黒ねこのおきゃくさま(8)




 俺の名前は、たぶん、イザヤ。

 新宿のとある家で生まれた黒猫――、だと思う。

 だと思う、って言うのは、通常、ネコっていうのものは、人間の姿になったりネコに戻ったりする芸当はできないだろうから、それが出来る俺はたぶん、半分くらいの確立でネコ。……残り半分は、できそこないの化物っていうところ。


 兄弟たちがみうみう鳴いて母親の乳に群がっている間、俺だけ冷静に、なんでこんなことをしているんだろうって考えていた。
 人間が操るねこじゃらしを追いかけて狩りの真似事をしたり、クッションからずり落ちてぽてんと転がったりして、人間に「かわいいねぇ」なんて言ってもらえるような仕草は、できなかった。

 兄弟を見に来た人たちが、一匹、二匹と家から連れ出して行く。最後に、俺と一匹の兄弟だけが残されたけれど、俺はよく理解していた。
 兄弟は、最初からかわいいかわいいともてはやされて、家の子供が手放したくないと駄々をこねた猫なのだ。
 ――俺は、人間に愛嬌を振りまくことも、猫らしく振舞うこともできない、なんとも中途半端で可愛げのない不気味な猫だった。

 気がつけば路地裏にいたのも、当然なのだと、妙に青い空を仰ぐしかなかった。








 それから俺は人間に甘えることを覚えた。

 肌を寄せる相手は、男でも女でも良かった。
 だけど、家があったときに下に敷いて寝たりした、父親の背広がなんとなく恋しかったのか、気がつけば隣にいるのは、中年の男だった。
 一人では生きることができない、か弱い人間を演じながら、優越感と庇護欲を擽れば、欲しがってもらえる。
 きっと、二度と俺を手放さない。誰も、二度と。

「放さないで」
「一人にしないで」
「捨てないで」


 眼を潤ませて、逃げる隙を与えないように視線を絡ませる。そのままお互いの肌を擦り合わせれば、一度で関係を絶つ男はいなかった。

 ――次第に。

 俺の落ち着かない心が交錯していくのにも気づいていた。

 誰にも構われずに一人で生きていきたいと思う俺と、大物女優さながらに演じるか弱い俺。
 成り代わり立ち代り、俺はどちらが本当の俺なのか分からなくなりつつあった。
 段々と、俺は本当に脆くなっているのだと実感するしかなかった。

「――イザヤくん、俺の家にこない?」

 そんなとき、今日の分の金を出す代わりに、男はそう言った。

「……え?」
「いやぁ、実は女房とうまくいってなくてさ。つい最近、離婚したんだ。あの女、金ばっかりかかるくせに可愛げがなくてつまらないやつだったけど、イザヤくんは可愛いし。もう色んな男と寝ないでいいんだよ、良いだろ?」

 俺が捨てられて路頭を彷徨っていた始めのころから、長い付き合いのある男は、目じりを下げて微笑んだ。いつも誰よりも沢山の万札を挟んでいた指先は、火のついたタバコを挟んでいる。ゆっくりと吐き出されたタバコの煙を眼で追ってから、「……どうかな?」と男はもう一度訊いた。俺は、タバコの匂いは好きじゃなかったはずだ。

「それ、本気で?」
「勿論だよ。もう俺にはイザヤくんしかいないんだから。今まで辛かっただろう? こそこそ生きて、帰る家がないのは。安心して、俺は君にどんな事情があっても、大切にしてあげるから」
「で……、でも、俺は」
 
 俺にはわかる。高級感のある服飾品なんて見栄程度のものしか見せたことがない、ごく普通の会社員が、俺なんかにほいそれと羽振りよく万札を与えて、家にも帰らない日がこれだけあったのだから、女に愛想を尽かされたに違いない。女は知っているのだろうか。自分の夫が執心だったのは、こんな化物だったのだと。
 俺は、一人の女性の人生を狂わせてしまったのかもしれない。

 俺が、居場所を奪ってしまったのかもしれない。――けれど。

 罪悪感の痛みは一瞬で掻き消される。どう足掻いても、俺は狡猾に生きようとする獣だった。

 この男は俺を家に置いてしまえば、出費も減るし俺の身体も手に入る。俺は決まった寝床と、食事と、一般的な生活を与えられる。

 もう、寝床に困らなくていい。無理な要求を呑んでまで、金のために身体を酷使しなくてもいい。
 どちらが損をするとか、得をするとか、考えるほどの思考能力は無くなってしまったようで。

「……俺を、連れてって」

 男の太い腕が伸びてきた。ひたすら面倒でしかなかった拘束も、今では心地よい。
 俺も家族に抱き締められたかった。おまえは私が必要とする子だよと、囁いてほしかったのかもしれない。俺の全部を認めてほしかった。でも、今更言ったって、遅い。
 男の肩に顎を乗せて、冷え切った涙が伝い落ちるのを、まるで他人事のように感じていた。





「イザヤ、はい、これ」

 次の日、仕事から帰宅した男が差し出してきたものに、俺は眼を見張った。

「いいだろう? これは俺たちが一緒に暮らすお祝いだよ」

 ニコニコとする男は、赤くて鈴のついた首輪を嬉しそうに眺め、俺の首に回そうとした。思わず身を引くと、男は不思議そうな顔をした。

 それは誰かに所有されることの証。
 今更になって気づいた。俺が人間として見られているはずがないのだということに。
 人間の姿に残る、耳と長い尾。男は最初驚きはしたが、そういうものだと認識してくれてから、気に入ったようでよく弄られた。撫でる仕草は、愛玩動物を愛でるそれだ。居場所を貰えるからと言ったって、俺の事情をなんでも受け入れてくれると言ったって、人間として扱ってもらえるわけではなかったんだ。
 分かっていたけれど、少し、心は痛む。

「……窮屈そう、いやだ」
「俺がわざわざ買って来たのに、そうやって我侭言うの?」

 男が途端に不機嫌そうになる。

「そんなことしなくても、俺」
「イザヤがそんなに我侭な子だとは思わなかった。いいんだよ、別に」

 ここから出て行ってもね。

 実際に口に出されることはなかったが、男の続けたい言葉は嫌というほどよく分かった。
 俺が手に入れたと錯覚したものは、音を立てて崩れ落ちていく。

「……ごめん、ありがとう。ちょっと吃驚しただけだよ」
「やっぱり、喜ぶと思ったんだよね。これで、イザヤは俺の家の子だからね。変な男が寄ってこないようにしないと、イザヤは可愛いから」

 俺の首に絡みついた、赤い首輪。男は似合うよと笑った。できるだけぎこちなくならないように、俺も口元を緩めた。
 こんなこと、なんてことない。当然なんだ、喜ぶべきことだ、俺はこれで、家を手にいれることができたんだ。
 笑顔で出迎えればいい子と撫でてもらえるし、ご飯も、お風呂も、ベッドだって、俺のほしかったはずのものが、ぜんぶ、あるんだ。贅沢を言っちゃ、いけないんだ。


 これで、良かった。


 首輪はいつの日だって、俺の頚動脈を狙うように張りついている。それでも、愛されている、保護されていると、言い聞かせて過ごしてきた。
 けれど、酒に溺れ、深夜に女の匂いをさせて帰ってくる男を、笑顔で出迎えないと殴られた。面倒くさそうにご飯を用意され、やがて男が帰らない日が続いて、それさえも望めなくなったとき、愛されなくなった悲しみより、やっぱり俺なんかは駄目だったんだと、自分を責める気持ちが強く圧し掛かってきた。そして、初めて、「もう、ひとりにして」と思った。


 男が昼間から酒を買いに車を出す音を聞いて、俺は猫の姿に戻った。
 もそもそと服の中から這い出して、あっけなく頭から抜けた首輪を踏み越えて、振り返った。何の感情も湧かないわけじゃない。それでも、一旦人間の姿に戻り、躊躇わずに椅子で窓を割った。
 俺の家だったはずのこの場所から、持っていく物など、何もない。
 もう一度猫の姿に戻って、その窓を飛び越えた。そのとき尖ったガラスが足を掠めたけれど、そのまま、雨に湿りはじめている地面を駆けた。

 生まれたときと同じ姿に戻って、走った。足を懸命に動かした。久しぶりに、地面を四つん這いになって走った。
 風のように駆け抜けた。いっそ、風のように、どこかでふっと消えてしまえばいいのにと思いながら。

 角を曲がって人気の無い通りへ入ると、身を寄せ合う男女にぶつかりそうになって、「きゃっ」という声を聞きながら、慌てて脇を駆け抜けた。「なぁに、今の。超びっくりしたんだけど!」「猫だよ猫。あーマジ空気読めよ」――かつて何度か、ベッドの中で間近に嗅いだことのある香水の匂いがした気がしたけれど、振り返って確かめるほどの余裕も度胸もなかった。

 惨めで、悲しくて、どうしようもなく辛くて、思ったよりも外は寒くて、足は痛くて、お腹は空いていて、力が抜けていくのがわかって、辿り着いた場所が俺が捨てられた路地裏だと気づいた瞬間に、それらが全部俺に圧し掛かってきたようで、俺はそこに倒れこんだ。
 勢いを増しつつある雨が、俺の身体を容赦なく打つ。ふてぶてしいトラ猫が、急いで俺の横を駆けていった。俺のことなんか見ちゃいない。あいつは帰ることのできる場所へ、暖かく雨を避けることができる場所へ急いでいるのだろうか。


 ――俺は猫の姿でいたって、人間の姿でいたって、とても惨めな存在だった。

 どっちでいたって愛されない、中途半端な、汚い存在だった。

 全部忘れて、無かったことにして、捨てられたあの日のまま、何も知らない俺のままで、土に還りたいと思った。


 ああ、もう、俺は死ぬのかな。
 最後に、一人で死ぬんだな。
 俺らしい、とても俺らしい終わり方だと思うけれど、

 ……寂しい、生き様だったな。

 今更になって、あったかい腕の中で、抱っこしてもらったり、撫でてもらったり。
 そんなことがどれだけ幸せで、どれだけ嬉しいことなのか、与えられて、引き剥がされて気づいてしまって、忘れられなくなった。

 最後くらい、誰か、かわいそうにって、俺を、かわいそうだねって、抱いてくれ。

  そう自嘲気味に祈った瞬間、ふっと身体が持ち上がった気がした。目を開ける気力もなかったけれど、俺を迎えに来てくれた天使くらいは、俺のこと優しく抱いてくれるんだなあ、と、身を委ねた。












 その天使は、天使どころか借金の取立て屋で、せいぜい天使らしいのは金髪の頭くらい。それを知るのは、意外とすぐの話だったんだ。






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