黒ねこのおきゃくさま(9)




「――それがシズちゃん、君だった」

 イザヤが居心地悪そうに、困った顔で微笑む。
 俺が、イザヤには弱いなって思うこの表情。

 俺は、ふっと表情を緩めると同時に、今まで自分がどれだけ険しい顔をしていたのかということに気づいた。その、イザヤを酷い目にあわせた野郎の名前を聞き出して、ぶっ飛ばしてやりたい。そいつが憎い。犯罪者紛いのそいつを、俺はいつだってぶっ殺してやる。イザヤが、そいつを憎んでいるなら。

 ただ、きっとイザヤはそいつのことを憎んじゃいないだろうな、となんとなく思った。
 なら、俺は黙って座ったまま、イザヤの話を聞いてやるしかない。

 イザヤはいつの間にか姿勢を正していて、正座した膝の上に乗せた手を見つめながら言った。

「諦めていたんだよ、あの瞬間に全部。俺の人生なんて。それなのに、どうしてだろうね。君の温かい腕に抱かれてさ、俺は馬鹿だね。今度こそ、って思ったんだよ。君なら、あるいは。って。野生的な、本能的な勘だったのかな? 君の手は、優しくて、安心して、何かを守ってくれる手じゃないかって、感じた気がするな」

 ――イザヤは大きな勘違いをしている。

 俺の手は、そんなに素晴らしい手なんかじゃない。
 自分を制御できずに人を傷つけてきた。そんな手だ。俺が昔、大嫌いだった手だ。
 そんな手でも、イザヤの居場所になれたって言うのか。

「強がった。二度と失敗は繰り返したくなかったんでね。適度に距離をとることも覚えた。『捨てないで』なんて言わない。媚びすぎるのもやめた。世の中の光も闇も知ってきたんです、というような、妙にスレた、何でもないような顔をした」

 初めてイザヤと会ったとき、我侭なくせにどこか貴やかで大人びていて、前はどこか良い家で世話をされてたんじゃねぇかな、そう思わせる振る舞いだった。

 イザヤは俺より沢山のことを知っていそうで、俺は最初から、全てを理解するのは不可能だろうと諦めていたのかもしれない。イザヤが大人びているのは、痛みを知っているからだ。イザヤが傷ついた結果だったのに、何も知らずに街へ送り出していた。
 
 そうしてイザヤは、また自分の身を削っていたのだ。

 俺は、自然と頭を下げていた。

「イザヤ、俺……、ごめん」
「え? どうしてシズちゃんが謝るの。これは俺の勝手だよ。君といたことで辛い思いなんてしたことなかった。……あ、でもひとつはあったかな」
「……なんだ……?」

 イザヤに辛い思いをさせた。それだけで胸が締め付けられて、痛い。消えてしまいたくなるくらいに情けない。
 何を言われようと受け止める、そう覚悟して見つめると、イザヤはふふっと笑った。

「取り繕ってきたものが、全てなくなってしまったことさ」

 イザヤは目を細めて、儚げに微笑む。神に祈るように芝居がかって手を組み、自嘲気味に声を大きくする。

「愛されたい! 君と離れたくない! 心から思うんだ。俺は馬鹿みたいに正直で、馬鹿みたいに弱くなった。君に甘えてしまった」

 情けないよねぇ。肩を竦め、イザヤは嘆いた。
 難しいことを考えるのは苦手だ。まどろっこしい話も長い話も好きじゃねぇし、すぐに忘れちまう。そんな俺にも、ひとつくらいは分かる。

「それさ、弱くなった、って言うのかな」
「え」

 不意を突かれたように、イザヤが短く声をあげて俺を見つめた。
 口に出しながら考えている。言葉は拙くても、確固たる思いが胸にあった。

「それでいいと思う。弱くねぇ、だろ。皆そうだよ。俺だってそうだ。嫌われるのは嫌だし、愛されたいと思う。愛されたいと思うのって、悪いことじゃねぇんだ」

 イザヤの唇がぼんやりと開き、それから小刻みに震え始める。
 見開いたイザヤの眼を涙の膜が覆い、じわりと滲み出す。整った眉は垂れ下がって、っとうとう堪え切れなかったのか、「う、ぅ」と声を絞り出した。
 またお前を泣かせてしまうんだな、と不甲斐ない俺を心の中で詰る。

 でも、今だけ一緒に泣けばいい。
 これで最後にすればいい。だから、

「お前は今まで一人で頑張ってきたんだから、もうそろそろ誰かに甘えろ。何も悪いことじゃねぇから、誰もお前を嫌がったりしねぇから」

 イザヤの拳の上に、俺の掌を重ねる。嗚咽し始めたイザヤを、力加減して、精一杯優しく、強く抱きしめた。

 普段より高い体温が伝わり、ようやく俺はイザヤが熱を出していたことを思い出した。
 イザヤの前髪を上げるように、掌を額に押しあてた。柔らかく、少し汗ばんだ黒髪がはらりと俺の手にかかる。

「俺もお前に救ってもらったよ。俺とお前、この期に及んで他人だなんて言わせんなよ」

 顔を覆う両手はしとどに濡れて、イザヤは子どものように声を上げて泣きじゃくり、懸命に首を縦に振っていた。――取り繕うことなんて、何もないじゃねぇか。
 
 腕を俺の首に回すように促して、イザヤの背中と膝の裏を支えて、抱き上げる。 
 イザヤは恥ずかしいのか、俺の胸に顔を埋めてしまった。そのまま俺のベッドに運び、布団をかけてやる。

 薬を飲ませ終わると、ぽんぽんと布団越しに撫でつけ、もう寝ろと小声で囁いた。もう一つベッドを買おうと思った。ああ、イザヤが一つでいいと言ってくれたら、そっちの方が俺は嬉しいかも知れない。

「シズちゃん、俺、生まれてきて良かったかな」

 鼻先まで布団にもぐったイザヤが、赤く眼を腫らして、天井を見つめながら呟いた。
 後で濡れタオルを持ってきてやろう、そう考えていたときの不意打ちの質問だったが、答えるまでもないようなものだ。

「は? あったりめーだろ。手前を産んでくれたご両親と手前に、俺がこの上なく感謝してるよ」
「……そっか。シズちゃん、ありがとう……」

 すきだよ。

 そんな囁きが聴こえた気がして、イザヤの顔をまじまじと見つめてしまったが、イザヤの唇の動きは隠されていてわからない、なので俺の勘違いということにする。

 すきだよ。

 俺からもそう囁いて、瞳を閉じたイザヤの額を撫でた。



 イザヤと出会ってから、毎日が楽しかった。
 お前の存在に、俺はいつも救われていた。

 愛するとか愛されるとか、俺の手に届かなかったものを、イザヤは教えてくれた。
 一番苦しいときに助けてやることができなかったことは悔やまれるけれど、今から出来ることを全て捧げる。

 最高の人生だったって、笑って振り返ることができるように、そのとき、傍らに俺がいることを許してもらえるように――。



 部屋を出ようとして、もう一度振り返り、俺は眼を閉じているイザヤの隣に戻る。
 それからベッドサイドに手をついて、眼を細めてゆっくりと唇を近づけ、白く滑らかな額に触れさせた。
 そして、反応のないあどけない寝顔を眺めながら、布団をかけ直す。



「一生大切にします」



 眼を覚ましたら、改めてデートに誘ってやるんだ。
 帰り際に寂しそうな顔なんてさせない。



 二人で、俺たちの家に帰ろう。









 END?
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