心機一転、などとそんな前向きな気持ちからではなかったが、引っ越しをすることに決めた。 一緒に暮らしていたものの、先日死んでしまった男が遺した荷物を、何の感傷も抱くことなく機械的にビニール袋の中に押し込み続ける手が、ふいに止まる。 多くを語らず、読書家であった男がいつも読んでいた本。黒いハードカバーの洋書の表紙に刻まれた、ロシア語らしき金の文字はところどころが削れ落ちていて、長い間好んでいたらしいことが伺われた。 ぱらぱらとページをめくってみるも、紙面をびっしりと埋める中の文字もロシア語で綴られていて読むことは適わない。しかし、牧師を自称していた男が読んでいたそれは聖書であるような気がした。 無神論者である庵は聖書であろうと構わず、他のものと同様にビニール袋へ捨てようとした時、本の間から白い封筒がすべり落ちる。 真新しく封のされていない洋形の封筒の中身に興味はなかったが、何故かひっかかるものを感じた。どうせ、男はもういないのだからと、そんな言い訳がましいことを自分に言い聞かせて二つ折りの紙を取り出す。 そこには、たった一言 「神のご加護があらんことを」 男が生前に常套句としていた言葉が書かれていただけだった。 唐突に腹の底から怒りがこみあげてきて、庵は紙を強く握りしめた。次の瞬間、蒼い炎に包まれたそれは灰となって中空を舞った後に塵と消え失せる。 祈りを捧げれば、それだけで人は、庵は幸せになれるものなのか。 両肩が震え出した。 庵の都合を無視して押しつけるだけ押しつけ、庵の都合を無視して奪い、取り上げる。傲岸で不遜で残酷で身勝手な存在。なるほど確かに、あの牧師らしからぬ男が信仰する神に相応しかった。 わきあがる激情に任せ、聖書を跡形もなく燃やし尽くす。 薄い膜に覆われたかのように、目に入るもの全て霞んで見えた。理由は分からないまま、庵の世界がぼんやりとにじむ。 寡黙な男が最初で最後に残した想いを前に、彼の為に神へ祈りを捧げてくれる人間を失った庵ができることは、狂ったように笑い続けることしかなかった。 突発的に書きたくなったゲニ庵文章。後味どんよりです。 そしてタイトルは「恋文」で良かったんでしょうか。 20100427 UP | |
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