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マグロの缶詰

 風が吹き、頬の冷やっとした感触で私は初めて自分が泣いていることに気づいた。その日は空の青が眩しいほどの晴天だった。
 もう一年以上前の話だ。今も決して前向きに生きているわけではないし、相変わらず退屈な日々を送っているけど、その頃は最高にひねくれた考えを持ち、十代にしていわゆる「人生の壁」というものにぶち当たっていた。少なくとも私はそう思っていた。
 その日は雨だった。昼からぽつぽつ降り始めた雨はひとしきり降ったかと思うと、下校する頃には小雨になっていた。少し暖かくなってきたものの、雨が降るとまだ肌寒かった。
 傘を忘れた私は駅から家までの十五分間を早歩きで歩く。制服の表面では無数の雫が私の動きに合わせて震えていた。大通りと平行に走る狭い道には数軒の家とビル、そして居酒屋があった。
 三軒目の家の前を通過したとき、くしゃみが聞こえた。居酒屋の隣にあるコンクリートがひび割れた、かろうじて駐車場と呼べるような場所に一匹の猫がいる。体は黒く、四本足の先だけまるで靴下を履いたかのように白かった。鼻水を垂らした猫は私をしばらく見たかと思うと、水たまりの水を飲み始めた。
 そのまま通り過ぎようとしたけど出来なかった。気のせいかもしれないけど、猫の目はひどく悲しそうに見えた。私は猫にゆっくり近づいた。猫は警戒しつつもその場を動かなかった。
「大丈夫?」
 私が話しかけると猫は「にゃあ」と鳴き声を上げただけだった。しゃがんで触れると、わずかに体温が伝わってきた。猫は威嚇するように背中と尻尾を高く上げ、もう一度鳴いた。それでも逃げようとはしなかった。猫は痩せてあばら骨が浮き出そうなぐらいになっていた。お腹も白く、体を覆う毛はわずかに濡れていた。首輪はなかった。捨てられたのだろうか。
 一台の車が通る。猫は相変わらず威嚇していたし、私は相変わらず猫を撫でていた。嫌がられているのは分かっていたが、やめられなかった。何かが心に引っかかって宙ぶらりんのままになっていた。
「ちょっと待ってて」
 私は立ち上がって言った。猫は「やっと解放された」とでも言うように私を見た。分かっていた。連れて帰るわけにもいかないし、救えるわけじゃない。でも、そのままにしておくのも出来なかった。だから、せめて彼のお腹を満たしてあげたかった。
 コンビニには二種類しかエサは置いてなかった。私は片方を手に取ったまま、レジに行くか迷っていた。私がしていることは何なのだろう。ただのエゴに過ぎない。ただ、あの悲しげな目が頭に浮かんでは消えた。
 それでもいい、エゴでもいい、とレジで会計したのは五分後だった。猫エサ一個だけを買う私は奇妙だっただろう。
 コンビニから出ると雨は止んでいた。再び駐車場に行くと、猫はもういなかった。いるわけないよね、と帰ろうとしたとき、またあのくしゃみが聞こえた。居酒屋の裏に彼はいた。「また来たのかよ」と言うように無愛想な顔で私を見上げる。私は慣れない手つきで猫缶を開けた。マグロの缶詰、一〇五円。中の汁が手にはねた。猫は差し出されたエサに困惑したような表情を見せて、ちらりと私を見るとおもむろに食べ始めた。最初の一口を食べてからは早かった。中を丁寧になめ上げると、「にゃあ」と鳴いた。私は勝手に「ありがとう」の言葉だと受け取った。
 私は彼に再び触れる。今度は威嚇されなかった。濡れた肌にゆっくり触れる。私の触れているのは、命なんだ、とふと思う。私は命に触れ、彼もまた私という命に触れている。
 私はこの子を捨てた身勝手な飼い主のことを考える。「人間は神の子であり、神は人間のために万物、つまり動物、植物、大気、大地を創造した」と何かで読んだことがある。この世の全てが人間のためならば、人間の命が一番重いのか。不必要に命を消し、踏みにじって生きる人間が一番偉いのか。私にはとてもそうは思えなかった。
 例えこの猫も神からの贈り物だとしても、この子を捨てた飼い主は神からの贈り物を捨てたのだ。そうやって命を捨てて自分だけ幸せに生きる人間があふれていることに気分が悪くなる。授かったものもなかったことにする。「最低だ」と私は呟いた。

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