるので失礼します」
「ちょ、ちょっと待って!」
 警官は去っていく朝日の後ろ姿を呆然と見ていたが、直ぐに我に返って彼女の自転車のハンドルを握る手を掴む。
 彼はただ彼女を引き止めたいだけだった。他にどうしたいという思いがあった訳ではない。
 けれど手首を掴んだ瞬間、朝日は短い悲鳴を上げて警官の手を勢い良く振り払った。
「だ、大丈夫?」
「……大丈夫ですから、放っておいてください」
「でもその様子じゃ大丈夫に見えない。どこか、怪我でもしたんじゃないの? だったら病院行かないと! えっと、この時間って病院開いているのかな? あ、ちょっと待って!」
 慌てふためく警官をしり目に、朝日は自転車に跨がり走り去る。
 しかし、そう走らない内に、前の茂みから突然人が飛び出して来た。
 間一髪でハンドルの大きく切り、ぶつかることはなかったものの、朝日と自転車は遠心力に耐えきれず、横滑りをしたまま茂みに突っ込んでしまう。
「った……」
 大丈夫かーー!? 接近してくる警官の声を聞きながら、朝日は顔をしかめながら体を起こす。派手に突っ込んだが、外傷は小さな傷で収まっているようだ。
 手首のリストバンドで顔を拭った朝日は、警官の声とまだ距離があることを理解すると、すぐさま自転車を起こそうとした。
 しかし、自転車は何かに挟まってしまったのか、なかなか起きない。どうやら、茂みにあるツタが後輪に巻き付いてしまっているようだ。
 --ああもう、ついていない!
 乱暴に自転車を引っ張っていると、追い付いた警官がライトで照らしてきた。
「ひっ……!」
「これは……」
 途端、朝日は引きつった声を上げ、その場にへたり込む。同じく、追い付いてきた警官も、自分がライトで照らしたものを見て息をのむ。
 警官がライトで照らした先。そこには、後輪に巻き付いたバッグ。そして、目を見開き、唇を削がれた女性の死体があった。
 声にならぬ悲鳴を上げる一方で、とうとう端から見ても笑えないようになった。と、どこか冷静に考えていた。

 --どうしてこうなった。
「間宮さん、陸上部か。道理で足早い訳だ」
 ミルクティーを手渡す若い警官を眺めながら、朝日は心中で呟いた。
 昨日の事件から一晩明けた今日、警察署に呼び出された朝日は事の発端となった警官に缶ジュースを奢られていた。
 当初はただ単に事情聴取だったのだが、今ではただの雑談に。しかも場所は警察署ではなく、海岸に移されている。
「俺、学生の時は野球部だったんだけど、足が遅くてベンチウォーマーだったんだよ。あ、ベンチウォーマーって補欠の事」
「そうなんですか……」
「そうそう。でも、好きだったな。野球。練習に打ち込んでいる時が一番生きてる! って感じしてさ」
「私も、練習している時が一番楽しいです」
「本当に!? 練習嫌いな奴多いから嬉しいな。いや、マジで!」
 至極嬉しそうな笑顔を見せる警官に、思わず顔がほころぶ。しかし、ハッと我に返って顔を引き締める。
 幾ら犬のような人懐っこい笑みを見せていても、この男は他人である上に警官だ。隙を見せれば知られたくない情報を、それこそ犬が穴を掘るように根こそぎ掘り起こされるに違いない。
「お巡りさん、まだ私のこと疑っているんですよね?」
 途端、警官の表情は堅くなる。
 それ、見たことか。今までの雑談も、笑顔も、全ては自分から情報を引き出すための手段でしかないのだ。
「参ったな。そんな風に見えた? そっか俺警官だもんな。事件の後だと、何を聞いてもそう思っちゃうよね。ごめん」
「え?」
「海外に来たのも、私服に着替えたのも、単純に間宮さんと話したかったからなんだ。事件の事抜きでさ。間宮さん疲れてそうだから」
 事件のことを抜いてね。
 と、慌てて付け加える警官を見ながら、朝日は「ああ、この人はお節介なんだな」と結論付ける。
 その気持ちは嬉しいが、同時に面倒でもあった。特に、朝日にとっては。
「気持ちはありがたいですけど、大丈夫ですから」
「え、だって……あ! そう言えば腕大丈夫? 昨日痛がっていたけど。俺、日赤持っているから見せてみな」
「本当に結構ですから! 大体、日赤って救急でしょう? 今は適用しない……」
「良いから良いから! ……あ」
 露わになった朝日の手首には、真新しい切り傷と、何十にも重なる古傷があった。
「……っ低」
 予想外の光景に絶句する警官に、朝日は押し殺した声で呟く。そしてキッと警官を睨みつけると、彼を砂浜へと勢いよく突き飛ばした。
「最低! どうして余計な事ばかりするの!? もう放っておいてよ!」
「待って、間宮さん!」
 砂まみれの警官を置いて、朝日は走り出した。
 見られてしまった。知られてしまった。誰にも知られたくない、朝日の秘密が。
 朝日が自傷を始めたのは、中学二年生の頃。死んだと思っていた母が、男を作って出て行ったと知ってからだった。
 母が出て行ったのは朝日がまだ幼い頃で、彼女は母の記憶などない。親子三人で写っている写真だけが、唯一の母の記憶であった。
父は当時こそ落ち込んでいたもらしいが、幼い朝日を放ってはおけぬと、今まで弱音を吐くことなく、朝日が自分の母に幻滅しないように気を遣いつつ、朝日を真っ直ぐに育ててくれた。
しかし、そんな父の気遣いも虚しく、周囲を通じて真実は朝日に届くこととなる。
初めに朝日が周囲の違和感に気付いたのは、まだ小学校に上がる前、保育園に迎える友人の母親が朝日を見て「お父さんも大変ね、奥さんに逃げられちゃって」とポツリと漏らした時であった。
まだ幼い朝日はその言葉の意味を理解できなかった。けれど、言葉に含まれた重みが、直後の「言ってしまった」という慌てた表情が、あまり良くないことだと朝日に伝えた。
中学に上がった頃には、友達にそう言った旨の言葉を掛けられることも多くなった。その頃になると流石に母が死んだとはにわかに信じられなくなっていた朝日だが、父に直接尋ねるのは気が引ける。そして心のどこかで母を信じていたため、真実を追求することは出来なかった。
 翌日、朝日が事件の第一発見者だということは既に校内中に広まっていた。
 休み時間となれば好奇心で全く知らない子からも話しかけられる。かと言って授業中は教師の好奇な目や、事件の内容を知りたがる手紙が回ってくる。あの夜の事をいち早く忘れたい朝日にとっては、そういった周りの行動は迷惑でしかない。
「あの、殺人現場見たって本当ですか?」
 あまりに好奇の目が酷いため、早退を願い出た朝日は、帰路でも例の事件に触れられて閉口した。
 尋ねてきた少女は13、14歳くらいだろうか? 近所の制服を着ているから、中学生に間違いはないだろう。
「見たけど……」
「本当なんですね!? わあ、怖い。犯人は見ましたか?」
 中学生を見ると、自傷を始めた頃の自分と重なって非常に不安定な気分になる。しかし、いつまでも引きずる訳にはいけないな。と、気持ちを切り替える。
「犯人……ああ、そういえば」
 そこまで言って朝日は携帯を開く。
 メールフォルダ、着信履歴は殆ど未登録の番号で埋まっている。何を隠そう、この番号は昨日成り行きで交換した警官のものであった。
 着信は全て無視しているのだが、メールは流し読みでたまに開いている。ほとんど昨日の事を謝っている内容なのだが、その中で一つだけ気になる件名があった。
 件名:解決かも
 本文:朝日ちゃん、事件の犯人分かったかも。ほら、朝日ちゃんが茂みに突っ込むきっかけになった男いたっしょ? あれ、警部が目星付けたんだよ! これで確定なら万々歳だけど……
「うん。分かったみたいだよ。今警察が追っているって」
 その後も改行なしで延々と続く本文を無視し、朝日は中学生に出来る限りの笑顔で答えた。この辺りでは女性を狙った猟奇殺人者が出るということで、小学校、中学校は犯行が及ばぬようにと早めに生徒を帰すようにしている。
 この少女も、そんなことが続いている為に不安なのだろう。
「本当ですか!? 良かった! 私、従妹のお姉ちゃんが殺されちゃったから不安で不安で……。家にも、お母さん死んじゃってから誰もいないし……」
 思い出したのか、少女は声を上げてぽろぽろと涙を流す。
 身内が殺されたとなれば、さぞかし怖かっただろう。不安だっただろう。
 中学生の頃の不安定だったころの自分を思い出した朝日は無意識に少女の華奢な体をそっと抱いた。
「ごめんなさい、いきなり泣いて」
「いいよ、私こそいきなりごめんね。私も、お母さんいないんだ」
「え、お姉さんも?」
「うん」
「そっか、そうなんだ……。ねえ、お姉さん話し聞かせてもらっても良いかな? 私、周りに同じ境遇の人いないから……」
「良いよ。ここじゃ何だし、場所移そっか」
「あ、じゃあ、私の家来てください。この近所なんで」
 携帯が鳴る。ちらりと見れば、やはりそれは例の警官からで朝日はうんざりと言った調子で携帯を鞄の奥底へと突っ込んだ。
 同じ境遇の少女と出会えたことで朝日の心はすっかり高揚していた。
 妹がいればこんな感じなのだろうか。そんな事を考えつつ、朝日は少女の誘導に従って自宅へと向かったのだった。
 ・
 あれが、私の娘。
 中学二年の時、初めて出会った母はまるで陳列棚に並ぶ商品のように朝日を指さしてそういった。
 きっかけはたまたま立ち寄ったカフェだった。
 部活の仲間と共にカフェでケーキセットを頼んでいるとき、隣の男女がやけにこちらを見ていることに気付いた。騒がしかったのかなと、皆で声を落としているとき、恐らく朝日の名を盗み聞いていただろう女がおもむろにそう言ったのだ。
 朝日は最初何が何だか分からなかった。それは母が死んだと思い込んでいたからではない。女の顔は写真とは全く違う別物だったからだ。
「やっぱり血が同じだからかしらね、顔がそっくりだわ」
 母らしきその女は、朝日の顔を舐めまわすように見て、愉快そうに笑った。
 確かに朝日は写真の母と瓜二つと言っていいほどそっくりに成長していた。それは父も言っていたし、何より自分が一番理解している。
「そうか? 似ていないぞ」
「馬鹿ね、整形したからに決まってんでしょ? どうせ一度の人生、派手に生きたいって思うじゃない。だから、私は顔も、子供も、旦那も捨てたの。つまらない束縛される人生なんて真っ平だもの」
 そこから先は覚えていない。
 気が付けば朝日は自室で、手首を切っていた。
 だが、母親の声が、笑い声が、父を馬鹿にする言葉が、耳から離れなかった。
 翌日、部活の仲間はいつも通り接してくれたが、どこかよそよそしくて壁があるように思えた。それと同時に「間宮は淫売の娘」という噂が流れるのも、時間は掛からなかった。
 しかし、朝日自身はそんな噂や周囲の態度はさして気にならなかった。それは事実であるし、思春期の時期なのだから仕方が無い。そう割り切っていた。
 むしろ彼女は父がそう言った偏見の目で見られる事を恐れていた。夜遅くまで仕事をし、家事もこなし、泣き言一つ言わずに自分を育ててくれた父。誰よりも愛情を注いでくれた父が、何も知らない人間に詰られることが怖かった。
 そしてなにより彼女を苦しめたのは、母の生き写しと言っても過言ではない自分自身の存在であった。

 ・

「お姉ちゃん、お目覚め?」
 薄暗い室内で目を覚ました朝日は、ぼんやりとする頭で周囲を見渡した。
 いつの間に眠っていたのだろう。体を起こそうとして違和感に気付く。体が、動かないのだ。
「ごめんね、動かれるとやりづらいから、腕縛らせてもらったの」
 ハッと顔をあげれば、両手は荒縄でぐるぐる巻きにされ、鋼鉄のパイプのようなものに繋がれている。
「ここはどこ? 何をするつもりなの!?」
「ここはね、僕の家の地下ガレージだよ。お姉ちゃんは優しいから、僕のお母さんになってもらうの!」
「お母さん……? 何を言って……」
 次第に暗闇に目が慣れてきた朝日は、周囲の状況を見て絶句した。
 ガレージの至る所には人間の体の一部のようなものが落ちていたのだ。見間違いだと言い聞かせるが、ガレージ内に充満する異臭が、そして自分の右隣に落ちている女性の頭部と目が合い、現実なのだと否が応にも理解させられる。
「ああ、お姉ちゃんにお母さん紹介するね」
 悲鳴すら忘れるような惨状の中で、少女は無邪気に笑いながらガレージの隅から車いすを押してきた。
 遠目に見ても分かる、車いすから漂ってくる異様な気配。あれを見てはいけない。本能がそう囁きかけて来る。パニックになりながらも、朝日は強く目を瞑り、決して見まいとした。
「お母さん、この人がお母さんの一部になる朝日お姉ちゃん。お姉ちゃん、お母さんいないんだって。可哀そうだよね。だから、きっとお母さんの一部になれば寂しくないよ。ふふふ、僕、優しいでしょう?」
 今までの比にならない位の強い腐臭。目を開けずとも、少女の「母」がどれだけ悲惨な状況なのかが分かる。決して見るものか、こみ上げる胃酸をこらえながら、朝日は更に目を強く閉じる。
「お姉ちゃん、人が親紹介しているんだから、挨拶位しなよ。失礼だとか思わないの?」
 直後、顔に液体が浴びせられた。
 予想していなかった展開に、頭の中が真っ白になる。生臭い鉄の匂いに思わず目を開けてしまった朝日の目に飛び込んできたのは、腐敗ガスで顔が膨張し、至る所から体液が流れ出ている死体の顔面であった。
「っーーーーー!?」
 以前見た女性の死体とは比べ物にならない程の損傷具合に、朝日はそれまで押し殺していた悲鳴を漏らし、嘔吐してしまう。それが気に食わなかったのか、少女は短く舌打ちをすると、朝日の髪を掴んで乱暴に上げた。
「失礼だよ。人の親を見て嘔吐するなんて」
「何で、こんな酷い事を……」
「酷い? 何が?」
「どうして自分のお母さんをこんな目に合わせているの?」
 意外な質問に、少女は目を丸くした。が、すぐに無邪気な笑みを浮かべて、
「僕はお母さんを綺麗にするためにこうしているんだよ? それはお母さんにとっても嬉しいことだもん。ね、お母さん?」
 腐敗しきった「母」に抱きつく少女を見て、朝日は目の前にいる少女が正気でないことに気付く。
『朝日』
 絶望する朝日の脳裏に、聞きなれた声が聞こえた気がした。
 低く、掠れて、それでいて落ち着くその声は、朝日の心の拠り所であり、支えでもある父のものであった。
 母が去り、自分が自傷していることに気付いても、一切怒りを露わにしなかった父。
 けれど、夜中に見る父の背中はいつも泣いているように見えた。父は強い。けれど、同時に本音を素直に出すことが出来ない弱い人間でもある。
 ――お父さんを、一人になんて出来ない!
 消えかけていた朝日の心に、再び希望の炎が蘇る。
 幸いなことに、少女は今母親とスキンシップに夢中でこちらは眼中に入っていない。完全なる、アウト・オブ・眼中だ。
 少女の様子を見つつ、こっそりとローファーを脱いだ朝日は、足を伸ばして目の前の鞄をまさぐる。パンツが丸見えになっているだろうが、そんなことに構っている暇はない。そして長細い物体の存在を確認すると、慎重に、かつ迅速にそれを引き抜いた。
 カサカサと、コンクリートを滑って出てきたのは、警官からの怒涛の着信が入っている携帯。丁度今も着信が入っていることに気付いた朝日は、サイレントモードにしておいた自分を誉めつつ、ぎこちない動きで携帯の操作をする。
 ――お願い、この場所に気付いて!
折り畳みでも、今主流のスマホでもないスライドタイプの携帯は、軽く足の指先で触れると、シャコという小気味良い音を立てて通話状態となった。
『ああ間宮さん!? やっと……』
「今までの事件も、全部あなたがしたの?」
 案の定馬鹿でかい声で通話してくる警官の声を遮るようにして、朝日は少女へと質問を投げかける。
 ここで少女に通話がバレたとなれば、これまでの頑張りは全て水の泡になる。
 ――空気、読んでよ!
 あのお節介な警官の顔を思い浮かべながら、朝日は藁にもすがる思いで時間稼ぎを試みたのだ。
「それは秘密。でも、ここにあるお母さんの残骸は僕が確かにしたよ。ねえ、お母さん」
「どうして、そんなことをしたの? どうしたらお母さんは綺麗になるの?」
「そんな事聞いて来るのはお姉ちゃんが初めてだ。うん、やっぱりお姉ちゃんはお母さんになる素質あるよ。じゃ、特別に教えてあげるね」
 当初、騒いでいた通話の声は、今ではすっかり静かになっている。
 いたずらと思って切ったのか、現状を把握して黙って聞いているのか定かではない。しかし、少女が時間稼ぎに引っ掛かった今は警官が気づいてくれたことに掛けるしかない。
「僕はお母さんと二人で暮らしていたんだ。その時は楽しかったなあ。毎朝お母さんがご飯作ってくれて、布団で二人で身を寄せ合って寝てさ。他愛ないことが、凄く幸せだった。でも、お母さんが男を連れてきて、生活は一変した」
 少女の雰囲気が変わる。
 気のせいか、ガレージ内に風が吹いているような気がした。
「男が来てから、お母さんは変わった。派手な化粧をするようになって、仕事にも行かなくなった。僕は男があまり好きじゃなかった。来てからお母さん変わったし、時々嫌な目で僕を見てたから」
 少女を中心に風が吹いているような気がする。
 否、気ではない。確かに、彼女のセーラー服は風に揺られてはためいている。
 馬鹿な。ここは日の光一つ差し込まない地下のガレージだ。それなのに、このような開け広げの空間で吹くような風がある訳がない。
「忘れもしない、去年の12月。僕が家に帰ると、お母さんはいなくて、あの男だけがいた。嫌な予感がして二階に逃げようとした僕を捕まえてあの男は……」
 途端、風とも、女性の叫びとも取れない音がガレージ内に響き渡り、それまで沈黙を保っていた母親の手が喉を掻くようにもがき始める。
 死体の体が動くという奇奇怪怪にも程がある現象に、朝日は時間稼ぎをしているという事を忘れ、本能的にここから逃げ出そうともがく。
「……帰ってきて僕の姿をみたお母さんは、汚い物を見るような目で僕を見た。そしてそれから、お母さんは僕の体でお金を稼ぐようになった。もう、その時には昔のお母さんは死んじゃってたんだ。僕は昔のお母さんが好きだった。元に戻ってほしかった……」
 そこまで言って、少女は車いすの後ろに置いていたノミを手に取る。
 少女の動きを察したのか、母親だったものはそれまで喉を掻きむしっていた手を、すがるように少女に向ける。
「でもさ、物事は途中から軌道修正するより、一から作り直す方が簡単じゃない? だから一度お母さんを壊して、作り直すことにしたの。それが良いって教えてもらったし。それに、どうせなら綺麗なお母さんの方がいいじゃん。だから、若い人の体を集めていたんだ。こういう風にさ!」
 荒縄が食い込むことも忘れてがむしゃらに動かしていると、少女が掛けた血液が滑油の働きをしたのか、ノミが振り下ろされる寸前で手首が抜けた。
ガキンと鈍い音を立ててノミが携帯をコンクリート諸共貫く。ああ、五万円が。思わず損害額を心中で叫びつつ、朝日は持ち前の脚力で少女から大きく距離を取る。
靴下姿であるが故に足裏にダイレクトに肉肉しい感触が伝わってくるが、この際どうだっていい。まずは、生きて帰る事が先決だ。
「どうして、どうして……」
「ねえ、こんなことをしても誰も喜ばないよ」
 ぶつぶつと呟く少女に、朝日はすがる思いで話しかける。
 少女は悪意を持ってこのような行為に至った訳ではない。
 彼女は母に崇拝にも近い愛情を抱いている。それが、母の裏切りで周囲を巻き込むほどの愛憎に変わってしまった。
 もしかすると朝日もそのようになってしまっていたかもしれない。そう思うと、朝日は彼女を放っておく訳にはいかなかったのだ。
「どうして皆私を、僕を否定するの!? 僕はただ、あの日のように過ごしたいだけなのにぃぃぃぃいいい!」
 しかし、朝日の悲痛な願いも虚しく、少女は獣のような咆哮を上げて朝日に飛びかかって来た。
 狂気に満ちた叫びに驚いた朝日は、咄嗟に逃げようとするが、睡眠薬の影響の眩暈に加え、足裏の粘液に足を取られてバランスを崩す。
 すかさず朝日に馬乗りになった少女は両手で握ったノミを朝日の顔目掛けて下ろそうとする。が、朝日も負けじと少女の手を掴み、必死の抵抗を見せる。
「何で、何で幸せになろうとしているだけなのに邪魔するんだよぉぉおおお!」
 気のせいか、少女の眼孔が、彼女の母親のようにぽっかりと空いた空洞に見える。
 少女が叫ぶたびに、吠えるたびにガレージの中の空気がざわめき、横たわっている死体たちが唸っているように感じる。
 この世の地獄があるならば、此処がその場所ではないのだろうか。と思う朝日の額に、一際力を込めた少女のノミが近付く。
「お、お父……さん」
 もう駄目かもしれない。そう思った朝日が弱弱しく呟いたとき、ガレージの中は真っ白な光に包まれた。

 ――数か月後。
 桜の花びらが舞い散り始めた、三月下旬。
 町は連続猟奇殺人など無かったかのように落ち着きを取り戻していた。
 犯人が未成年者ということもあり、事件は犯人解明後、まるで焚火に水を掛けたかのように収縮していった。
 喉元過ぎれば熱さも忘れる。とは上手く言ったもので、あれだけ集団下校を命じていた学校も、今では何事も無かったように小学生が寄り道をして帰って行く姿が見られる。今や、あの事件を覚えているのはごく一部の者たちと、犯罪心理が好きな者だけとなっていた。
 逮捕された少女は、義理の父による性的虐待と、母による売春により精神を病み、両親を手に掛けた。そして母に似た女性を見つける度に殺人に走ってしまった。と、地元の新聞社は語っていた。
 事実と違う部分はあるが、「母親を一から作り直すために、若い女性の体を探していた」と書いた所で、クレームの電話が殺到するだろうから、仕方が無いのだろう。
 結局少女は逮捕後、精神病棟に移された。そうやら、彼女は父から虐待を受け始めた頃から自分自身を守るためにもう一つの人格を生み出したらしい。
それにより彼女の人格崩壊は避けられたが、代わりに生み出された人格は非常に利己的で残忍だったらしく、彼女は自分の知らぬところで犯罪に手を染め、そして人格を乗っ取られつつあった。と、精神科の医師は語っていた。
そして、朝日は――。
「朝日―、朝練そろそろ終わるよ。早く片付けて」
「うん、これ飛んだら片付ける」
 警官の勘が功を制し、無事に保護された朝日は従来の学生生活に戻っていた。
 顔面蒼白で警察署に駆け付けた父は、血塗れの姿でパトカーから降りる朝日を見て卒倒してしまい、親子共々病院の世話になった。今では笑い話だが、一部始終を見ていた警官からすると、心臓発作かと思って生きた心地がしなかった。とのこと。

 助走をつけ、バーに向かって走る。三、二、一、と自分の中で数を数え、思いっきり地面を蹴りつけて宙を舞う。

 あれからしばらくは悪夢にうなされることも多かったが、今では滅多に悪夢は見ない。
 そして、一度死にかけたからなのか、母への思いを断ち切れたからか、朝日が自傷をすることも無くなった。傷を隠すためのリストバンドは、今では純粋に汗を拭うためのものになっている。
 そして、あれだけお節介で鬱陶しかった警官は――。

「朝日! すごいじゃん!」
 今までより高く設定しておいたバーは落ちる事無く、鎮座していた。
 自分よりはしゃぐマネージャーに携帯を取ってくれるように頼んだ朝日は、マットの上で仰向けになりながらメール作成画面を開く。
 その宛先は、もう登録されたアドレス。
宛先:お節介お巡りさん
本文:お巡りさん、私、跳べたよ!
 送信完了の画面が表示される携帯を胸に置き、朝日は深く深呼吸する。
 今やすっかりメル友の警官は、メールを見てやけにテンションの高い返信をするに違いない。けれど、今、朝日は彼に不快な気持ちを抱くことはない。
 彼女は、お節介な警官のおかげで要らぬ事件に巻き込まれたが、同時に生きる希望を持ち、母の記憶と離別することが出来た。
 自傷少女とお節介警官。自傷少女はもう、自分を傷つけることはないだろう――。


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