〜 08 〜
朝のバンジークス邸。あの日をきっかけに、バンジークスとエスポワールはほぼ毎朝、中庭で手合わせをするようになった。それと同じように、毎朝ふたりを呼びに行く仕事がユリアの日課になっている。いつも通りふたりを呼びに行き、ユリアに向かって歩み寄ってくるエスポワールへ、ユリアも歩み寄った。軽く挨拶をすると、エスポワールも返事をしてくれる。ユリアは微笑んで、そして頭を下げた。
「昨日は本当に失礼しました。エスポワールさんは私のことを考えてくださったんですよね。なのに、私は反対するような行動を取ってしまいました。申し訳ありません」
エスポワールは何も言わずにユリアの前に立つ。ゆっくりと頭を上げたユリアは真剣な表情で、目の前にいるエスポワールを見上げ、聞いて欲しいことがある、と続けた。
「私は、……バロック様だけには、弱いところを見せたくないのです。あの方の前では常に気丈でいたい。心配されるようなことは、してはならないと思っています」
エスポワールは瞼を伏せて、ユリアから視線を逸した。やはり、ユリアのやり方には納得がいっていない様子だ。
「もちろん、“秘書”だから、という理由もあるのですが…。バロック様はただでさえ《死神》の異名に苦しめられているので、余計な不安ごとを増やしたくない、というのが主な理由です。これは私のわがままであり、ただの強がりなのは分かっています。それでも私は、強い人間でありたいと願っているのです」
「…………」
怒ってくれたことは嬉しかった、と付け加えて、ユリアは微笑んだ。エスポワールはその笑顔の意味がわからなくて、拳を握りしめた。あんな目に遭って、あんなにも怖がっていたくせに。
「昨日は、助けに行かなかったら、死んでいたかもしれない」
「……私の代わりならいるでしょうし、私が死んだところで、別に…」
思いもしなかったユリアの返答に、エスポワールは目を見開いた。悲しそうに笑うユリアを見て、悲しみに似たような、怒りにも似たような感情がふつふつと湧き上がってくる。ガーゼをまだ外すことが出来ないその頬を見て、エスポワールはこれでもか、というくらいに両手の拳を握りしめ、どうして、と呟く。
「死んでもいいなんて、言うな」
それではまるで、他人のために生きている。それが、ユリアの思想に対し、エスポワールが出した結論だ。別に、助けてくれたお礼をしてほしい、感謝をしてほしい、と言っているわけではない。ただ純粋に、ユリアが他人のために命を粗末にしているようで、無性に悲しかった。
「そんなの、変だ」
「……そう、ですね。変かもしれません。でも、私にとっては…バロック様の命のほうが大事なのです」
どうしてそこまでするのか、と疑問に思ったところで、エスポワールは気付いた。彼女はバンジークスを溺愛しているわけではなく、“呪縛”にかかっているのではないだろうか、と。それもこれも全て、《死神》が関与しているに違いない。部下に怪我をさせても、平然とした顔でいるバンジークスに“怒り”を覚えながら、どうにかして解き放ってやりたい、という感情がその日、芽生えた。
(……そうだ、どうして。どうして自分はここにいるんだ…何かが思い出せそうで、思い出せない)
“やらなければならないこと”。あの日、船から抜け出して、死にものぐるいでこの倫敦へ来た意味。ずっとずっと頭の中に響いていた“あの声”。なにかを掴めそうで手を伸ばすが、それは見えない壁に阻まれて、弾かれた。その瞬間、頭の奥に鈍い痛みが走る。
「……大丈夫ですか?」
頭を押さえてうなだれるエスポワールに、ユリアが声をかける。すぐ近くで聞こえる声のはずなのに、随分と遠くで聞こえた。
―――― 大英帝国へ行け。そこでお前の《使命》が待っている。 ――――
(シ、メ…イ……。……《使命》だ。《使命》を果たすため……。……どんな《使命》…?)
心配そうに顔を覗き込んで来るユリアを見上げて、エスポワールは深く息を吐く。その肩に手を添えたユリアが、部屋へ戻ろう、と提案を投げかけてくる。その表情と声に、とある“女性”の面影を思い出して、次の瞬間、フラッシュバックした。
薄桃色の“着物”に身を包んだ、ときに自分を支え、ときに励ましてくれた。幼い頃から隣で、わが往く道の手助けをしてくれた。厳しくも、筋の通った勇敢な“女性”。誰かは、分からない。
「ぐうぅっ!」
「エスポワールさん!?」
頭の中で、記憶がゴチャ混ぜになりそうだ。激しい頭痛に襲われて、エスポワールはうめいたあと、膝から崩れた。自分自身を支えきれなくなって、そのまま前へ倒れようとしたとき、咄嗟に動いたユリアがエスポワールの上半身を支えた。薄れゆく意識のなか、ユリアが必死に自分を呼ぶ声が聞こえる。
(どんな《使命》だったかは思い出せない。けれど、ひとつだけ《目標》が出来た。……彼女を“呪縛”から解き放つんだ。そのためには、バロック・バンジークスを…)
「エスポワールさん!エスポワールさん!!そんな…!起きてください!」
ユリアは自身の足を支えにエスポワールの上体を起こして、ぐったりと動かなくなった体を揺すった。仮面の奥にある瞳は強く閉ざされ、こちらの声に反応する気配は微塵も感じられない。少しでも楽な体勢をさせようと、声をかけながら頭を支えた。
「どうした?」
「バロック様…!エスポワールさんが…!」
顔を洗って戻ってきたバンジークスが、ふたりの様子を見て戻ってきた。それに連動するように、通りがかった使用人がただならぬ事態を感じ取り、迅速かつ冷静な判断で、部屋に運ぶための人と、医者を呼んだ。使用人の協力で、エスポワールは自室である客間に搬送される。バンジークスとユリアは今日も仕事が待っているため、エスポワールの容態についても聞く暇がない。ユリアはただ不安そうな顔で、仕事の準備を始めた。
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