02
「ーー!!」

今度こそ確実に目が覚めた。
ほとんど飛び跳ねるように上半身を起こす。
早鐘を鳴らす心臓を抑え、名前は浅い呼吸を繰り返した。
どうして今まで忘れていられたのだろう、あんな決定的な記憶を……。

「て、天女様……?」

夢で見た光景に囚われ、すっかり放心状態になった名前は、しばらく自身が置かれた状況に気が付かなかった。
ーーつまり、確かに荒れ狂う濁流に呑まれたはずの自分が、まったくもって五体満足のまま、どこかで見たような建物の廊下にうずくまっている、という奇妙な状況に。

「え、何で……ここ……」
「天女様、何故……これは夢か?」

名前が呆然と辺りを見回すうちに、背後から硬質な声が聞こえた。
そういえば、さっきも天女と呼ばれたような。
正直それどころじゃなかったので、割と意図的に聞き流していた。

「え、あれ、山田利吉だ……?」

緩慢に振り向くと、まさしくたった今落としました、というように、廊下に大量の書類が散乱していた。そしてその真ん中に、唖然とした顔で立ち尽くす山田利吉。
名前は目を擦り、頬を抓って痛覚の有無を確認し、現実世界に確固たる説得力を持たせた上で、畏まった態度で尋ねた。

「つかぬことを伺いますが、ここは何処ですか?」

***

驚いたことに、ここはオーマガトキ城だった。
それも、実際に名前が寝起きしていた、離れにある天女御殿の方。
どうりで見覚えがあるはずだ。何せ丸一年住んでいた場所なのだ。
この廊下も、毎日嫌という程歩き倒した思い出の廊下ではなかったか。
もっとも、思い出は思い出でも、”もう二度と思い出したくもない嫌な記憶”の略語としての”思い出”であるが……。あの頃の名前は、労基に守られることもなく、月月火水木金金のスケジューリングで働いていた。

「……あれ?何で山田利吉がオーマガトキにいるんですか?ここの仕事やめたんじゃなかったっけ?」
「それはこっちのセリフですが!?」

どうにか散らかした書類を片付けた山田利吉は、周りを気にして近くの空き部屋に名前を誘導した。
そこで改めて向き直り、上記の会話に至っている。

「私のことなどどうでもいいわ!いきなり目の前に現れたかと思えば、また妙に呑気な様子で……あなたは一体何なんですか!?」

ガッと肩を掴まれ、見たこともない形相で詰め寄られた。
日頃から理屈っぽい山田利吉には珍しく、要領を得ない質問である。
これは冷静さを欠いている証……つまり、間違いなくキレている。
うっかり余計な口を滑らせると、自分の腸で首を吊らされる羽目になりそうだ。名前は冷静かつ慎重に状況を分析し、両手を上げて投降した。

「それは確かにそう。でも、天女にも分からないんです。川に落ちたはずなのに、気付いたらここにいたんですよね」
「か、川に落ちた……!?」
「天気が悪くて、雷の音に驚いた馬に振り落とされたらしいです」
「馬に振り落とされた!?」
「山田利吉、さっきから声がうるさいんですが」
「当たり前でしょう!!こんな話を聞かされて黙ってられるか!」

鬼の形相でここ一番の大声を出され、名前は咄嗟に耳栓をした。
ーーしかし、以降も続くかに思われた叱責は思いがけず立ち消えになり、何の前触れもなしに訪れる静寂。どうしたのかな、と名前が顔を上げると同時に、目の前の面布が取り払われた。

「……お顔を、拝見してもよろしいですか」

事後承諾にも程があるが、山田利吉の思い詰めた表情を目にしてしまえば、それを咎めることも憚られた。本当に心配をかけたのだなぁと、悔恨の念に駆られる。名前は微塵も悪くないけど。

「お騒がせしてすみませんでしたね、山田利吉よ。でも結果オーライでした。どのみち天女、オーマガトキに来る最中だったのだ。すでに話は通っているので、とりあえず大間賀時公に会わせてもらえますか?あとタソガレドキにも、天女は無事だって伝えたいんですけど」

もういいでしょ、と山田利吉の手を叩き、再び面布を降ろす。
あれほど鬱陶しく感じていた面布の存在が、今はありがたく感じる。
表情さえ読まれなければ、忍者相手とて余計な詮索はされまい。

「山田利吉は今どういう立場なんですか?自由に動けないなら、別に天女一人でどうにかするので気にしないでください。大間賀時公は稀代の間抜けですが、天女の顔と声を忘れるほどの暗愚ではないと思うし」
「私は……いや、私のことなど今はどうでもよろしい!私も共に参ります。今更ですが、お怪我は本当にないんでしょうね!?」
「怪我はないけど」

山田利吉は、忙しない様子で名前の周りをグルグルと歩き回った。
名前におかしな所がないか、目視で確認しているらしいがーー先程までとは違い、頑ななまでに手を触れようとしない。
思えば本来、天女と“それ以外の人間”とは、こういう距離感だった。

「本当に大丈夫だから。これ以上人様に迷惑はかけられませんし、天女は天女で勝手にやるよ。また何かあったら連絡するので、山田利吉は仕事に戻ってくれていいよ」

言葉と共に、ちょうど眼前に現れた山田利吉の肩をそっと押しのけた。
ーー既に一度、名前は自分の身勝手を理由に、山田利吉に迷惑をかけている。彼の輝かしい忍者人生に、消えない汚点を残してしまったのだ。
下手をすると、今回も初動を間違えれば、以前の再現になりかねない。
ドヤ顔が似合う山田利吉には、どうぞ今後もエリート忍者として、鼻高々と花道だけを歩いてもらいたいと思う。……ここ泣く所!

だから、そんな決別の意味を込めて、名前は万感の思いで奴の肩を押したのだ。
もちろん、相手は鬼の体幹を持つ忍者。ちょっとやそっとの圧力に屈するタマではないことなど百も承知。でも、空気を読める日本人なら、ここで当たり前に引いてくれると思ったのだ。

ーー思ったのに。奴はぴくりとも動かぬばかりか、獄卒もかくやと思しき般若の面構えで、無垢な名前を恨めしく睨んだのだった。

「“人様“ですか。……ははっ、なるほど。天女様にとって私は、“人様“と呼び捨てる程度の有象無象に成り下がったというわけですか」

憤怒の形相から一転、心にもないニッコリ笑顔で山田利吉はのたまう。
名前は思わず息を呑んだ。

「え、は?成り下がったって何!?人様のどこが失言なの!?しかも呼び捨てどころか敬称つけてますよ!」
「いいえ、別に失言などとは」
「いやいやいや、なんか絶対怒ってるじゃないですか!」

怒ってません、と判で押したような回答を繰り返しながらも、山田利吉の不機嫌は紛れもなく顕在化している。
久しぶりに顔を合わせた山田利吉は、一段と面倒臭くなっていた。

「わ、分かりました。人様と呼んだことは撤回します。すみませんでした。でも、今のは山田利吉だけを指して言ったわけじゃないから。山田利吉を筆頭に、色んな人に迷惑をかけるのが嫌だって言ってるんです」

名前が言う“色んな人“の中には、忍術学園の人達やタソガレドキの人達、ドクタケの人達も含まれる。
名前の選択によって、他人の人生がいとも容易く左右される様を、幾度となく見てきたのだ。多少の弱腰は見逃して頂きたい。

「あ、あと念のため注釈を付け加えますが、別にあなたのことをその他諸々のモブ達と十把一絡げにしたつもりもないですからね。山田利吉のことはちゃんと個として認識していますからね」

最近は、やれ多様性だ差別だ何だとレギュレーションが厳しいので、名前も揚げ足を取られぬよう、発言には細心の注意を払う必要がある。

「いえ、すみません……私こそ大人気ない態度を……」

名前が存外早く折れたので、山田利吉もまた、一度は抜いた刀を収めるほかなくなったようだ。
奴は珍しくしおらしい顔をしたが、束の間何かを考え込んだ挙句、つかつかと名前の目の前に戻ってきた。そうして真っ直ぐ名前を見下ろし、

「……それでも、あなたに頼られたいと思うのは我儘ですか」

なんだか、捨てられた子犬を想起させる目で訴えかけてきたのである。

「わが、まま、ではないけど……天女は自立をですね」

さっきまでの傍若無人ぶりとは一転、人の良心に訴えかける眼差しだ。
自分が途方もなく悪いことをしている気分になり、名前は目を逸らしながらろくろを回すなどした。
中身のないコメントと非常に相性の良いポージングである。
……しかし、そのクリエイティブな両手さえも山田利吉に握られ、いよいよ名前は立ち行かなくなった。
山田利吉、昔はもう少し遠慮がちだったのに、ここ最近の距離の詰めようたるや凄い。大和男児ならば人並みな恥じらいを持ち、控えめで奥ゆかしい言動を心がけるべきだと思う。人間関係も急がば回れだぞ。

「はいはい、分かった!分かったから適正距離を保って。みんな、離れてください」
「みんなって誰ですか」

名前はやけになって、AEDを起動する時の挙動をとった。

「色々あってお忘れみたいですけど、天女はもう人妻なんですよ。あなたは不倫間男クソ野郎になりたいの?良いですか?落ち着いて聞いてください。今すぐ脳裏に黄昏甚兵衛の顔を思い浮かべるのだ。あの濃ゆくて変なお殿様の顔を……」
「萎えること言わないでもらえますか」

山田利吉は、即座に手を離してスンッと目を据わらせた。
思っていたより、黄昏甚兵衛の顔は効果覿面だったようだ。
今後も、名前に気を持っている特異な人間達と関わる際は、会話の端々にダーリンの名を忍び込ませる、サブリミナル黄昏甚兵衛作戦を決行しようと思う。あの顔と三角関係になるのは誰だって避けたいだろうし。
……この発言も、ルッキズムの観点からはレギュレーション違反だが。

そんな具合で、咄嗟の機転により窮地を脱すると、名前はいよいよ本丸ーー大間賀時公の根城へと攻め入ることになった。

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