念のためもう少し圧力を加えておこうと図書館という施設において最も主に利用される閲覧室まで歩みを進めれば、空調のきいた広い空間のいろんなところから、本を探して回るいくつかの足音と紙をめくるかさついた音が微かに聞こえてくる。 なるべく人のいないスペースを選び、少人数用の丸いテーブルがいくつか設置されている場所へと促せば、彼女は無言のまま椅子に腰を下ろした。自分も向かい合う形で座り、率直に話を進めようといつもよりだいぶひそめた声を発した。 「何故あのような男に追われていたんですか」 『それは……』 彼女も同様、僕に聞こえる程度まで落とした声で言い淀む。何かやましいことでもあるのか、または言いづらい内容なのか、たまにうかがうように僕の方を見ては挙動が落ち着かない。 やはり何か事件に関わっているのか、それとも人には言えないようなことをされたのか……。 不自然にならないほどに彼女の身なりへと視線を沿わせるが、走っていたせいで髪が少し乱れているくらいで制服が汚れていたり無理矢理脱がされたような形跡はない。 もしや前者なのかと彼女を見つめる目に僅かな警戒を滲ませると、長いまつ毛がそっと上を向いた。 『呆れたり、しませんか』 「え?」 ずいぶんといきなりだったが、何が、と訊く前にとりあえず頷いておく。話してくれる気が多少なりともあるのなら、彼女の気が変わらないうちにさっさと聞き出しておきたい。 膝の上で組んだ手に視線を落として、少女はぽつりぽつりと話し始めた。 『その……今、中3なんですが、正十字学園っていう名門校に進学を考えてて』 「正十字学園……」 まさか初っぱなから自分と同じ進路先の名前が出てくるとは思わなくて、正直驚いた。もしかしてこの子も……と学園にある祓魔塾の存在を意識してしまったのだが、そもそもあの学園自体は普通の高校なのだ。なにもそこへ行く者がみんな祓魔師を目指しているわけではない。考えすぎかと思い直してまた続けられる話に耳を傾けた。 『入試のテストもそうですけど、とりあえず内申点の方を今から少しでも向上していこうと思ってて……。でも今日寝坊しちゃいまして』 寝坊、というわりにはだいぶ遅い時間になってしまっていたようだが、しかしながらその心がけとても素晴らしいと思う。兄さんにも少しは見習ってほしいくらいだ。 だが、こんな時間まで寝坊したことに関して呆れないかとわざわざ確認してきたわけではないだろう。もっと他に、彼女が隠したがっていたことがあるはずだ。 もっと、別の……。射抜いた視線に、その先にいる彼女は気づかない。 『遅刻と欠席ではだいぶ違うからって先生が言ってたんで、せめて6限までには学校に行こうと思って家を出たんですが、駅の近くであの男に絡まれて……』 そこまで話すと、彼女はまた言い淀むように言葉を区切ってさらに視線を落としてしまった。 やはりこの先に、彼女に話をさせづらくしている何かがあるのだろう。男に絡まれて、そして何があった。いったい何をされた。 続きを待って、無意識に体に力が入った。 『かなりしつこくて、その……ちょっと頭にきて、股間を、蹴り上げたら男が悶絶してしゃがみ込んだんで、無視してそのまま学校に行こうとしたら怒って追いかけてきて』 僅かな沈黙の後拙く語られた続きに、思わず拍子抜けしてしまう。すぐに反応を見せない僕に、彼女の不安げな目線が向いた。 なるほど、何かされたのではなく“してしまった”というわけだったのか。最初に彼女が呆れないかと訊いてきた本当の理由が、ようやくわかった。 僕は何をそんなに緊張していたのか。つまりはしつこいナンパに中途半端な制裁をくわえてしまった少女が怒った男に追いかけられただけだったのだ。自分が先走りすぎていたことが恥ずかしくなる。 そっとため息を吐いて丸いテーブルに肘をついた。組んだ指越しに彼女を見つめる。 「で、逃げていたと」 『はい。まさかナイフ出してくるとは思わなくて……。もっと最初の時点できっちり倒すべきだったんですよね』 「いや、それは……」 ずれてる。一番最初に思ったのは確か、そんな感じのことだったと思う。まだ全然他人行儀な敬語を使っていた彼女は、下手すれば笑顔を見せることすら滅多になかったようなこの頃でさえ、あのどこかずれた思考を健在させていたのだった。 だいたい、護身術でも習っているなら話は別だろうけれど、一般の非力な女子中学生に大の大人の男を倒せるわけがない。その点からは、焦っての咄嗟の行動だったとしても、ひとまず逃げたのは正解だといえる。それに何故学校の方に逃げなかったのかという問いを今したなら、きっと彼女は言われて初めて気づいたと目を丸くするだろうから、結局僕が助けた結果だけを見てよしとしよう。 「じゃあ今度は僕が話しますね」 『あ、はい』 「率直に、僕は祓魔師です。あなた方に遭遇した時はちょうど任務の帰りでした」 拳銃の違法所持者だと思われては困る。簡潔に要点だけを話すと、彼女は下がり気味だった顔をパッと上げて目を丸くした。ここに来てようやく見た彼女の人間らしい表情に、少しばかり疑問を抱きながらも口は閉ざさずに全て伝える。 「来る途中も言いましたが、あの男に撃ったのは栄養剤。もちろん撃たれた時の衝撃はあったでしょうが怪我はたいしたことはありません。男はショックで気絶しただけなので安心してください」 『あのっ』 「なにか?」 場所柄抑えていながらもどこか必死な彼女の声が間髪入れずに飛んできた。 様子の変化から、何か言いたいことがあるんじゃないかと思っていたし、自分の話もちょうど終わったところなので流れのままに促す。あえて訊かない理由もないだろう。 覗き込んだ彼女の瞳は羞恥と躊躇いを含んで僅かに揺らいでいた。言うべきか言わないべきか、今さら迷っているような、そんな色をしている。 だが膝に置いた手でスカートをぎゅっと握り締めたかと思うと、すぐに雑念の消え失せた瞳が真っ直ぐに見据えてきた。 『あた……わ、私、祓魔師になるために正十字学園に行くんです。学園にある祓魔塾というところに通うために。だから、その、先輩ですね』 「……一応、僕も今中学3年ですよ。同じく正十字学園に受験しようと思っています」 祓魔師の先輩だと言っているのはわかったけれど、その裏にはなんだか別の意味があるように聞こえて、つい余計なことまで話していた。 え、とまた驚いた表情を見せる彼女の考えが手に取るようにわかってしまい、なんだか少しむなしくなる。ようはつまり、こう言いたいんだろう。 『高校生かと思った……』 「よく言われます」 やはりそうだ。背丈も同年代の中では高い方だし、大人から大人びていると言われることも少なくなかった。 これから約1年後、そろそろ聞き飽きてきた頃にはきっと言われなくなるはずだが、今度は大学生かと思ったと言われてしまうのだろうか。 『ここには、よく来るんですか?』 「まぁ、たまには」 例外でなく僕を高校生と間違えた彼女が、ふいにそんなことを訊いてきた。 そこまで頻繁に通っていたわけではないが全く来ないというわけでもなかったから、そういった言葉で形容してみる。 すると彼女は、まだお互い名前も知らないような僕に唐突にこんなことを言ってきた。 『じゃあその“たまに”を私にくれませんか?』 「え?」 『本当に、たまにでいいんです。ここで一緒に勉強会しましょう。ていうか勉強教えてください』 たまたま同じ学校を目指していたからなのか、それともまた別になんらかの勘でも働いたのかは知らないが、まさかそんな頼まれ事をされるとは思ってもみなかった。しかも、男に追いかけられているところを助けただけの少女に、だ。 しかしながら僕は、今日偶然出会い今この場での話が終われば別れてお互い進路変更もなく無事に高校へ受からない限りもう関わる機会もないであろう少女の頼みを断ることはしなかった。 何故この時了承したのかは自分でもわからないし、ただの気まぐれだと決めつけてしまえばそれも確かにそうなのだけれど。 1年前の出会い、下。 (へぇ。それでその後は?) (言われなくても、それも今から話すよ) back |