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大きく深呼吸。
緊張で震える手を強く握りしめる。

目の前を通り過ぎるおそらく上級生だと思われる人たちがこちらに視線を送っている気がする。なぜ気がするのかというと、ネクタイを確認するような余裕も彼らの視線を確認する勇気もわたしにはないからだ。

3年A組のクラスの前で深呼吸を繰り返すこと、およそ3分。入る勇気がなかなか湧いてこない。だれかが声をかけてくれるかも、という淡い期待だけは浮かんでくる。
しかし、通りかかる人はみんなこちらに一瞥を向けるだけでそれ以上の施しをくれることはなかった。

腕時計を確認すると、あと十分ほどで昼休みが終わることがわかった。だいぶ時間を消費してしまったらしい。

意を決して三年A組の教室をちらりと覗く。
……っ。10秒も待たずして首を引っ込めるわたし。たくさん人はいたけど、そこに瀬名先輩がいるかどうかなんて確認できなかった。

「君って二人目の転校生ちゃんだよね。こんなところで何してるの?だれか探してる?」
「!!」

突然かけられた言葉に、心臓が飛び上がる。あまりにも近くで聞こえたので、それが自分に向けられたものだとすぐにわかった。

「あ、あの……せな……」
「せなっち?珍しいね。ちょっと待ってて」

うまく話せなくてもごもごしたわたしを気にもとめず、金髪の彼が教室に入っていく。わたしは壁にしがみついて、教室の中をおそるおそるうかがった。

「せなっち、女の子のお客さんだよ」
「はあ?」

彼が瀬名先輩と会話している姿をじっと観察する。こちらに向かって二人の視線が集まって、わたしは肩を震わせた。そのままゆっくり扉の外へとフェードアウトする。

「名前」

ひっ。
小さな悲鳴を飲み込んで、視線を上げると、瀬名先輩が目の前にいた。瞳の鋭さがいつもの十倍ぐらい増している。こわすぎる。

廊下を通り過ぎる人や教室の中からの視線が痛いくらい刺さった。

「なに、こんなところまで来て」

早く用件を言え、ということだろうか。
急かされているようにも感じるし、迷惑だと言われているようにも感じる。

「こ、ここここれ、椚先生から、です」

吃りすぎて鶏みたいになってしまった。
手もぶるぶる震えたし、顔が熱い。なによりあの瀬名先輩が引いている。

「ありがとう。……それより大丈夫なの、あんた?顔色悪いけど」

瀬名先輩に心配されるなんて、よっぽど取り乱してしまったらしい。とりあえず小刻みに首を縦に振っておく。わたしは大丈夫なので命は取らないでください。

何はともあれ書類は確かに瀬名先輩に手渡した。
任務完了だ。

「やあ、名前ちゃん。うちのクラスに来るなんて珍しいね」

この声は、保健室の悪魔!
瀬名先輩の背後から聞こえた声に、わたしは一歩後ずさる。悪魔は呑気に笑顔でこちらに手を振っていた。

この人、瀬名先輩と同じクラスだったんだ。なんて危険なクラスなんだろう。この学院でもっとも危ない場所だと言っても過言ではない。こんなところ、五分もいられない自信がある。早く立ち去ろう。

「わ、わたし、失礼しま、す」

壊れたロボットみたいに、ぎこちない足踏みでその場を後にしようとすると、

「名前〜!!」

ぴゅーん!と効果音がつきそうな勢いで目の前に月永先輩が現れた。た、台風かと思った。

「やっぱりいた!名前の足音がしたから来てみたんだけど、おまえこんなところで何してるんだ?」

さっさとこの教室を後にしようとしていたわたしは、突然現れた月永先輩のせいで前に進めなくなる。背後には鬼と悪魔。目の前には宇宙人?

「レオちん〜!次は移動教室だりょっ」

月永先輩の後を追ってやってきた見知らぬ先輩が、息を切らして立ち止まる。どうやら月永先輩を捕まえに来たみたい。わたしの顔を見てちょっと戸惑っている。

そうだ、もうお昼休みが終わってしまう。わたしの心臓も止まってしまいそうだし、今日は限界だ。こんなところで鬼と宇宙人のサンドイッチになってたまるか。

「し、しつれいします」

ぺこっとお辞儀をして月永先輩の前を通り過ぎる。

「待って」

そのとき、わたしを引き止めた声はだれだろう。
振り返る余裕なんてなかった。
とにかくすべての視線をかいくぐって、この場から遠ざかりたい一心で。

まるで12時の鐘が鳴ったあとのシンデレラみたいに、わたしは三年生の教室を後にした。