*世界も二つに割れればいいのに の続き





主は遅れてやって来た俺を一度だけちらりと見ると、素知らぬ顔のまますぐに視線を逸らした。
俺がこの場に遅れて来たことなど主にとっては取るに足らない些末なことだ。
そんなことは分かっているのに、逸らされた視線に無意味に胸が痛くなった。



「今日も雨だなぁ」

主が現代に帰ってから数日、本丸にはずっと雨が降り続けていた。
主によって保たれている本丸は、主が本丸から離れれば離れるほど不安定になっていく。
昨日からはその激しさをさらに増し、曇り空とも言えない暗雲が立ち込め、さっきから稲光が雲の隙間をたまにちかちかと光らせていた。
雨音は最早滝の中にでもいるかのような轟音で、縁側に座り膝を濡らしながら空を見上げる俺の後ろで誰かが囁いた声がかろうじて耳へと届いた。
相槌を打とうかと思ったが、瞬間、空一面が突然眩く光り、同時に、耳をつんざくような轟音が鳴り響いたから、俺はそのまま口を噤んだ。
縁側に腰掛けているのもそろそろ限界に近い。
視線の先にあるのは主が現代へと向かった赤い鳥居のみで、そこが青く光り、いつものように自分のいない本丸の状況など知り得ない主が太陽を連れて呑気に帰ってくるのをもうずっと待っている。
吐いた息が白く溶ける前に強い雨にかき消されたのをぼんやりと目で追った。
視界までも雨に遮られて赤い鳥居が霞んで見える。
屋根など意味のないほど勢いよく水飛沫が体を濡らし始めていた。
背後から誰かの気配が消えたのを見計らってから、俺はやっと、重い腰を上げた。

体は冷たく冷え切り、服は水浸しで歩いたところには水の跡がついていた。
赤い鳥居の見える部屋にのっそりと入り、明かりもつけずにそのまま横になる。
絶え間なく降りしきる雨は一向に止む気配もなく、むしろ雷の音はどんどん激しさを増していた。
片腕を枕にし、ずぶ濡れの体をそのままに俺は細い息を長く吐いた。
主はいつ帰ってくるのか。
そればかりが気になる。
こんな暗闇の世界に、もう主は帰って来ないのではないか。
主が帰って来ないのであればここは永年、きっと気の遠くなるような年月、このままずっと大嵐のままなのだろう。
「そんなことが不安なのか」と鶴丸に笑われたが、暗闇に安置されたことのない俺なんてそんなもんだ。
俺はそっと目を閉じた。
厚い雲も大きな音で降り続ける雨も心臓を脅かす雷も、すべてを感じたくなどなかったが、主が帰って来ることをひたすらに願った。

赤い鳥居は主が帰って来た時淡い光を放ち、恐ろしいもので途端に嘘のような晴天が戻ってくる。
だから目を瞑っていてもきっとすぐに分かるだろうと、意識は残したまま隠れるように身を縮こまらせた。
寒いなぁ、と、思ったのが最後だった。



ふと、暖かい柔らかさが遠慮がちに俺の髪を撫でた。
雨だろうか、ここまで入って来たのか、そう脳裏に浮かんだが、あまりの暖かさに違和感を感じて片目をゆっくりと開ける。

「こんなとこで寝ちゃだめだよ」

視界に飛び込んできたのは待ち望んでいた主で、けれど、主の後ろに映る空はいまだ暗闇のまま、眠る前と変わらない雷鳴も鳴り響いていた。
俺は驚きのあまり息を飲んだ。
反射的に体を起こそうとすると、主が困ったように笑いながら俺の頭に大きな布を被せた。

「びしょびしょだね」
「……か、えってきてたのか」
「うん。さっき」

久々に声を出したからか上手く言葉が紡げず、掠れた声が吃りながら主へと呟かれる。
主はいつものようにのんびりとそう言い、俺の頭をその布でごしごしと拭いてくれた。

「……気付かなかった」

いつも、現代への行き来で赤い鳥居をくぐる瞬間、淡い青の光が本丸中を大きく照らしていた。
それは自然下では絶対に生まれない程美しい青で、ひどく強い光だった。
だから、主が帰って来たのにその光がなかったことに、俺は少なからず動揺した。

「真夜中だしね」

言われた言葉に納得しかけたが、そんなものお構いなしに青い光はいつもあったはずなのに。
外の大嵐も収まる気配もなく、一際大きな光が主の横顔を眩く照らした。

「雷、すごいねぇ」

主は他人事のようにそう言って、尚も俺の髪を拭き続けた。
柔らかな布はこの時代には手に入らないような上等なもので、きっと現代から持ってきた代物なのだろう。
顔や首まで丹念に拭かれる心地は、存外心地よかった。

「……もうずっと降ってる」
「そうなの?こんな荒天初めて見た」

主は自分の力を理解していない。
あんたがこの本丸を創造しているのだからこの雨もあんたのせいでしかないはずなのに。
でも、けれど、いつもは現代から帰ってくれば大雨など嘘のように晴れ渡っていたが今日は違う。
赤い鳥居も光らなかったし雨も止まない。
この本丸が主の創造したモノなのだから、当たり前に、この止まない大嵐でさえも、主のモノでしかない。

暗闇の中雷の光に照らされた主の目には、雨ではない水が微かに煌めいた。

「……泣いてんのか」

自身の手を主の頬へ伸ばした。
主は逃げるでもなく黙って俺に触れられた。
柔らかな肌は異様に生暖かく、触った途端に指先がじわりと熱くなったのを感じた。

「……えぇ?」

主は少し驚いたように笑って、それから小さく、泣き出しそうな声で呟いた。

「……泣いては、ないよ。今は」

同時に、主はふわりと俺を抱き締めた。
生暖かく柔らかい女の体が柔らかな布ごしに俺の固い戦装束に触れて、カシャ、と嫌な音が鳴った。
肩に埋められた口元からはぞわりとするような熱い吐息が吹きかけられる。
気を抜くと笑いそうになったが、俺はなんとかそれに耐えた。
いい匂い、としか形容し得ない匂いが鼻いっぱいに広がって、触れば折れてしまいそうな貧弱な体が全てを預けてきた。

「……疲れた」

主はずぶ濡れの俺に抱きついたままそう言った。

「……風呂、沸かしてやろうか」
「ううん。このまま、眠りたい」

俺が寝ていた畳はじわりと濡れて湿っていた。
布越しにでも分かるほどの柔らかな感覚に無意識に唾を呑み込む。
なにかあったのか、そう口から出そうになったが碌な話を聞かされそうになくて俺は不自然に唸った。

「あー……、このまま?」

現代へ戻る前の主の、あの切羽詰まった顔が思い浮かぶ。
手紙の宛名の男に会えたのか、そいつとどうなったのか、聞きたいことはたくさんあったが素直に聞いてやれそうにもない。

「このまま。寝れそう」

既にぼんやりとした声で主が言った。
濡れたままの硬い俺の胸に身体を預け、居心地の良い場所を探すようにもぞもぞと腰や足を動かしている。
すぐに良い場所を見つけたのか、主は大きくため息をつくとそれ以降しん、と動かなくなった。

「寝れねぇだろ、このままは」
「……うん」
「風呂沸かしてやるから」
「……うん」
「離れてくれねぇと、あんたまで濡れる」
「……、あのね」

湖に捨てたあの手紙が手元でバラバラになった映像が脳裏にちり、と思い出された。
一呼吸置いてからゆっくりと俺を見上げた主は、もう泣いていないはずなのに絶対にまだ、泣いていた。
いつもの腑抜けた笑顔で俺を見つめた主が、雷の光に眩く照らされ朧気に形を成す。
思わず強く掴んでしまった主の肩はやはり小さく震えていた。

「……フラれちゃった」

へへ、と主は笑った。
寂しそうな言葉に、望んでいたはずのことなのに胸がずきりと大きく軋んで、嫌な汗が頬を伝った。

雨は止まない。
更に強く荒れ狂う庭が恐ろしい程の強風と滝のような雨と響き続ける雷鳴に、眩しいはずなのに霞んで見えた。

何の言葉を言おうか迷って、けれどなぜか手放しに喜ぶことも出来なくて、冷たい手で主の頭を撫でてやった。

「……あんた、可愛いのになぁ」

胸にすっぽりと収まるこの存在に、愛しいと言われてどうして拒否することができるのか理解できない。
俺なら手放しで受け入れてやるのに。
そう思うだけで絶対にその想いを吐露させてはいけない。
喉にこみ上げる痛みが強くなったが、主の細い髪を梳きながら努めて静かに、そう言った。

「……えぇ?そんな風に言ってくれるの?」

主は俺の首に顔を埋めたまま照れたように笑った。
それから一層俺の体にすり寄って、雷の音にかき消されそうなほどの小さな声で、ぽつりと、残酷なことを呟いた。

「同田貫みたいに優しい人を好きになればよかった」

言葉が風と雨と雷の音に混じって消える。
湖に捨てた手紙のように、誰かに壊してもらった方が遥かに楽かもしれない。
胸の痛みに気づかないフリをして、俺は柔らかな身体をなるべく優しく、俺から引き離した。

「あんたは俺みたいなのを絶対好きになんかならねぇだろ」

主が俺のことを見つめているのに気付いたが俺は目を合わせないようにして立ち上がり、いまだ頭にかかる上等な布で自身の頭を強く、擦った。

「風呂、沸かしてきてやる」
「えぇ、寝たいのに」

主のぼやきを無視して、俺は布で顔を隠し不自然を悟られまいと努めてゆっくり、その部屋を後にした。
縁側の屋根など意味のないほど廊下は雨に濡れて外のように水浸しで、ここから風呂まで主を濡らさずに連れて行く方法を考えながら空を眺める。
先ほどよりは風も雷も目に見えて落ち着いていて、雨の勢いもじわじわと弱まっていた。
何が主の心に作用したのか分からず、けれどしとしとと寧ろ静かに降る雨に俺は無表情のまま驚いた。
案外明日にはけろりと晴れそうだなぁとぼんやり思って、ずぶ濡れの廊下に溜まる水溜りに思い切り、右足を突っ込んでやった。




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