「い、いよっしゃぁああ!!」

一週間のスパルタ勉強会も乗り切り、三日間の期末テストも無事に終了した。
今、俺の手元には一番心配していた最も苦手な数学の採点済の答案用紙が握られている。
赤いペンで大きく書かれた70の数字が目に飛び込んできた瞬間、嬉しさからワナワナと手が震え、思わず大きな歓喜の叫び声が口から衝いて出てきてしまった。数学でこんなにも高得点が取れたのは初めて。
これで夏休みの補習はゼロ。部活にも支障なく大事なインターハイにも出場出来るし、それに加えて佐藤との、あの約束。
俺はこの夏に起こるであろう楽しい予定を頭の中であれこれ巡らせ、ついつい綻んでしまう顔を止めることが出来なかった。
そのまま周りに悟られないよう佐藤のほうへ視線を少しだけ向けてみると、俺の歓喜の叫びに反応してか、彼女もこちらを向いていた。

一瞬だけ、目が合う。
そして彼女もニコリと微笑みを浮かべてくれた。けど、すぐにハッと我に返るような素振りを見せ、またすぐさま真顔に戻りふいっと視線を逸らした。

笑った……。
今までそんなことが無かった分、こちらのほうが動揺してしまう。
二人きりで過ごす時には幾度となく見せてくれた笑顔。けれど教室にいる時は、いかなる時も佐藤が気を許すことはなかった。今、自分に向けられた一瞬の笑みは紛れもなく自然に出てしまったもので、彼女もついうっかり気を許すほど共に喜んでいてくれていた証拠だと思うと、嬉しさから居た堪れなくなった。
本当は、今すぐにでも駆け寄って手に握られた答案用紙を見せてあげたい。
一緒に手を取り合って喜びたい。
でも、それを彼女が望んではいないということは解っている。こういう時、俺はとても複雑な気持ちになるんだ。


*


「なぁ……どこ行きたい?」

放課後、練習終わりでいつものように佐藤と落ち合うと、俺は開口一番、彼女にそう尋ねた。

「どこって?」

「しらばっくれるなよ。赤点なかったら、って話しただろ?」

「あぁ、その話ね。そうだなぁ……静かなところのほうが良いかな。映画とか水族館とか……清田くんは?」

「俺は……」

お前とだったらどこでも良い、と言いかけて慌てて口を噤んだ。
そんな恥ずかしい言葉、言えない。俺ばっかり佐藤に惚れてるみたいで癪だったし、そういうガラでもねぇしな。けど本心は紛れもなくそういう気持ちだった。場所なんて関係ない。佐藤と二人で出かけるということに意味がある。ただ、佐藤と一緒に出かけられる口実が欲しかっただけだ。

映画……水族館……頭の中で二人で出かけた時のイメージを膨らませてみる。俺は本当にどちらでも良かった。

「映画、観たいのあんの?」

「ううん、別にこれと言っては」

「じゃあ、水族館は?もともと好きなのかよ?」

「……行ったことないから」

「え、一回も?」

「うん。一回も。だから行ってみたいなって、ちょっと思っただけ」

このご時世、高校生になるまで水族館へ一度も行ったことがない奴って一体どのくらいいるんだろうか。
水族館なんて日本全国探せばどこにでもあるし、実際、俺も幼い頃には親に何度も連れて行ってもらった経験がある。そういうありふれた思い出が、佐藤の中には存在しないのかと思うと胸がギュッと苦しくなった。
同情なのか、はたまた憐れみなのかは、分からない。
でも、彼女が今まで味わったことが無いというのであれば、これからは自分が一緒に思い出を作る歩みを進んでいけば良いだけの話だ。
俺は、佐藤の返答を聞いて即決した。

「じゃあさ、初めての水族館、一緒に行こうぜ」


部活が休みの日曜日。
俺たちは自宅からの最寄り駅付近で見知った人物に遭遇するのを避ける為に、念のため現地である水族館で別々に待ち合わせすることにした。
ここまで来ればさすがに日曜日の水族館は客の出入りも多く、遠出をしたということも相まって、そう易々と見知った人物と出くわすことはないだろう。
それに照明が薄暗く設定された館内に入ってしまえば、もうこっちのもんだ。

俺は待ち合わせ時間よりも少し早めに現地に到着して、入口のちょうど前で彼女の到着を待っていた。
その間に家族連れ、カップル、友人同士、様々な人たちが俺の横を通り過ぎていく。多くの人たちが流れるように歩いて行く様子をなんとなくを目で追いながら、ふと何気なく自分の正面に顔を向けてみる。
一瞬息が止まって、ハッと息を呑んだ。遠目からでもはっきりと分かる。それは紛れもなく佐藤の姿だった。
普段、学校で制服を纏っている彼女の姿しか知らなかった俺は、自らの目を疑った。
学校では地味に結ばれている髪は下され、私服のせいもあってか、普段の彼女よりもだいぶ大人っぽく見える。
こんなことなら、俺ももう少しおしゃれをしてくれば良かったと後悔する程に、今日の佐藤は一段と可愛かった。見入ってしまう程に――。

「清田くん、ごめんね、待った?」

「いや、俺も今……」

「うそ。だいぶ前から待っててくれたんでしょう?清田くん、優しいから」

ふふっと愛らしく笑った彼女は本当に可愛くて、無防備に微笑む彼女を前に俺はもう何も言えない。
完全に佐藤のペースだった。
こんなの卑怯だ。言ってみれば初デート。俺だって今日は格好良くリードするつもりでいたのに……初っ端からこんな出だしだなんて聞いてない。
くそっ!こんなところで尻込みしてるようじゃ男が廃る。

「行くぞ!」

俺は自分の動揺を誤魔化すように力強く言うと、勢いに任せて佐藤の腕を取った。
そして、指と指を絡ませ手を繋ぐ。

「あ、ちょっと、待って……」

「別に良いだろ?今日は誰も知ってる奴、近くにいないんだし」

自分にこんな思い切りの良い行動力があるなんて驚いた。
顔が熱い。おそらく耳まで真っ赤になっているだろうし、照れた自分の格好悪い姿を佐藤に見られたくなくて、顔を隠すように少し強引に彼女を手を引いて、半歩前を足早に歩いて館内へと足を踏み入れた。


手を繋いだまま水族館内を歩き、様々な魚やクラゲ、イルカやアシカのショーを観て回りながら、佐藤の楽しそうな様子を間近で見ていて俺もすごく心が満たされた気持ちになる。
声を上げて楽しむ佐藤の姿は、学校で気を張ったいつもの彼女とはずいぶんとかけ離れていて、その無邪気さにドキリと胸が跳ね上がるのと同時に、微笑ましくもある。
初めは自分の欲のために一緒に出かける提案をした俺だったが、ここまで楽しんでくれている彼女を見て、こんなことならもっと早く外へ連れ出してあげれば良かった、と少々悔やんでしまいそうになる程。
佐藤は本当に楽しそうだった。

ひとしきり水族館内を楽しんだ後、ふと自身の腕時計に目を落とせばちょうど正午を少し回った時刻になっていた。
俺は少し休憩でもしないかと佐藤に促すと、それに彼女も同意して、ちょうどすぐ傍にあったベンチがいくつか連なっている休憩スペースで足を止める。

「飲み物でも買ってくる、そこで待っててくれ」と告げれば、佐藤は「ありがとう」と、微笑んで頷いた。
彼女の元を離れて僅か数分、近くにあった自動販売機で二人分の飲みものを購入して彼女の元へ戻れば、微かに煙草の匂い。
周りを見渡すと、彼女が座っているベンチから数メートル先に喫煙所があって、そこで中年男性が煙草に火を付けモクモクと煙を舞い上がらせている。なんてことない。よくある光景だ。
だが、その煙の元へジッと視線を向けている佐藤の姿になんだか違和感を感じた。
俺はおもむろに彼女の隣へと勢いよく腰を落とすと、買ってきたお茶のペットボトルを手渡す。

「ありがとう、あ、お金……」

「あぁ、いいよ、これくらい。そんなことより、なにジッと見てたんだ?」

「ううん、別に深い意味はないけど、煙草ってどんな味がするのかな?って。継父も吸う人だったから。特に母が亡くなってからは量も増えて。ストレスや日々の嫌なこと全部忘れられるなら、私も吸ってみたいかなって……」

「は?止めとけよ。お前、そんなに似合わねぇし、それにまだ学生だろ!?身体にも悪いし……とにかく!俺は反対だからな!」

「だから、冗談だって」

「冗談で済むかよ!そんなことに興味持つくらいなら、もっと他のことに興味持てば良いだろ!?」

ついムキになってついつい声が大きく張り上がってしまう。俺のその様子に隣に座っていた佐藤の表情が固まった。
あ、しまった……と思った時にはもう遅い。こういう説教じみたことを他人に言われるのは、佐藤はきっと一番嫌がるはず。自分自身の内側にグツと踏み込まれて物を言われるのが苦手なのは、重々承知していた。そのはずなのに……。
とっさに気まずさを隠すように、黙り込んだ。

「なにそれ……」

ふいに佐藤の小さく呟く声が耳に届く。その声があまりに悲しさを纏っていたものだから、一瞬泣いてしまったのかと思った。

「清田くんも、そういうこと言うんだね……」

「え?」

「私は私なのに……誰もそのままの私を受け入れてくれない……」

「いや、ちげぇよ!俺はただ……」

「もういい。清田くんに私の何が解るの!?」

冷めた目。でも言葉は感情的に……。彼女が見せたそのアンバランスさに、悪い意味でドキリとした。
佐藤はそのまま何も言わずにベンチから素早く立ち上がり、その場から走り出してしまう。俺が一瞬気後れしてしまったせいで、すぐさまそれを制止することが出来なかった。
慌てて開いていたペットボトルの蓋を閉めて、彼女の後を追いかけようとしたけれど、ここは休日の水族館。多くの来客で埋め尽くされていたせいで簡単に見失ってしまった。

「くそっ!」

思わず悔恨の言葉が口を衝いて出てしまう。
しまった……言い過ぎた……。
けれど、もう遅い。吐いてしまった言葉は戻ってはこないし、現に彼女はもう俺の隣にはいない。
ざわざわとした喧騒の中、俺はただただその場に立ち尽くすことしか出来なかった。





翌日、いつものように朝練を経て、教室に入り自分の席に座ると、なんだかいつもよりも身体が重く感じた。朝、起きた時はさほどでもなかったように思ったが、なんだかゾクゾクと寒気もする。風邪でも引いてしまったのだろうかと自覚した頃にはもう、時は遅かった。
一限目、二限目と時間が経過していけばいくほど、ガンガンと鈍く脈打つように頭痛も出てきて、体温計で測らなくても発熱してしまっているのが自分自身でも明らかに解るほどになっていた。
教壇の前で授業をしている担当教諭の声も遠く、まともな姿勢で椅子に座っているのさえ困難に感じ始めた。ゆっくりと顔を机にうつ伏せて、全ての音をシャットアウトさせる。

「……い!……た、清田!……先生!!」

隣に席に座ってるクラスメイトが名前を呼んでいるような気はするけど、それにすらまともに反応が出来ない。
はぁはぁと、荒くゆっくりな呼吸が口から吐き出されるだけ。

「おい!大丈夫か……?」

「……あ?あぁ……大丈夫、大丈夫……ちょ、保健室……行って……」

いよいよマズそうだ。クラスメイトの呼びかけにもかろうじて返答することは出来ているが、「大丈夫か?」と問われ、「大丈夫だ」と、ただ答えただけ。反射的で無意識のもの。
保健室へ向かおうと、自力で立ち上がるもフラフラと足元がおぼつかない。地面から数センチ浮いてるみたいに足を踏み出すも力が入らない。

「誰か、付き添い!保健委員!」

先生が近寄ってきて、そう声を張り上げている。
大丈夫だっつの、子供じゃねぇんだ。保健室くらい一人で行ける。
そう心の中で呟いた瞬間、聞き慣れた声が耳にはっきりと届いた。それは愛おしくてやまない、彼女の――佐藤の声だった。


「あ……私が……あの……連れて行きます」

この教室の中に居た誰もが、耳と目を疑ったに違いない。
まさか佐藤が、こんなことを自ら申し出るわけがない。誰とも親しくしない。誰とも関わりを持とうとしない。そんな彼女が……。
俺も最初は他の奴らと同様、驚きの感情のほうが先に沸いて出てきてしまったが、この場で強い意志を持って申し出てくれた彼女の行動力が、単純にすごく嬉しくなった。それ故に思わずニヤッとほくそ笑んでしまうのを止められない。

「清田くんは、私が連れて行きます」

有無を言わせないほどの強い眼差し。そうなんだよ。彼女は控えめなだけで、実はとても頑固で意思が強い。それは痛いほど知っている。
クラスの奴らがポカンと呆気にとられている様子がなんだか面白いのと、そんな佐藤の一面を俺だけが知っているという優越感に浸っていた。
俺のすぐ傍まで駆け寄ってきた佐藤は、「大丈夫?平気?」と、優しく心配そうに問いながら、俺の片腕をそっと手に取る。

「悪いな」

「ううん……」

「良いのかよ?」

「良いの」

そんな簡素的な会話。
けれど、この掛け合いの中にはとてもとても深い意味が込められているのは、俺たちにしかわからない。
そのまま教室からシンと静まり返る廊下へ出て、二人並んで保健室を目指す。
ゆっくりとした足取り。至近距離で触れ合う身体。
だけど昨日の水族館での出来事はもちろん忘れたわけではない。少しの気まずさを感じながら俺は、「昨日は、悪かった」と、そっと呟いてみせた。

「ううん、私も感情的になってしまったし……先に帰っちゃって、ごめん」

「本当に良かったのか…?こういう目立つこと、嫌だろ?」

「……うん。けどね、清田くんだったから……清田くんだから……ここで、助けになりたいって、思ったんだ」

彼女が今まで避けていた苦手なこと。それを自ら俺の為を思って乗り越えてくれたことが、本当に嬉しかった。そして、同時に好いた女の子にこんな風に言われて嬉しくない男なんて絶対いない。
改めて自分が佐藤をとてつもなく好いているということを、まざまざと自覚させられた。

目の前はもうすぐ保健室。
保健室に入ってしまえば、もうこんな風に佐藤と至近距離で接することもなくなってしまうかもしれない。
この状況がただ単純に惜しいと、そんな風に思った。具合が悪いというのに、なんてことを考えているんだと自分でも少し可笑しい。けど、本当にそう思ったんだ。

保健室の扉の前に立ち、締め切った引き戸へと佐藤が手を掛けた瞬間、その手を制止させるようにグッと握って、彼女の顔をおもむろに覗き込んだ。

「なぁ?そろそろ俺たちの関係に名前をつけようぜ?」

至近距離でそう呟く。そして、驚いて固まる彼女の唇へとそっと触れるだけの口付けを一つ落とした。

「風邪、移ったらごめんな?好きだ」

ニヒヒと笑って見せると、「バッカじゃないの……」と、照れくさそうに真っ赤になって俯く佐藤。
俺にだけに見せる笑顔、言葉、態度、仕草、どれをとっても愛おしさしかない。
不器用な彼女の良いところは、よくわかっている。それは俺だけが知っていればいい話。大事なんだ、とてつもなく。
言いたいことは山ほどあるけれど、今はまだ黙っていよう。
これから先も、きっとたくさん彼女の新たな表情を見せてくれるに違いない。


(2018.12.8)


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