天女の異能
理由は語るまでもないが、明くる日の名前は見事な寝不足だった。
包帯を替えに現れた善法寺氏が、背後に控えた不動明王を引っ込め、思わず気の毒がるほどの顔色……とでも言えば伝わるだろうか。
とはいえ、包帯に付着した土汚れに関してはキッチリ絞められたので、やはり歪みない男、善法寺伊作氏なのであった。

***

さて、今日の名前には珍しく目的があった。
大体いつも、波間をたゆたう海藻がごとく、周りに流されてばかりいる名前だが、今回は一味違う。自ら高波を掻き分け、道を切り開こうという意欲があるのだ。
ーー名前は、再び金楽寺の和尚と対面し、伏せられた天女の謎に迫る。

「お久しぶりです、天女様」

以前は名前が足を運んだが、今日は逆で、和尚の方から忍術学園に出向いてくれた。名前が金楽寺に行った時は、慣れぬ山道の洗礼を浴び、虫の息になるほどヘトヘトに疲れたものだが、和尚は意外と健脚らしく、うっすら汗ばむ程度の丁度良い運動レベル。それなりに重量のある、山吹色じゃないお菓子を土産に持って来る余裕すら見せた。

「わざわざご足労頂きありがとうございます……もうお分かりかもしれませんが、天女、あなたに聞かないといけないことが山程あるんです」
「ええ、そうでしょうな」

学園長の庵を借り、久しぶりに向き合った和尚は、何かを心得たような表情を浮かべていた。

「ーー和尚、以前お会いした時に天女にくれた赤い石……アレがとんだヤバ遺物だったこと隠してたでしょう。お陰でえらい目に遭いました」

まずは、小手先調べの軽いジャブ。和尚が持参した饅頭にかぶりつきながら、名前は恨めし気に相手を睨んだ。
今更、コソコソとカマをかけるような真似はしない。
何故なら和尚は、明らかな確信犯だから。
可能性として、彼が石の秘密を知らなかった場合も考慮していたが、この反応だと確実に知っていた。知ったうえで、敢えて黙っていたのだ。

「あの石に触れた瞬間、火柱が上がったんです。人が一人燃え死ぬ程度の火です。一体アレは何なんですか?」
「…………」

和尚はじっと名前の声に耳を傾け、しばらく目を伏せていた。
最初に対峙した時、彼の目には覚悟めいた光が宿っているように思ったが、今は少し違うようだ。ここに来て、惑いが生じ始める。
こんな土壇場になって、一体何を言い渋っているのかーー名前が再び急かそうとした時、ようやく和尚は、超重量級に重い口を開いたのだ。

「……アレは、天女の遺体じゃ。天女はこの世界で死ぬと、遺体を残さず石に変わる。その時石には、生前の天女が有していた異能が宿るんじゃ。今代の天女様に渡した石には、先代の異能ーー炎を操る力が宿っていた。貴女が見たという火柱は、先代の異能によって生み出された奇跡の炎じゃ」

炎じゃ……おじゃ……じゃ……ゃ……。
和尚の声に、幻聴のエコーがかかる。
……あ、ちょっとEDMっぽいかも。

「遺体が、石?」

名前は、ポカンとした。
それはもう、ポカンとしか言いようのない反応だった。あまりにもポカンとしすぎて、自分の顔が落書きみたいな絵柄になっている気がした。

「え……っと。それは、和尚ズジョークってこと?」
「違います」
「ど、どっかのくだりが説法になってたり」
「しません」
「実は縦読みが仕込まれてるとか!」
「そんなわけないのぉ」

名前は、強ばった笑顔のまま固まった。
どうしよう、持ち得る弾全てを出し切ってしまった。ろくな弾がない。

「天女……石に、なっちゃうの?」

やっとの思いで絞り出した声は、自分が意図していた音よりずっと弱々しかった。
……目に力を入れないと、今にも何かが溢れて来そうだ。
全身の力が抜け、パタリと、手のひらが畳の上に落ちる。
耳鳴りがするほどの沈黙が満ち、名前は瞬きも忘れ、呼吸を止めた。

絶望が、こんなにも静かに忍び寄るものなんて、名前は初耳だった。

***

和尚が語るに曰く、先代天女の異能は“炎”。
自由自在に火炎を操り、戦場でも非常に重宝されたという。
しかし、望まぬ形で多くの人を屠ることになった彼女は、いつしか心を病む……。異能を駆使し、命からがら城から逃げ出した天女は、紆余曲折の末、金楽寺へと落ち延びたのだ。

「……とすると、“隠しの玉”も同じか。姿を消す異能、とかだったのかな。揃いも揃って、妙に戦争で役立ちそうな能力ばかり」

和尚が帰った後も、名前は庵に残っていた。
一人になると、払拭したはずの疑心がひっそりと芽吹き始める。
誰もいないのを良いことに、思う存分鬱屈とした気持ちを味わった。

思えばこのところ、やけに異能の発露を促される。
初めは、名前の帰還を後押しするためのアドバイス……と好意的に捉えていたが、果たして本当にそうだろうか。彼らに黒い思惑が無いと、どうして一途に思い込めたのだろう。実際は、名前の異能の発現を待って、いずれ名前を亡き者にし、能力を秘めた石を奪うつもりなのでは?

天女にまつわる文献を読むと、やけに早世な天女が散見される。
環境に適応できなかったとか、自死したとか、流行病に倒れたとか、いかにもそれらしい記述で死の後付けがされているが、実際は全て他殺だったのでは?
異能が込められた石を奪うための、計画的犯行……。

「だから、タソガレドキは天女を見逃したんだ」

先の天女比べで、タソガレドキは名前を殺さなかった。
名前はそれを、自分が認められたからだと解釈した。
でも、実際は違ったのだ。
未だ異能が目覚めぬ名前は、まだ殺すには早い。
どうせ死ぬなら、力を付けさせてから石を奪う方が効率的だ。
あんな大国の重鎮が、自分の快楽やその場の気分だけで行動するはずない。名前は、己の自惚れを深く恥じ入った。

「なんだ。全部、結局そんなことじゃん……」

今まで、幾度となく差し出された救いの手が、急に違った見え方をする。一度でも疑問を抱いたが最後、全てが疑わしく感じられる。

「***ちゃん、私、どうしよう」

封印したはずの“あの子”の名前が、無意識に口から転がり出た。
彼女はもうこの世にいないのに、無性に会いたくてたまらなかった。
会いたくて、顔が見たくて、今すぐ名前を呼んでほしいのに、そんな彼女すら、もしかしたら自分の異能が目当てだったのかもしれない。そう思うと、全身が震えるほど恐ろしかった。
この世界では、死すらも逃げ道にはなり得ないのか。
足場が崩れる恐怖に慄き、身がすくみ、背筋が凍り、そしてーー

「天女様、まだこんな所に……って、ど、どうなさったんですか!?」

その時、庵の引き戸が開く。
続いて入ってきたのは、年若い黒装束の男性。
恐らく、客人に出した茶を下げに来たのだろう。直接言葉を交わした記憶はないが、相手は名前を知っている様子。こちらを見た瞬間、ギョッと目を見開いた“かの人”目掛け、名前はーー思い切り泣きついた。

「うえ〜ん!天女死にたくないよ〜!石にもなりたくない〜!もう全部嫌だ〜!!うえ〜〜〜ん!!!」
「えぇっ!?」

自分だって、どうしてこんな奇行に走ったのかは分からない。
でも、もうどうしようもなく限界だったのだ。
悲しみで胸が張り裂けそうって、きっとこんな心境を言うんだろう。
酸欠でクラクラする頭の中、名前は妙に冷静に考えた。

「ううう、うえぇ、うえ〜ん!」

完全に逃げ腰の男性にしがみ付き、逃がすまいと腕に力を込める。
男性は、一度は「ぎゃあ!」と叫んだものの、次第に名前の取り乱しっぷりが気になったのか、逃げ出そうと暴れるのをやめ、心配そうに語りかけてきた。

「て、天女様。そのご様子だと、何かあったんですね?私でよければ話を聞きますから……その、一旦離れて頂けると助かるんですが」
「うっうぅ……離したらあなた逃げますよね」
「逃げませんから」
「ていうかあなた誰……」
「ええぇ……」

彼が、頭上でがっくりしたのを感じた。

「土井半助と申します。一年は組の教科担当です。一応、前にも顔を合わせているんですが……その様子じゃ覚えていませんよね」
「知らないよ〜!」
「はいはい。そうですね、知りませんね。私はここにいますから、まずは安心して大きく息を吸いましょうね」

土井先生とやらは、一定のリズムで名前の背中を優しく叩いた。
それは、夜泣きする赤子を寝かし付ける、母親のような手付きだった。

「息を吸って、吐いて、吸って……。そうそう、上手ですよ」

久しぶりに感じた人間の温もりと、そっと隣に寄り添う優しさに、名前はまた、彼女のことを思い出した。
でも、目を閉じた時に鼻腔をくすぐるのは、彼女の甘い香りとは似ても似つかぬ、チョークの粉っぽい匂い……。
それはなんだか、夕日に照らされた放課後の教室や、部活帰りに立ち寄った深夜のコンビニや、取り合いになるほど人気だった給食のおかずを思い出させる、悲しいほどに懐かしくて、胸が苦しくなる匂いだった。

「帰りたい。帰りたいよ。私、家に帰りたい。それだけなんだよ……」

泣いた時に慰めてくれる、母の手が恋しい。
家族に隠れてゲームを買ってくれた、父の悪戯な笑みが恋しい。
あんなに億劫だった学校の宿題が、恋しくて恋しくてたまらない。

でも、現実は何もない。
どんなに耳を澄ましても、あのチャイムの音色はどこにも響かない。
掃除当番が終わるのを、階段に座って待っていてくれる友達はいない。
数学も、委員会も、部活動も、ちょっと怖い生活指導の先生も、あの頃憂鬱に思っていたもの全てが、今はこんなにもきらめいて見える!

「どうして私、こんな所にいるの。どうしたら帰れるの。私、何もしてないのに、何も出来ないのに、なんで私ばっかりこんな目にあうの」

土井先生の服にしがみついて、名前は声が枯れるほど泣いた。
土井先生は、名前が落ち着くまで、ずっとーーずっとずっと、背中を撫でてくれていた。
それがやっぱり、どこか物悲しくて、寒気がするほど懐かしかった。

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