〜 07 〜
頬の腫れは引いたものの、内出血が酷く、目も当てられない状態になってしまった。見ていて気持ちのいいものではないことは確かなのでガーゼで隠すようにしたが、大袈裟なほど目立ってしまい、ユリアは気落ちする。呆れているバンジークスの顔や、目も合わせてくれなくなったエスポワールのことを思い出して、ユリアは盛大なため息を吐きながら、机に突っ伏した。
「お役に立てないくらいなら、いっそ死にたい…」
顔を横に向けると、制作中の模型の一部が目に入った。“万博”は楽しみだ。建設中の“水晶塔”を見かけるたびにそれはそれは心が浮足立つほど、期待を胸に膨らませている。“模型”を作らせてもらえると決まったときはとても嬉しかったのに、“模型”を見るたびに今日の事を思い出してしまいそうで、とても悲しかった。
(それにしてもエスポワールさん、あんなに感情を露わにするなんて…)
仮面を付けているせいもあるが、彼は感情をあまり表に出さない人だと思っていた節がある。それが今日、バンジークス相手にあそこまで“怒り”を見せていた。手を力強く振り払われたときのことが忘れられない。そんなとき、ふとユリアは思った。
“怒り”という感情も忘れていたというなら、エスポワールはあの瞬間、“怒り”という感情を思い出したことになるのではないか、と。もしそうなのだとしたら、全ての“記憶”を取り戻すのも、時間の問題ではないだろうか。
(……記憶を取り戻したら、きっとそのときはお別れよね。ちょっと寂しいかも…)
検事として育てるというのも、“記憶”がないからこその話なのだとしたら、全てを思い出したエスポワールは検事局から去ってしまうだろう。せっかく仲良くなれたのに、とユリアは残念に思って、それから、あくまで仮定の話だ、と考えるのをやめた。
(今日のことで、嫌われてないといいな…)
ランプに灯った火がユリアの心情を表すように揺れる。ユリアは窓の外をぼんやりと見つめて、明日になったら謝ろう、と決心を決めた。
夜の静まり返った空気の中を、虫たちが合奏している。屋敷の外れにある、使用人たちが住まう寮に、バンジークスは足を踏み入れた。屋内に入ると寮内はしん、と静まり返っていて、大勢の人間がいる空間のはずなのに、物音ひとつ聞こえない。誰か人はいないだろうか、と灯りの漏れる場所に歩みを進めると、ユリアと同じくらいの容姿をしたメイドが手持ちのランプを片手に出てきて、バンジークスの姿を認めた瞬間、足止めを食らったかのように立ち止まった。
「バロック様、何故このようなところに…。どうかなさいましたか?」
「ユリアの、部屋の場所を知りたい」
メイドは、ああ…そういうことですか、と声をもらして、道案内を始めた。質素な作りのこの建物は、廊下の照明も十分になく、手元のランプがないと足場がわからないくらいの暗さだ。メイドは足元に気をつけて、とバンジークスに声をかけながら、階段を登っていく。やがて辿り着いたひとつの部屋の前で、メイドが足を止めた。メイドが会釈するのと同時に、バンジークスは、助かった、と礼を述べた。
メイドが立ち去ったのちに、バンジークスが部屋の扉を控えめにノックする。が、数秒ほど待っても中から返事はなく、聞こえなかったのかもしれない、ともう一度ノックした。扉の下にある隙間からは明かりが漏れているため、まだ起きているのは確実だ。いくら部下とはいえ、女性の部屋の扉を許可なしに開けるのは…、とも考えたが、用件を済ませてしまいたい気持ちのほうがまさっている。ノブに手をかけてゆっくりと捻ると、その扉はいとも簡単に他人の侵入を許してしまったのだった。
「…………」
中の様子を伺うと、いつものきっちりとした格好からは想像もつかない、随分とラフな格好で机に突伏しているユリアの背中が見えた。あんなに周囲へ気を遣うのに、自己管理が行き届いていないのはいかがなものか、とバンジークスは呆れて、部屋に入りながら後ろ手に扉を締めた。物音がしても起き上がらないユリアに、こんなところで寝るな、という意味合いを込めて肩を揺する。ゆっくりとした動作で顔を起こしたユリアが、目をこすりながら人の気配のするほうに振り返った。
「………えっ!?バッ!!バロック様!?い、い、いかがいたしましたか!?お、お仕事でしょうか!?」
ガタガタと音を立ててユリアが立ち上がり、髪を手で無造作にまとめる。髪留めをどこにやったか、とあたりを見るユリアに、バンジークスは、落ち着け、と手で制した。
「そうではない、楽にしてくれ」
まとめた髪を手で押さえたまま、ユリアはバンジークスを困惑の表情で見つめた。左頬を覆うようにして貼られたガーゼが痛々しい。
「まだ痛むか?」
「いえ、触れなければ痛みは感じないので、平気です」
まさか、心配をかけてしまったのか?とユリアは申し訳なさそうな顔で見つめた。バンジークスはそんなユリアの視線を受けて、ひとつ息をつくと、視線を外した。
「……いつも、助かっている」
「…え?」
ユリアは自分の耳を疑った。どこかを見つめながら、頭の中で言葉を必死に探しているような様子のバンジークスに、更に困惑する。バンジークスはしばらくそうしたあと、言葉が見つかったような面持ちで、ユリアを見つめた。
「おまえのおかげで仕事が円滑に進む。その礼を言いに来た」
呆然としたユリアが瞬きもせずにバンジークスを見た。居心地が悪くなったバンジークスが扉を振り返って、逃げるように「以上だ」と口にする。ハッ、と我に返ったユリアが出ていこうとするバンジークスの背中に声をかけた。
「お、お送りします!」
「いらぬ」
かぶせるように投げ捨てた言葉を最後に、バンジークスが部屋と扉を開けて出ていく。ユリアはあとを追うようにして部屋から顔を出した。
「ありがとうございます、バロック様。また明日からも、がんばりますので!」
「いいからとっとと休め」
振り返りもせずに、バンジークスは部屋から遠ざかっていった。その足音が階段を降りていき、やがて聞こえなくなると、ユリアは開け放っていた自室の扉をゆっくり締めて、それから、扉に額を落ち着ける。
「……夢?」
ユリアは思い切って、そのままの体勢から頭を扉に打ち付けてみた。痛い上に、扉はガタガタとうるさい。体を起こして、額をさすりながら部屋の中へと戻っていく。バンジークスに言われた言葉を頭の中で何度も繰り返していくうちに、頬がみるみると緩んでいった。
(嬉しい…!お役に立ててるだけでも嬉しいのに!今日は本当にいい日!)
くるくると踊るようにして喜び、舞い上がっていると、不意に左頬へ激痛が走ってユリアは顔をしかめた。調子に乗りすぎる前に、バンジークスが言うようにさっさと休んだほうがいいかもしれない。
(あとは、エスポワールさんにしっかり謝らないと……)
一気に落ち着きを取り戻したユリアは明日の準備と就寝の準備を始めた。きっと明日も忙しくなる。朝一の仕事を確認すると、ユリアはいつもよりも力いっぱいに気合を入れて、予定がびっしりと書かれた予定帳を閉じた。
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