またいつの日か

部屋の扉が開く音が聞こえてきた。
足音が近付いてくるが、私は顔を上げることはせずに、枕を抱いている腕に力を入れる。
その人物は、すぐ傍で立ち止まると、部屋の隅でうずくまっている私の隣に腰を下ろした。


「割り切れなんて言うつもりはないけどね」


母の、諭すような声が降ってきた。


「貴方も知ってるはずよ。これはずっと前から決めていたこと。お父さんの仕事場も今よりずっと遠くなるし、慣れない都会にひとりきりじゃ可哀想でしょう」
母は私の背に手を置き、慣れた手付きで撫でる。背中から伝わるじんわりとした温もりに、収まってきた涙が再び溢れてきた。

「…ネグが一緒に住めないなんて聞いてない」


私は顔を上げて、母に向かって嗚咽混じりにそう告げた。

ネグというのは私の家で飼っているイーブイだ。
公園で捨てられていたところを私が見付け、保護した。名義上は父のポケモンとなっているが、ネグの世話をしているのはもっぱら私であり、事実上は私のポケモンだ。私が10才になったとき、ネグを貰い受ける約束を父と交わしている。
前のトレーナーに捨てられた過去があるためか、ネグが家族になってからしばらく経つが、ネグがエーフィやブラッキーに進化する兆しは見られなかった。イーブイは様々なタイプに進化するポケモンだ。単に進化したくないだけかもしれないが、それでも、進化の兆しも見せないことが、まだ完全に心を開いてくれていないように感じられて寂しい。

母は背中を撫でる手を止めると、私の手を握り、そして真剣な面持ちで私を見詰めた。


「貴女がネグを大切に思ってることは知ってる。おかあさんもネグが大切よ?だけど引越し先のマンションにはポケモンは連れていけないの。引越しのトラック、もう来てるわ」

「………」


背中をさする手が離れる。先程より声が遠くに感じられるのは、母が立ち上がったからだろう。ドアノブに手を掛ける音が聞こえる。ドアを閉める直前、母は言った。


「こんなことは言いたくないけど、ネグを早く野生に返してあげなさい」

「――違う!」


その言葉に、私はカッと身体が熱くなった。
野生に返すと言えば聞こえはいいが、それは要らなくなったものを捨てることと同じことだと私は知っている。私にとって、ネグは遊び飽きたおもちゃとは違う。
私は引き剥がすように枕を手放し、立ち上がると、力任せにドアを開いた。


「違う!ネグは、…ネグは要らないものなんかじゃない!」
私は叫んだ。しかしその訴えは母には届かなかった。

「ネグ…」


ネグが、部屋の前に座っていた。呆然としている私を、じっと見上げている。
ネグは笑わない子だった。それが性格からくるものなのか、前のトレーナーに捨てられたことが起因しているのか分からないが、こちらを見詰める、ピクリとも動かない表情に、私は自分を責められているように感じた。


「ネグ、散歩に行きたいの…?」


ネグは赤い帽子を咥えていた。散歩に行くときに、私が必ず着けていく愛用の帽子だった。
そうだと言わんばかりに、ネグが足元をぐるぐると回る。爪が、フローリングの床をカチカチと鳴らす音が、夕焼けに薄暗く沈んでいる部屋に軽快に響いた。
呑気なものだ。ネグは私の気持ちをちっとも理解していない。貴方はこの家に捨てられて、私ともう会えなくなってしまうというのに。
口走りそうになった悪態を、私は唇を強く噛み締めることで耐えた。
一頻り回ったネグが、立ち止まって、透き通った黒い目でふたたび見上げる。自分が捨てられることなど知らないのだろう。その瞳はとても純粋な色をしていた。


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