黒ねこのおきゃくさま(後日談)
「イザヤぁ、裸でうろうろすんな!」
「んー、まだ眠気がとれないよ」
それはある朝の、とりとめもない光景。
猫の姿から人間サイズに戻ったイザヤは、細身のラインを強調するようなVネック一枚を頭から被ると、眠そうな眼を擦りながら、そのままうろうろと家の中を徘徊する。
「顔でも洗ったらスッキリすんだろ、ほら」
手招きをしたが、イザヤはベランダの手すりでチュンチュンと鳴くスズメを見つけて、低姿勢で忍び寄っていた。
「イーザーヤーくーん、こっちに来い。今日は一緒に出かけるんだろ? 行きたくないのかそうなのか?」
イザヤの首根っこを掴んで、洗面台の前に立たせる。まずパンツを投げつける。イザヤはしぶしぶと穿いた。
それを見届けてから、蛇口を捻って湯を出してやり、イザヤにタオルを投げて渡した。俺は隣で歯を磨く。ぱしゃぱしゃと水を顔に叩きつけ、顔を上げたイザヤはぷるぷると首を振って水滴を飛ばし、それから柔らかいタオルに顔を埋めた。
「……あ! ちょっとシズちゃん!」
「あー? どうした」
顔を拭き終えたイザヤが、洗面台で何かを見つけたように声を荒げた。
「名前なんて書かないでよ! はずかしい」
「書けば間違えねーだろ?」
コップに立てかけてある歯ブラシ、それが二対。白は俺、青はイザヤと一応区別してあったのだが、イザヤは二回も俺の歯ブラシを使った。なので、コップに名前を書いてやったのだ。
新しいコップ。減りが早くなった歯磨き粉。口元が緩んで笑ってしまうのを、イザヤが変な眼で見ている。
――イザヤは、俺の家族になった。
それは今更の話で、イザヤと暮らそうと決めたときから、俺の家族だった。
そのときはまだ、ただの「家族の一員」だった。
今では俺の「大切な人」だ。
ずっと、ずっと傍にいる。
沢山あった問題のうちのひとつ。
イザヤの過去の話。これについてはもう、イザヤとの間に「これ以上お互いに謝罪の言葉を口にしたら、一ヶ月掃除当番の刑」が定められたので、言及しない。
俺にもっとできることがあっただろう。イザヤを傷つけてしまったことに変わりはないだろう。だから、俺はこれからの人生を、笑い疲れるくらいに楽しいものにしてやると決めた。
もうひとつ、経済的な問題。
これは社長が俺の仕事ぶりを見て認めてくれたらしく(確かに物を壊す回数は減った。帰ったらイザヤが出迎えてくれる。そう思うと俺は驚くほど温厚になった)、収入が少し増えたことと、大事な弟の支えがあった。
メールをして暫くして、幽が大量のキャットフードや遊び道具、オスの野良だと話していたから、去勢や病気のときに何かといるでしょう、と、支援してくれたのだった。
「きょせい? ってなに」と腕に絡みついてきたイザヤに、正直に全てを話してやったが、それからは暫く俺と一定の距離をとっていたのを思い出すと笑える。
俺は駄目な兄貴だ。幽やイザヤの助けがなければ何もできなかった。
それを幽に謝罪すると、「また猫を見せてくれれば、それでいい」と、イザヤの喉を撫でて満足そうだった。イザヤが人間の姿に変わっても、眉ひとつ動かさずに「兄を宜しくお願いします」と会釈していた。俺は、こいつには本当に頭が上がらねえ。
他に問題といえば――、
「……シズちゃん、俺さ、言いそびれてしまったことがあるんだ。今更言っても仕方がないことかもしれないけど、俺ね」
イザヤが鏡の中の俺を見つめながら呟く。歯ブラシを動かしながら、俺は視線で話の続きを促した。
「身体を売ってたっていうのは、随分昔の話だからね?」
「…………ん? いや、ん?」
歯を磨く手も止まり、鏡越しのイザヤを見つめて眼を何度か瞬かせる。
「シズちゃんと出会ってからは、その、してないから……」
「…………んっ? ちょっと待て、あれ? この前のはそういう話じゃ……、えっ、じゃあ今まで何を……」
口を開いて歯ブラシを落とし、慌てて拾い上げて口も濯いでしまう。
「”ツテ”があるって言ったでしょう? 俺、本職は情報屋なんだ」
「じょうほう、や?」
馬鹿みてえにオウム返しするしかない。
「名前の通り、様々な情報を売るのさ。猫の姿になってしまえば、尾行したり忍びこんだり、情報収集はお手の物だからね。ツテっていうのは、結構大きな組織、例えば粟楠会とか、そういう界隈の人にも可愛がってもらってるんだ。報酬も断然いい。そっちのことだったんだ。だからあの時計も、汚いお金で買ったわけじゃない、から」
粟楠会。仕事中にも聞いた名前だ。確か、ヤクザ。俺たちは悪いことをしてるわけじゃねえから咎められることもないだろうが、一応粟楠会のシマである場所もあるから、気をつけろと。
「おおお俺のバックには粟楠会がついてんだからなああぁぁぁあ!」と吠えるやつらもいたが、大抵次の日には何かに怯えたように大人しくなってたな。
想像だにしなかった展開だ。情報屋、なんだそりゃ。初耳だ。
「いや、お前、だってよ、仕事だ、っつって出てった日、早くシャワー浴びてやがったし、俺と一緒に寝なかったじゃねえか……。だから俺、てっきり」
「別にその日だけじゃないよ、俺は綺麗好きなの。シズちゃんもそう言ってたじゃない。疲れた日は猫の姿で丸まるのが好きなだけだし……。俺、説明不足だった?」
あれ? と笑って頭を掻くイザヤ。今まで俺が悩んでいたことはなんだったんだ、と口をあんぐり開けたままになる。イザヤはそんな俺を前に、話し辛そうに続けた。
「寝るのは臨時収入。情報屋じゃあ、いつ仕事があるかわからないから、必要なときはそうして暮らしていた――。シズちゃんの家に来て、最初はそうして稼ごうと思った。でも、無理だった」
イザヤが気恥ずかしそうに眼を逸らして、もじもじと組んだ指先を擦り合わせる。
「どうしてもシズちゃんの顔が浮かぶんだ。とても苦しくなって、他の人に触られるのが、なんだか、嫌になって……」
――それは。
え、それって。
一気に顔が熱くなる。いや、待て馬鹿。勘違いだったら恥ずかしいだろ。バシンと口を掌で覆って、大人しくしない口元を覆い隠した。
「歯形はね、俺が口座を作るとき、名義を貸してくれた人がつけたんだと思う。最初のころ、色々助けてくれた人。あの日、『今までありがとう、もう解約してください』って、少しお金を残して全部受け渡したんだ」
それがあの夜、と、イザヤはどこか懐かしむように天井を見上げる。
「今では妻子もちの、すごく真面目な人だよ。シズちゃんのことも話した。すごく優しい人と一緒に住んでるんだって。後ろから抱きしめてくれて、泣いてくれたよ。俺も泣いてたからわからなかった。服の上から噛まれたんだね。キスとか跡はだめだって言ったのに、そういえば所有欲が強い人だったから、最後にさ、シズちゃんに嫉妬してほしかったのかな? なんてね……」
少し瞳を潤ませて、首を傾げて笑うイザヤに問いたい。
口を開こうとすると、イザヤはそれを遮るように、俺の背中を叩く。
「というか、シズちゃん、お金ちゃんと管理してるよね? 俺、シズちゃんの名前でネットに口座作ったんだよ。俺の仕事のお金、そこから一定額毎月振り込まれてるでしょう?」
「え、いや、知らなかった……」
「シズちゃんってどこか抜けてるなあ……」
何時の間にそんなことを、と思ったが、俺は簡単な答えを口にすることだけで精一杯だ。
イザヤが途端に呆れたものを見る目つきで、ふんと鼻を鳴らす。
「シズちゃんには俺がいないと駄目だねぇ!」
腰に当てた偉そうな両手が、また愛しい。
「……それで、俺にもシズちゃんがいないとだめだよ、そういうこと。ね?」
ぎゅっと飛びつくように抱き着いてきたイザヤが、俺の顔を覗きこむ。
いつもはもっと生意気言うくせに、こんなときだけ、どうしてそんなにか弱く甘い表情をするのだろうか。頬を染めて、マジで照れてる。俺も照れる。ああ、これが男をオトすテクニックってやつか。俺は痛いほどよく経験させられた。でも、もう他の男には経験させてやらねえ。
「イザヤ、結婚すっか」
「うん。…………えっ?」
形勢逆転。
当分雨は振らない。
イザヤの可愛い顔をもっとよく見るにはうってつけの、デート日和だ。
END!!
拙い初連載(?)、ここまでお読みくださりありがとうございました!