*cider の続き

*暗い話。幸せな話ではありません。





なんでもよかった。
斬れさえすれば、姿形が変わったとしても斬れさえすれば、別になんでもよかったしどうでもよかった。
うるさい心音とか生暖かい体温とか瞬きの煩わしさも息をする面倒臭さも、刀である時と同じかそれ以上の、あの斬る刹那の喜びと刀である意義を保てていれば。
なんでもよかった。

「傷だらけだ」

一番初めに聞こえたのは男の声。
抑揚のない声が脳に響く気持ち悪さに頭がぐらりと傾いた気がしたが、伸びた足を地面に踏み締めて重力を受け流した。
気持ち悪さはすぐに消え、ぼやける視界に映るのはひどく傷だらけの俺の手だった。

「名乗れるか?」

その男の声が続けて言った。
朧気な意識体でしかなかった俺はこの日初めて人の体を手にし、この日初めて、声を出した。

「……俺は、」

やっと慣れた視界に映ったのは、俺に声をかけたひどく美しい刀。
それと、俺を見下ろすような高座から、涙を流して俺を見つめる女だった。





あの日なぜ、主である目の前のこの女が泣いていたのかは今も分からない。

「これはさぁ、隠れてしなきゃいけねぇもんなのか」

主はたまに何の前触れもなく、廊下ですれ違う俺の手を引いて誰もいない部屋に引き入れ、俺に抱きつくことがあった。
部屋の奥の死角に隠れるようにして抱きつくと俺の胸にその低い鼻を押し付ける。
廊下からは誰かの声が主を探していたり、笑い合う誰かの声が部屋の前を通り過ぎたり。
けれど主は息を止めたかのように微動だにせず、数分間、時に数十分以上、俺に旋毛だけを見せつけた。

なんでもよかった。
斬れさえすれば、他はどうでよかった。
だから初めて、無言のままその暖かい手が俺の汚れた硬い手を引き、静かな狭い部屋に連れて行かれた時も俺はただ黙っていた。
薄暗がりの中俺を少しの間見つめていた主は、不意に俺の背中に手を回し、俺の胸に息が止まるのではないかと思うほど顔を密着させ、強い力で俺に鼻を押し付けた。
あの日は何がどうなっているのか全くわからず、主が「ごめん」という言葉と共に俺から離れるまで、俺の腕は不自然に空中に浮いたまま。
けれどあれからもう幾日も経っている。
だから今日この日、俺は押し付けられた冷たい壁の感触を背中に受けつつ、持て余した両手を必死に動かさないように意識しながら努めて何の興味もないように、じわじわと大きくなってしまった疑問を口にした。

胸に押し付けられる柔らかい鼻を小さく動かした主は、ぐりぐりと尚も俺を壁に押し付けながら「んん」とくぐもった呻きを発した。

「……え?」

不意に主が俺の胸から顔を離し、至近距離から俺を見上げた。
熱い息が布のない腹の辺りによく吹き付けられていたから、それくらい苦しい思いと一緒に俺の体に密着していたらしい。
途端無意識にしっかりと合った主の瞳は、苦しさからなのか僅かに涙目になっていた。

「……いや、なんでいっつも、隠れてこんなことを、な」

斬れさえすればどうでもいいはずだった。
それなのに口をついて出た言葉に、主はひどく驚いたようにぽかんと口を開け、暫しぼんやりと俺の顔を眺めていた。
その真っ直ぐな好奇の目にいたたまれなくなり、眉が歪んだことにも無様に唇が震えたことにも気付かない俺は思わず顔を大きく横へと背けてしまう。
見えるものはやはり薄暗い寂しい部屋の風景で、聞こえる音は風の音と誰かの遠い笑い声だけ。
いまだ壁に押し付けられたままのこの状況から逃げ出す気は毛頭ないが、逃げ出さない理由は、斬ること以外どうでもいいから、とそれだけではなくなっていた。

「……皆の前でするのは、恥ずかしい。から」

小さな声で主が言った。
恐る恐る主の方へと視線を向けると、真っ赤になった顔が嬉しそうに俺に微笑んでいる。
その笑顔の理由が分からずぎょっとしてしまったが、変な汗が頬を伝ったことに気付いたから俺は慌てて言葉を探した。

「……恥ずかしい、って、なぁ。俺は刀なんだから、んな顔押し付けても気持ちのいいもんでもねぇだろうに」
「気持ちよくはない、ね。硬いし、たまに汗臭いし」

主が微かに笑った。
辛辣な言葉に決まりが悪くなる。

「……そんなら、尚更」
「そんなこと、今更気になったの?」

俺が初めて見た主は俺を見て泣いていた。
その涙の意味が分からなくて、そんなこと疑問にも思わなくて、けれど今になってよく思い出してはあの涙に何かの意味を求めている。
刀であればそれだけで別になにもかもどうでも良かったのに、それ以上の喜びと、俺自身の存在意義を求めてしまっている自分が少し、気持ち悪く思えた。

主は小さな声で笑いながら、俺の背中に回していた手を不意に緩めた。
密着して僅かに汗ばんだ体に風が通り抜ける。
感じる寒気にぞわりと鳥肌が立つも、主はその手を俺の鼻先へと伸ばしていた。

「……気になってなんか、」
「気になってくれたら嬉しいよ。私がどれだけ貴方をきつく抱き締めても、今まで何も思ってくれなかったのに」
「……はぁ?こんなことされて、何を思えっつーんだ」
「何でもいい。何か、を、思って」

主の指先が俺の鼻、その僅か横をなぞった。
生暖かい感覚が細く、俺の傷痕をなぞっていく。
感覚が鈍くなっているはずの盛り上がった傷痕に、顔の内側までなぞられているような妙な違和感が駆け巡った。
それが気持ちのいいことなのか、悪いことなのか、小さく膨れ上がる傷痕をさも愛おしそうになぞる主のうっとりとした顔に、俺の思考は立ち止まる。

「……なんでそんなに嬉しそうな顔すんだ」

思ったことをそのまま口に出すと、一層嬉しそうに眉も目尻も下げて真っ赤に笑った顔で、主はぽつりと、小さく呟いた。

「おそろい、だから」

主の手が俺の硬い、汚れた手を緩く握った。
気持ちの悪い生暖かさに煩わしい心音が鳴り響く。
聞こえるうるささに必死で動かす思考が追いつかず、俺はまた、されるがままに動けなくなった。
主の両手がぎこちなく震える俺の掌をその柔らかく低い鼻の、僅か横に、優しく触れさせた。

「触って。私の傷痕」

主の白い顔の真ん中から二本、頬の下へと伸びた傷痕を、俺の中指と人差し指がたったその指先だけでなぞっていく。
触れている面積は抱きつかれている時とは比べ物にならないくらい小さいはずなのに、胸を割って出てきそうな程に俺の心臓は強く脈打った。

「……ぶにぶに、してる」
「同田貫の傷痕は、ぽこぽこしてるよ」

主は俺の掌から片手だけを離すと、再び俺の傷痕を慈しむようになぞった。
内側に響く違和感は拭えなかったが、同じくらい優しく主の傷痕に指を這わせると、主が心底嬉しそうにへへへ、と笑った。

何がそんなに嬉しいのだろう。
この傷をつけたのは誰なんだろう。
なぜ俺の心臓はどんどんと早くうるさく制御できなくなり、なぜ俺は、開いたままの障子を閉めたいとそんなくだらないことを思っているのだろう。

「気持ちいい、ね」

笑う主のことを、俺が主にやられたのと同じように強く、抱き締め返したい。
その傷をつけた奴をこの体で切り刻んでやりたい。
湧き上がる様々な感情はもう、刀であった時の俺を遥か遠くに置き去りにしていた。

「……気持ちよくはねぇけどなぁ」

指の腹で撫で付けるぶにぶにとした肌触りに妙に体が喜んでいるのが分かったが、これはそう単純に言い表せるものではない。
考えるふりをして目を瞑ると、主が「私は気持ちいいもん」と楽しそうにぼやく声が耳をくすぐった。







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