16:外した携帯ストラップ
夏休みに入った。
ほとんどの学生が長期の休みを満喫している期間、インターハイ出場が決まっている男子バスケ部は変わらず毎日学校へ来て、熱気の籠る体育館の中でハードな練習をこなす。
他の運動部の部員たちの姿も校内で見かけるが、インターハイという大きな舞台への切符を手に入れた男子バスケ部の境遇は明らかに優遇されたものだ。
体育館の使用時間は予め決められた割り振りによってさまざまな部が持ち回るが、設備の良い第一体育館を男子バスケ部が使用できる日数と時間は明らかに多く、それに対して誰も文句も言わない辺り、校内における男子バスケ部という存在が、他とは一線を画する存在だということを暗に示していた。
広島で開催されるインターハイは、もう目前に迫っている。
夏休みに入ってからは特に最終的な追い込み時期に入っていて、やれることは全てやる。あらゆることに対応できるように、戦略と攻略を重ね、どのチームと当たってもすぐさま対応が出来るように抜かりなく練習に励む。
間もなく挑む大きな舞台の前に、部員たちの士気も申し分ないくらいに上がってきていて、皆の想いが念願の全国制覇という大きな目標に向かっていた。
“常勝”を掲げ、常に勝利へ貪欲に。
私もいつの間にか、彼らの熱い想いに引っ張られるようにサポートすることが楽しいと思えるようになっていた。
確かに大変だ。何をするにも部活優先で、遊びたい時には遊べず、交友関係や私生活にも影響が出る。
頭の中は毎日部活のことばかりで、初めこそ、どうしてこんなにも雁字搦めになってまで彼らに付き合わなくてはいけないのかと思ったこともある。
マネージャーになったことを後悔したことは、一度や二度じゃない。
けれど、その多忙さも今では不思議と心地よさを感じていた。彼らの傍で支えること自体に意味を見出したような、自分の為すべきことがそこにあると安心させてくれる。
自らの捉え方一つでこうも変わるものかと、自分自身でも驚いている。
あれから、健司と距離を置いてからは一切の連絡を絶っていた。そして、それと時期を同じくして神とも距離を取るようにしている。
彼らの存在は今でも私にとっては特別だ。けれど、何もはっきりとしない以上、今までのように流されるままなんとなくやり過ごすことは出来ないと、自ら離れることを決めた。
今まで当たり前のように付き合っていた自主練も遠慮して先に帰るようにしたし、極力、神と二人きりになる時間を作らないように努める。
そんな急な変化に部員たちはきっと不思議に思ったろうが、牧さん以外は誰も何も尋ねてはこない。
牧さんだけは、「どうした?最近は残らないんだな」と、飾り気なくストレートに疑問を口にしてきたけれど、その問いに対して何も言わず、笑って誤魔化すのもそろそろ慣れた。
全体練習が終わり、後片付けの為、使ったドリンクボトルを抱えて水場のある所で一人、黙々と作業をする。
水道の蛇口をひねって勢いよく水が流れ落ちたと同時に、背後から「これもお願い」と、声を掛けられた。
首だけで振り返ると、そこにはドリンクボトルを手に持った神が一人で立っていた。
どきりと心臓がひと跳ねしてしまう。こんな些細なことで動揺している姿を見られたくなくて、わざと平静を装うように素っ気なく応えてみる。
「あ、うん。そこに置いておいて」
「うん、ありがとう」
たったそれだけの言葉を交わし、私は尚も作業の手を休めることはしない。
なのに、背後に居る神は全くその場を離れようとしなくて、彼の視線が背中に居たいくらいに刺さっているのが雰囲気で解ってしまう。居た堪れない。
今、口を開くと装っていたポーカーフェイスがいとも簡単に取り壊されてしまいそうで、怖かった。
「……今日も早く帰るの?」
「うん……」
「そっか……ねぇ、どうして俺を避けてるの?理由、聞かせてくれない?」
どんな感情を乗せて神がその問いを私にぶつけてきたのかは、解らなかった。
思わず息を呑み、手が止まる。
蛇口から流れ出て、排水口へ向かってゆく水の音だけが緊張した空気の中に響き渡る。
なんと答えるべきなのか、頭の中の考えを巡らせて返す言葉を探していると、タイミングが良いのか悪いのか、ジャージのポケットへ忍ばせておいた携帯電話のバイブレーションが震えた。短く鳴ったその着信は、メールの受信を知らせるものだ。
その場の緊迫した空気から逃げるように、ポケットの中の携帯電話へ手を伸ばしてメッセージを確認すると、送り主は母親だった。
なんてことのない内容。『今日は何時に帰ってくるの?』と、ただの家族間の確認事項。
けれど、それをさも重大事項かのように、神への言い訳として利用してしまう私は、本当にズルイ。
「あ、今、お母さんから早く帰ってこい、ってメール来ちゃった。用事があるみたい」
「ストラップ……」
「え」
「外したの?」
しまった、と思った。けれど、もう遅い。
あの日――神とお揃いで買ったストラップは外して家のデスクの引き出しにしまったままだ。うっかりとしていた。
その存在が無い事に、素早く目を付けられてしまった。上手い言い訳など思いつくはずもなく、ありのままを伝えることにした。
「あ、うん、この間ね、外したんだ」
「どうして?」
どうして――。
神も素直な疑問を真っ向からストレートにぶつけてくる。もう逃げ場はない。
二人きりしか居ないこの緊張した空間で、私を問い質す神の口調は優しいものだったけれど見えない何かで縛られているようなそんな感覚がした。
「それは……」
「言って欲しい、ちゃんと俺の方、見て」
神の言葉を聞いた私は、深めの溜息をひとつ吐いて、いよいよ腹を括った。
水が流れ続ける蛇口をキュッと閉めて、彼の方へと身体の向きを変えてみると、少し険しい表情をした神が何かを見定めるように私の顔をじっと見つめてくる。
その視線の強さに一瞬たじろいだが、逃れられないのなら諦めるしかない。
私は観念したかのように、そっと口を開いた。
「……もう、やめた。流されるのは、やめたの」
少しの沈黙。
私の言葉を受けて驚いたように黙ったままだった神が、ふっと表情を崩した。
その真意が解らないまま、今度が私が困惑し驚く番となる。
「それは……俺にもチャンスがあるってことで良い?」
「えっ……」
「いや、いいや。今ここで詳しくは追及しないでおくよ」
「……」
「けど、これだけは覚えておいて。俺は変わらない。佐藤への気持ちは変わらないから」
神は続けて、「ボトル、お願いね」と言い残し、そのままゆっくりとした足取りで私の元から去って行った。
姿勢のよい凛とした立ち姿の彼の背が去ってゆくのを見つめながら、相も変わらず私の心が浮足立ってしまっているのが少し憎らしい。
流されまいと、全てをリセットすると決めた途端にこれだ。
これだから神と二人きりになるのが嫌だったんだ。こうしていとも簡単に私の心を乱してくる神の言動に、本音では嫌だと思っていない自分がそこにいる。
練習で使用したもろもろの備品の後片付けを終わらせ、更衣室で練習着から制服へ着替えた後、ふと体育館にスコアブックを忘れた事に気が付いた。
そろそろ試合も近いし、自宅へ持ち帰って次の試合に備えておこうと思っていたのをうっかりしていた。学校から出る直前に体育館へ立ち寄ってみると、まだ部員たちが自主練を行っている音が館外からも聞こえてくる。
そっと館内へ入り、スコアブックが置いてあるであろう場所へ目を配ってみるが、何故か見当たらない。おかしいな、と不思議に思いながら辺りを見回してると、ふと見慣れない二人の女子生徒の姿が視界に入った。
身なりからしてバレー部だろうか……誰なのかは知らない。だけど清田と仲が良さそうに話している様子からおそらく一年生だろうことは分かった。
海南大附属高校には第一体育館と第二体育館があって、先ほどにも言ったように第一体育館はほぼバスケ部専用のような立ち位置にある。
第二体育館は、その他の運動部が時間割で使用を振り分けられていた。
ただ、第一体育館の体育倉庫には第二体育館よりも新しい器具等が多く納められていることもあり、普段から他の部の部員たちも頻繁に第一体育館へ出入りしていた。
きっと目の前のバレー部員の女子たちもそれで第一体育館へやって来て、たまたま近くにいた自主練中の清田と会話している、とそんなところだろう。
私はそれ以上深くは気にも留めず、体育館のどこかにあるはずのスコアブックの行方を再び追い始めた。
しばらくあちこち見て回っていると、牧さんの手の内に目当てのものの存在を発見した。じっと考えながら真面目な顔つきでスコアブックを見つめる牧さんへ声をかける。
「牧さん!それ、今日持って帰りますね」
「ん、それ?ああ、スコアか?」
「はい、そろそろ試合の準備に取り掛かろうかと思って」
「あぁ、いつも悪いな」
牧さんの手からスコアブックを受け取って鞄の中にしまい込んだ、ちょうどその時――。
「神先輩!!」
先ほどまで清田と談笑していたバレー部員の女の子の弾むような声が、耳に飛び込んできた。それがあまりにも色めき立った声色だったせいか、つい気になってそちらの方へ視線を向けると、ちょうど清田たちの近くを通りかかった神に女の子の一人が小走りで駆け寄る。
思わず隣にいた牧さんと顔を見合わせてしまうほど、そこの場だけがこの体育館の中で妙に浮いていた。
「神先輩、いつも応援しています!試合頑張って下さい!」
「あぁ、うん、ありがとう」
「あの……握手、いいですか?」
「……いいよ」
遠目からでもその女子生徒の神への好意は明らかだった。顔を高揚させ、嬉しさを抑えられないといった様子で神と握手を交わしている。
そのはしゃぎっぷりを温かく見守る者もいれば、神ばかりいい想いをしやがって、と面白くなさそうに顔を顰める者、数多くいる部員たちの反応は人によって様々だったが、私が一番に気になったのは、相変わらず完璧な笑顔で微笑む神のあの笑顔だ。
こういう場面において、神のあの笑顔は一種の才能なのではないかと思う。腹の底でどんなことを抱えていても、彼は決して表には感情を出さない――それが神宗一郎という男なのだ。
「信長の友達?」
「はい!同じクラスなんです!清田に神先輩のファンなんだって言ったら、自主練中だったら先輩と少しお話出来るかもって!」
「……そっか、一年生か。君もバレー頑張って」
「あ!はい!ありがとうございます!じゃあ私たちも帰ります!」
彼女たちはきゃっきゃっと声を弾ませながら、その場を離れ体育館を後にしていった。
その姿が見えなくなったのを確認してから、神が清田に向かって軽めのゲンコツを一つ。その場に居合わせなくても、神が何を清田に言っているのかはおおよその検討が付く。自主練と言えども、決して遊んでいるわけではない。
神のことだから、全てを解った上で彼女たちにあの対応をしたのだろうが、本当にあのポーカーフェイスには毎度のことながら感服だ。
本当の神は、そんなに優しい男じゃない
そう心の中で思った瞬間、はっとして自分の中でそれを打ち消した。
私は彼の何を知っているというのだろうか。今、とても嫌な女になった気がした。彼女たちよりも自分の方がさも神宗一郎のことを知っているような口振りで。
一気に動揺が隠せなくなり、無性に恥ずかしさが襲ってくる。この場に居てはいけないような気がして、体育館を出ようと一歩踏み出したその時に、突然牧さんからの問いかけが耳に届いて、その場に留まった。
「なぁ……さっきのあれ、どう思った?」
「えっ……あれ、って……神の?」
「そう」
返す言葉に迷っていると、牧さんは更に言葉を続ける。
「あいつ、あんなにモテるんだな」
「えっ……」
「あんな一見虫も殺さなそうな奴でも、一番頭の回転が良くて、腹の中は真っ黒だったりするかもしれねぇのにな。女っていうのは、ああいうのが好きなんだな」
「なになに、どうしたの、牧さん」
「いや?別にどうもしないさ。ただ面白いものを見たなと思ってな。なぁ?お前もそう思うだろ?」
「……まさか、羨ましいの?牧さん」
「馬鹿言うな。俺は本命にはこっぴどく振られたただの哀しい男だろ?」
「待って……今それ言う?最低」
「はははっ」
牧さんの問いかけの真意は私には解らなかったけれど、確かに神が女子に人気なのは今に始まったことではない。
うちの部はその業績から校内でも一目置かれている存在ではあるけど、何故か色恋においてはさほどでもない。恋人がいるのは宮さんくらいで(しかも名門女子高に通う幼馴染だとか)、他の部員たちの浮いた話など聞いたことがない。
その中でも神の人気は頭一つ飛び抜けていた。主将である牧さんも人気があると思いきや、神の人気とはまたちょっと類が違うようで、表立って女の子の黄色い声援があるのは神。男性陣からの人望が厚く、ひっそりと思いを寄せられることが多いのは牧さん、といった具合だろうか。清田に関しては、どうやらいつもお友達止まり。武藤は意気込んで出かけた合コンで撃沈。女子とほとんど喋らない高砂。
そんな彼らと臨むインターハイの大舞台まで、あと数日だ。(2021.1.20 Revised)[ 1/1 ] [←prev] [next]