またいつの日か

太陽が遠く、西側の家々の淵を濃い赤色に染めていた。背に当たる夕日が、私とネグの影を長く伸ばしている。
公園には私達の他に誰もいなかった。
公園にはいつも、親のポケモンと遊ぶ兄弟やバトル好きな大人たちが溢れていて賑やかな場所だが、誰も居ない静かな場所に夕暮れ時の風が吹くさまは、普段と別の公園に見えた。
ネグが、入口で立ち尽くす私を心配そうに見詰めているのが、帽子を目深かに被り狭まった視界の隅にかすかに見えた。私の足に前足を掛け、構ってほしそうに尻尾を振っている。
その様子がなぜだかうるさく思えて、軽く足を動かしてネグを払う。ネグは驚いて離れたが、すぐにまた足にじゃれついてきた。何度も繰り返すうちに、腹の底からどろどろとしたものが湧き上がってきた。
耐え切れず、私は大声を上げた。


「――離れてよ!」


静まり返った公園に、私の声が響き渡る。


「どうして、どうしてネグは平気でいられるの?私とネグ、もう会えなくなっちゃうのに!」


理不尽な言い分だと分かっていた。ネグは引越しのことを知らない。
地面に膝を着いて、涙が溢れる目元を手で覆い、泣き喚く。悲しくて仕方なくて、もうなにに対して怒っているのか分からなくなってきた。

泣き続けていると、あたたかくてざらついたなにかが頬を掠める。舌だ。流れる涙を、ネグが丹念に舐め取っていた。
胸が締め付けられる思いだった。
目元を覆う手を離して、たまらずネグを抱きすくめた。


「ごめん、ごめんなさい。ネグはなんにも悪くないのに、私…」

謝罪の言葉は自分でも驚く程に弱々しかった。

「――私、すぐに引っ越すの。おとうさんが遠くの街で働くことが決まったから、おとうさんが寂しくないように家族みんなで。それでね、おかあさんに言われたんだ。ネグを野生に返してきなさいって…おかしいよね!家族みんなでって言ってるのに、ネグを置いていくなんてさ……」


振るえる身体を誤魔化すように、ネグを抱きしめる腕に力を加える。
十分に抱きしめたあと、私はネグを離した。視線は地面に落としたままだ。ネグの顔は見れなかった。


「ねぇネグ、私と一緒に旅をしよっか。本当はまだ旅ができる年じゃないけど、10才になるまでこっそりとさ!おかあさんに見つかったら逃げようよ。私もネグも逃げ足だけは早いし、きっと捕まらないよ。ねぇネグ、どうかな?」


縋るようにネグを見る。そして私は息を詰まらせた。
ネグは真っ直ぐこちらを見ていた。夕日を写してほのかに赤く染まるその瞳に射抜かれて声を出すことが叶わない。
提案が現実的でないことは分かりきっていた。
私とネグは、離れなくてはいけない。
気付けば辺りは闇に沈んでいた。
母は、引越しのトラックはもう来ていると言っていた。暫くしたら両親が来て、私とネグを無理矢理に引き離すだろう。
そんなことは耐えられない。別れなければならないのなら、それはせめて自分たちの意思で別れたい。


「ネグ、ごめんね。またいつか会えるから…」


今度は優しく抱きしめる。
ネグも悟ったのだろう。私に身を寄せ、身体を預けるのが分かった。あたたかな体温が、服を通して伝わってくる。耳に届く、小さな、だけど早い音は、聞き慣れたネグの鼓動だ。
向かいの角からライトの眩しい光が近付いてくる。母が迎えに来たのだ。


「さようなら、ネグ」


腕の中にある体温を、名残惜しげに手離す。
再び溢れそうになった涙を帽子で隠し、ネグに背を向けた。
ネグとの思い出が、まるで走馬灯のように蘇る。公園で拾った、ボロ切れのように汚れたネグ。捨てられて日が経っていたのか、私を睨む鋭い目付きは警戒心を丸出しにしていた。打ち解けたのはいつだっただろう。そうだ、あれは去年の夏、日がじりじりと地面を焦がす猛暑日、逃げ出したネグを道路脇で見付けたときだ。
その頃のネグは逃走癖があった。ネグは前のトレーナーに虐待を受けていたらしい。両親の話によると、また同じことをされると思う恐怖心から家を抜け出そうとするのだという。
ぐったりとするネグを抱き上げ、帽子を被せて走り出す。私の町は小さすぎるためポケモンセンターはなく、隣町まで必死に走った。両親に連絡するという道は、私の小さな思考回路には存在しなかった。
疲れ果てた私は、ネグの眠る病室のベッドに突っ伏して寝てしまった。起きると目と鼻の先にネグがいた。ネグが私の鼻先を舐める。それが、ネグから私に触れてくれた初めての日だった。

母の、私の呼ぶ声がもうすぐ近くまで迫っていた。
想いを振り切るように、私は走り出す。ネグはどんな表情で私を見ているのだろうか。あの透き通る瞳でじっと見詰めているのだろうか。
涙が溢れそうになったその瞬間、突然吹いた突風が背を押した。


「……え?」


風に紛れて、なにかが届いた。
ひび割れた管を吹いたときのような、枯れた音。それがなんであるか理解して、私はその名前を呼びながら振り向いた。


「――ネグ!」


それはネグの鳴き声だった。
ネグは、前のトレーナーから虐待を受けていたせいか、喉が潰れていて上手く鳴けない。鳴き声を上げるのは感情が高ぶったときだけであり、普段は身体を使うことで感情を表している。ネグの声を聞いたのは、ネグを拾ってからまだ間がない頃だけだった。
ネグの元へ駆け出したくなる気持ちを必死に押し殺す。
行ってはいけない。今行ったら、私はネグをなんとしても連れて行こうとするだろう。それは私を見詰めるネグの瞳が許さなかった。
鳴き続けるネグの身体が、まばゆい光に包まれていく。反射的に目を閉じるが、なんとか目をこじ開ける。
眩い光が、辺りを真昼のように照らす。太陽に似た強い光。しかしそれはすぐに間違いだと気付いた。
青白く、熱を持たないこの光は月の光だ。夜道を照らす優しい光。月明かりを集めたら、きっとこの光のように力強くなるのだろう。


「ネグ、ありがとう」


光の残滓が散るその中心に、ブラッキーとなったネグがいた。
光を弾いて黒く輝く美しい毛並みを見て、熱いものが込み上げてきた。
赤い瞳が力強く私を見詰める。ネグに負けじと、私は腕を振り上げた。


「――一生会えなくなるわけじゃないよ!ネグと一緒に旅をしたい。いつか、いつか必ず迎えに来るから…待ってて!」


頬を流れる涙は悲しみの涙ではない。
いつか再び出合える日をこの手で掴むまで。それまでの、少しのお別れ。



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