〜 6 〜
あらゆる立場の人間から冷ややかな視線を受けながら、カナリヤは観念したようにその場に座り込んでいた。この世に存在する希望と呼ばれるもの全てが憎たらしく、しかし諦めがついたような瞳をしている。
抵抗する素振りを見せなくなったカナリヤ。警戒を続けて近くにいた警官も、いくらか穏やかな面持ちをしていた。
「……そうです。僕がやりました…。毒を盛ったのも、録音装置を仕掛けたのも全部…。その人の言う通り、僕はセレーネ様に毒を盛ろうとしていました。しかし、セレーネ様たちの元へ運ばれるカートンを見失った僕は…突然怖くなって、逃げ出そうとしました。でも足が動かなくて…。混乱して、何も考えられなくなったんです…」
カナリヤは唇を震わせて、かすれた声で証言している。
「…僕、実は亡命をしてきた身なんです」
「……ビミー・カナリヤ。貴公はインドネシアに住まう貴族の子息なのだそうだな」
バロックの言葉を聞いて、その場に居合わせているカナリヤを含めた人間が声を上げた。ある者は納得し、またある者は驚愕している。様々な声が渦巻く空間の中で、カナリヤは乾いた笑い声を発した。
「もう調べはついているんだ?さすがだな。……そう、僕はインドネシアから来た人間です。当然、ビミー・カナリヤも偽名。僕は、唯一の特技であった料理を武器に…フランスへ身を潜めました」
カナリヤは実家での暮らしを窮屈に思っていたこと、亡命を決意した日のことを軽く話して、うなだれたままの頭をバロックに向けて上げた。
「7年前…フランスの小さなレストランで料理を振る舞っていたある日。絵画の勉強のために一人旅をしていると言っていたセレーネ様に出会いました。彼女は僕が作った料理を食べて、屈託のない笑顔で“美味しい”と言ってくれた。その日から、僕の人生はまた大きく変わったんだ」
会議室は静まり返り、カナリヤの言葉に耳を傾けている。
「僕は…セレーネ様に一目惚れをしました。優しくて、“自分”を強く持ったセレーネ様がすごく好きで…どうにかお近づきになりたくて、イギリスに居住を移し、ベックフォード家の料理人になった。姫様の笑顔が、ずっと忘れられなかった…」
「…なるほど。姫・セレーネの思い悩んでいる姿が、過去の自分と重なったのだな」
「そうです。録音データを聞いて驚きました。亡命の経験がある僕なら、きっと力になれる。そう思って近付きました」
そのとき突然。カナリヤの隣にいる男性が握った拳を震わせて、カナリヤに向き直った。カナリヤとさほど年齢が変わらないように見える、同じ衣服を身にまとった料理人の男性。苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「そんなに想っていたのなら、なぜ毒なんて盛ろうとしたんだ…!」
「…さっきバンジークスさんが言った通りです。“救世主”、だったかな?苦しみから救い出して、一緒にここから逃げ出すんだ。僕にはもう、これしか思いつかなくて。一番手っ取り早い手段でしょう?」
「ふざけるなッ!苦しませようとしていたことには変わりないじゃないか!解毒薬が効かなかったらどうするつもりだったんだ!」
男性はカナリヤの胸ぐらを掴んで、怒号を浴びせている。カナリヤは一瞬驚いた顔をして、それから目の前の男性を鋭く睨みつけた。
「セレーネ様はお優しい。俺たち料理人にもだ。その優しさに漬け込んでやろうとしていたことは、ただの人殺しだ!恥を知れッ!」
「毒はインドネシアで狩猟のために扱われていたものです。“あなたの家来となり、王子になりましょう”。絶対に助け出せる確信があった。僕はセレーネ様に誓ったんだ」
「……救えるなら、苦しませてもいいって言うのか…?」
今にも殴り掛かりそうな勢いでいる男性を止めようと、近場にいた料理人や使用人が集まっていく。カナリヤは男性の言葉を聞いてクツクツと笑っていた。
「この屋敷で一生苦しむよりは、マシだと思います」
「テメェ…!」
振り上げられた拳を合図に、メイドたちの小さな悲鳴が会議室にこだまする。
「落ち着いてください。詳しいことは署で聞きます」
しかし、その拳が振り下ろされることはなかった。すんでのところで、近寄ったグレグソンに止められたからだ。それでも尚、男性の怒りはおさまりそうにない。男性はカナリヤを掴んでいた手を乱暴に払って、「クソッ!」と舌打ちをしている。
「僕が間違っているとは思わない…全て、セレーネ様を思ってやったことなんだ…」
解放されたカナリヤは警官たちの手によって強制的に引きずられ、会議室から姿を消した。最後まで反省の色が見えないどころか、このまま野放しにしていたら、きっと第2第3の犠牲者が生まれていた可能性もあっただろう。
「……この場にいる、全ての者へ…“頼みたい”ことがある」
残されたバロックは、同じように残された使用人たちへ向かって静かに口を開いた。
「本来は姫・セレーネに毒を盛られる予定だったこと…どうか、本人とベックフォード夫人には…伏せておいてほしい。皆が言うように、姫君はいささか優しすぎるほどに純粋な心を持ちあわせていると、私も感じている。責任を感じた彼女が何をしでかすか、わかったものじゃないだろう」
バロックの言葉を聞いて、使用人たちがざわついた。確かにその通りだ、という声がちらほらと聞こえてくる。その喧騒の中で、例のカートンを運んだというメイドが一歩前に出て固唾を呑んだ。
「…もちろんです。……セレーネ様…気丈に振る舞っていますが、どれだけその心を痛めていることか……。そこに追い打ちは、かけたくありません…」
それに同調するように、使用人たちが力強くうなずく。
「ムンダ様のことは悔やみきれませんが…犯人を見つけてくださって、ありがとうございました」
メイドは瞳を揺らがせて、バロックへ一礼した。後に続いて、使用人全員がバロックに向かって頭を下げる。
「一貴族として……、“検事”として、当然のことです。…ご協力に感謝を」
頭を下げ続ける使用人に対して、バロックも丁寧な動作で頭を垂れた。
4月29日 午前9時32分 ベックフォード邸 客間
セレーネはソワソワと落ち着かない胸のあたりをひとなでして、息を吐いた。目の前には客間の扉がある。その先にいるであろう男のことを考えると妙に焦りを覚えてしまい、扉をノックしようとして、やめて、の繰り返しだ。傍から見たらまごうことなき不審者。セレーネは頭を横に振って、自らを鼓舞するように、置いていた手で胸元をひとつ叩いた。
「……む」
決意したセレーネの気持ちもつゆ知らず。ノックするために上げた手が、開かれた扉の前で空中に取り残される。「あ」と無意識に声を上げて、セレーネは扉の奥から出てきたバロックを見上げた。
「…あの……。は、話が、あるの…中庭に来て」
上げていた手を慌てて引っ込めながら、セレーネはまごまごと口を動かした。謎の緊張感が気持ち悪い。冷や汗が背中を伝う。どうしてそうなっているのかは、セレーネにも理解が出来ていなかった。
「……承知しました」
バロックが静かに言ったのを確認して、セレーネは挨拶もそこそこに客間を後にする。階段を降りるその瞬間まで、背中に視線が刺さっている気がして仕方なかった。口の中もカラカラで、どうしようもなく喉が乾く。どうしてこんなに緊張しているのだろう。セレーネは頭の中をぐるぐると渦巻いている感情に気を取られながらも、ドレスの裾を掴んで、中庭に繋がる階段を駆け下りた。
同日 某時刻 アルテミス・ガーデン
透き通った柔らかな飴色をした紅茶から、ゆるやかに湯気が登っている。小さく薄くカットされたレモンが香るティーカップ。取っ手をつまんで持ち上げたバロックが、少しだけ香りを楽しんでからゆっくりと喉に流し込む様子を、セレーネは難しそうな表情で見つめていた。
「…どう?」
カップの縁から口を離したバロックと目が合う。全てを見透かしてきそうなアクアブルーの瞳。なぜだか目がそらせなくて、セレーネは身を乗り出すような気持ちで返答を待った。
「……美味い」
「よかった!初めてちゃんと自分で淹れたのよ」
ソーサーに置かれたカップを持ち上げて、自分でも飲んでみる。口当たりのいい優しい甘みが広がって、セレーネは思わず「んー!」と声を上げた。我ながら上出来だ。
「それで、話というのは…」
口の中に含んだロシアンティーを飲み干して、カップをソーサーに戻す。視線を上げた先には、なんとなく話の内容を察しているのか、かすかに眉根を寄せたバロックがいた。
「…お父様に毒を盛った犯人が、あなたのおかげで捕まったって聞いたから。お礼を言おうと思ったの」
犯人の名前は聞いていないけど、とこぼすセレーネ。ソーサーに乗ったカップの取っ手を、意味もなく握ってさする。昔からの悪い癖だ。真面目な話は相手の目を見て、姿勢を正してするものだ、と父から教わってきたのに。すぐに手遊びをしてしまう。
セレーネはテーブルから手を退けて、膝の上で交差させた。それから、しっかりと相手の目を見て、テーブルに髪がかからないくらいの距離を保って、ゆっくりと会釈する。
「本当に、ありがとうございます」
バロックはゆっくりと首を振った。
「礼を言われるようなことはしていません。“休止中”とはいえ、私は検事です。その仕事をしたまで」
だから顔を上げてください、と言われて、セレーネがおずおずと頭を上げた。バロックはどこか悲しげな表情を浮かべて、セレーネの瞳を見つめた。
「…それに……今回の事件、もしかしたら未然に防げたかも知れなかったのです。私の…力不足でした。申し訳ございません」
立ち上がったバロックが、腰を90度折り曲げて頭を下げる。検事として思うところがあったのだろうか。伏せられた瞼を静かに見据えて、セレーネは唇を噛み締めた。
「……もしそうだったとしても、もう起こってしまったことだから…。今更、あなたを責めるつもりはないわ。それから…謝るべきは私のほうなの」
体を使って椅子を後方に下げたセレーネが、ゆっくりと立ち上がって、バロックの肩に触れた。体を起こしてほしいという意思が伝わったのだろう、上体を起こしたバロックが静かにセレーネを見下ろす。許されなくてもいい。自分が相手の立場だったら、きっと簡単に許すことは難しいと思うから。セレーネは今度こそ、しっかりとその瞳に真剣な眼差しを送った。
「…あなたに対して非常に苛辣で甚だしい態度を取ってしまったこと。不快な思いをさせてしまったこと。…謝ります。本当に、ごめんなさい…」
バロックは深々と下げたセレーネの頭を見つめている。息が詰まる思いだ。許してほしいと思っているわけではないのに、心のどこかで安寧を求めている。いつからこんなに傲慢になったのだろう。刺すような視線を頭に受けながら、セレーネはバロックから見えない位置で小さく、祈るように指を組んだ。
「……本心ではないことには、気付いていました」
その言葉を聞いて、思わず顔を上げる。セレーネより頭ふたつ分ほど背の高いバロック。いざ目の前に立たれるとその迫力に息も止まりそうになるが、セレーネはバロックの瞳の奥に揺らぐかすかな灯火を見つけて息を呑んだ。
「私には、“オールドベイリー”の《死神》という異名があります」
「え…?《死神》…?」
静かにうなずくバロック。
「私が法廷に立った裁判では、被告人が《無罪》判決でも…不可思議な死を遂げるという噂が立っているのです」
「…なるほど、それで死神なのね…」
「私はそれについて心当たりはありません。ですが、《死神》という異名のせいで…恨みを買って、命を狙われたことが何度かあります」
言わんとしていることがわかって、セレーネは眉根を寄せながらうつむいた。心にもない、想像も絶するような罵詈雑言を浴びて、彼は生きてきたのだろう。だからといって、自分が発してきた言葉がかわいいものになるというわけではない。下手をしたら、その命をも奪おうとした悪党と同じ立場に立っていたのかもしれないのだ。本心ではないとはいえ、人として最低な行いをしていた自分を恥じて、悔いた。
「本気で暴言を吐いて悪態をついているのかどうかは、相手の表情でわかる。貴公からは憎しみを感じなかった。……私に嫌われようとしている意思は感じましたが」
「…ごめんなさい…」
セレーネは肩をすくめて縮こまった。酷いことを言っていたのにも関わらず、あの料理人の手から助けてくれたこと。父・ムンダを殺害した犯人を、率先して見つけてくれたこと。それだけじゃない。同じ家にいるとしても姿を見せるな、などという無理難題にも彼は応えていたのだ。申し訳ないと思わない人間は存在するのだろうか。セレーネは張り裂けそうになる胸をおさえて、震える唇から息を漏らした。
「少なくとも、私は気にしていません。気にしているのはもう、貴公だけです」
「……あなたが、そう言うなら…」
おそるおそる視線を上げて、相手の顔色を伺うセレーネ。一見すると恐怖すら抱く顔だが、隠しきれない優しさが見え隠れしているようにも見える。バロックは目を伏せて、ひとつうなずいた。
「ありがとう。…あと…その…。話は、もうひとつあって…」
急に歯切れが悪くなったセレーネに、バロックは表情を変えないまま「なんだろうか?」と答えた。組んだままの指をいくらか緩めて、両手の親指を糸巻きのようにくるくると回す。いつもの手遊びだ。それにハッと気付いたセレーネだが、バロックを見上げる目はどこか泳いでいた。
「…あなたは、……まだ…。結婚する気……ある、かな?…お父様の……最後の“お願い”になってしまったから……叶えたいと思って…」
「…………」
精一杯の思いで切り出したはいいものの、バロックからの返事はない。それどころか、眉ひとつ動かさずにセレーネを見下ろしている。
言ってしまってからだんだんと恥ずかしくなってきたセレーネが、顔を紅潮させて気まずそうに視線を落とした。
「…ごめんなさい、忘れてもらっても…」
「個人的な話になるのだが……」
「う…うん?」
言葉を遮られて、うろたえる。バロックの表情は相変わらずなにひとつ変わっていなかったが、気のせいだろうか、なんとなく物腰が柔らかくなった気がした。
「…私は、貴公に興味が湧いてしまったようだ」
「……え」
目を瞬かせるセレーネ。言葉の続きはあるのだろうか。どういう反応をすればいいのかわからない。様々な感情が頭の中を渦巻いた。
「実の父が突然居なくなっても…気丈に振る舞える強さ。…今もそうだ。昨日の今日で切り替えられるものではない。…跡取りとしての意識が、昔からあったのではないか?」
「…ど。どうだろう…」
言葉が上手く出てこない。無理をしていないと言えば嘘になるが、跡取りとしていつまでもめそめそと泣いているのも違うと思った。それこそが、バロックの言う“強さ”なのだろうか。
悶々と考え込むセレーネの頬を、一瞬、何かが掠めた。それがバロックの手だと気付くのに時間はかからなかった。顔を上げさせられたセレーネの瞳に、バロックが映る。
「強い女性は、好きだ」
「……!」
それ以上は顔を見られなかった。胸の奥がくすぐったいような、むず痒いような気持ちに襲われる。
開け放っていた屋根窓からひとつの風が入り込んで、中庭の低木たちを揺らした。木々たちが擦れる音と共に、淹れたての紅茶の香りが鼻をつく。甘酸っぱいのに、暖かくて落ち着く香り。
一生忘れられない香りになるだろう。セレーネはなんとなくそう思って、柔らかな動作で伸ばされた手に、自らの手を重ねた。
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