一方通行 | ナノ






最近の私は物忘れが激しいと思う。以前ミナキさんの伝言を忘れていたのもそうだが、マツバさんを家に呼んだらどうかという母の申し出も綺麗さっぱり、修正液で塗り潰されたかのように頭から消し飛んでいた。本日マツバさんはジムの仕事がお休みで「お茶でも飲んでいく?」とジム脇のお寺にお呼ばれしたのが30分程前。その後奥の座敷に通された私は、礼儀正しいお坊さんに慌てて挨拶をしながら、彼が運んできてくれたお茶菓子を口に運ぶマツバさんの幸せそうな笑顔を見ていたのだ。そんなマツバさんを見ながら考え事をしていたら、ふと水中から泡が沸き上がるようにそのことをぽん、と思い出したのである。でもマツバさんはジムリーダーだから、やっぱり多忙で体が空く日は少ない訳で。ジムリーダーの休日は一週間に一日限りだけだと聞いた覚えがある。優しいマツバさんのことだから「お礼に」なんて誘ったら、折角の貴重な休日を私のせいで潰してしまうのでは無かろうか。確かに既に、私がこうしてお邪魔をしている間にもマツバさんの自由時間を奪ってしまってはいるのだが(そのことを申し出てみても、気に病むことは無いの一点張りだ)。うーん、と心の中で唸りつつ悩む私にマツバさんが手にした湯飲みを置き、「ユカリ?」と心配そうな声をかけてきた。


「あ、はい、どうしましたか…?」
「眉間に皺が寄ってる。…悩み事?」


マツバさんの人差し指が私眉の間を指した。気付かぬ内に表情を固くしていたかと驚き、私は「いや、何でも無いんですよ!」と否定する。マツバさんは「そう?」と不思議そうに言ったが、それ以上に追及してくることは無かった。変わりに「ところで、」と話の転換を告げられる。


「はい」
「さっきからいるそのヨマワル、ユカリの?」
「………え?」


さっきからいる、の辺りで大抵察しはついていたが、振り向くと予想以上の至近距離に浮かんでいたヨマワルに私は思わず飛び退いてしまった。決してヨマワルが苦手とかそういった類いの話では無く、ただ単に驚いた故の反射的な行動だけれど。盛大に座布団を飛ばした私の方を、闇を切り取ったような漆黒の瞳が見つめている。


「び…びっくりした」
「ユカリのポケモンじゃなかったんだ」
「違います…」


確かに私の手持ちはムウマージを筆頭にゴーストタイプが多いものの、生憎ヨマワルはいないんですよ、と説明する。ゴーストタイプ特有の揺れ動きを見せ、ヨマワルは私の輪郭に沿って動いた。


「どうしたんだろう…誰かの手持ちなのかな」
「ヨマワルを持ってる人はいなかった気がするけど…ボール、投げてみたら?」
「そうですね。人のポケモンだったらセンターに連れて行ってあげなきゃ…」


私は常備しているボールをヨマワルに触れる程度にそっと押し付けてみる。途端にヨマワルの姿がボールの中に消えた。野生だったんだ、と思うと同時か少しの遅れを取り、光を失ったボールが床に転がる。カチリと音がした。


「あ……」
「捕まえちゃった?」
「ば、バトルしてないのに…!」
「レベルが低かったりするとバトルをしなくても捕まることもあるしね。それにユカリの体質に引き寄せられたか」
「そ、そうですか…なんか悪いような…」
「いいんじゃないかな。ユカリの周りにいるのが楽しそうにしていたから」


さっきから、と目尻を下げてマツバさんが笑った。さっきからだったなら早目に教えてくれれば…!と思いつつも予想外過ぎるゲットに「取り敢えず転送マシンでボックスに…」と機械を取り出す。しかし一応持ってはいるものの旅をしない私は転送マシンを使わない上に、接続機器が沢山で使い方が良く分からない。


「…もしかして、使い方が分からない?」
「わ…分からないです…」


貸して、と卓上へ身を乗り出したマツバさんが私の手から離れた機械を手にし、何故か隣に来た。距離が近い!どうしてわざわざ!と焦っていると、ここがこう、と説明しながらマツバさんは機械を弄り始める。どうやら使い方を教えてくれるみたいだった。間にある転送マシンを覗き込むと必然的に距離が縮み、比例して心臓が煩く鳴り始める。


「…で、こう…さっきのボール、貸してくれる?」
「あっ、はい」


両手の中のボールを差し出すと、私からマツバさんへ渡される時に手が僅かながら触れた。思わず指先が強張ってしまって、気付かれなかったかな、なんて心配する。手を繋ぐだなんて恋人みたいなこともやったけれど、何でも意識してしまうのに変わりはない。しかし相変わらずの安定さでやっぱり反応しているのは私だけのようで、マツバさんはその視線を反らすことなく転送マシンへ一心に注いでいた。「出来たよ」と若干嬉しそうな声と笑顔が私に向けられて、その一挙一動が私をドキドキさせる。私だけって、なんだか少し悔しいかも。




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