第1章・1−5 

 男子生徒は嘲けるような笑いを露骨に浮かべた。三日月型に細められた目から、強烈な邪心を感じる。
「あんた、アタマ大丈夫?」
 ひとさし指をこめかみに当て、男子生徒はゆるやかに首をかしげた。
 妙に芝居がかった動作だけれど、顔立ちそのものが冷たい男子生徒には似合っていた。バカにされているのに、魅力さえ感じてしまう。

「心配してくれてありがとう」
 相手に対抗してわざとらしい笑顔を心がけながら、私は耳ざわりのいい声音で返した。涼しい顔を保ち続けるのは、相手に対する強力なイヤミにもなりうる。
 私の返答と同時に、男子生徒の片眉が跳ねあがった。
「……本当に大丈夫なんだな?」
 男子生徒は確認するように、もう一度私に問いかけてきた。
「大丈夫」と私が眉ひとつ動かさずにうなずくと、男子生徒の笑みが色濃くなる。屈折した、暗いほほえみだった。
 男性との表情の変化を見た途端、私の心に警戒心が広がった。まるで、水面に墨汁を一滴落としたように。
 男子生徒がなにか企んでいるように見えるのは、私が自意識過剰なせいだろうか?

「じゃあ、そろそろいいかげん蔵書点検に戻ってよ」
 男子生徒は私に命じながら、こめかみに当てていた手を下ろした。私の返答を待たず、男子生徒は私の襟元に向かって、片手を迷いなく伸ばしてきた。
「え……な、なに?」
 危機を感じた私はうわずった声をあげ、あわてて身を引いた。
 後頭部と背中が書架に勢いよくぶつかる。はしごの上にいるせいで、どこにも逃げ場がなかった。

 どうするべきか私がとまどっている隙に、男子生徒は私の短めな角タイの先をすばやくつかんだ。
 角タイが引っ張られたせいで、首周りにぎゅっと圧力がかかる。一瞬、息が詰まった。でも、我慢できないほど苦しいわけではない。
 私は自分の胸元を、そろそろと見下ろす。顔を少し動かすだけで、狭められた襟が首筋にこすれて、背筋がぞっとした。
 深緑色の角タイに、男子生徒の筋張った白い手が巻きついている。妙につややかな手の甲がヘビの皮のようで、少し不気味だった。
 ……なにをするつもりなんだろう。
 私は身を固くしながら、男子生徒の顔を注視した。

「さっさとはしごから降りろ」
 男子生徒は薄い笑みを浮かべながら、きっぱりとした声調で私に命令してきた。
 妙に高圧的な発言に、思わず腹の底がぐらりと熱くなる。
 でも、同級生に命令されたくらいで、簡単に動く私ではない。おとなしく相手の言いつけ通りに行動する気なんて、さらさらなかった。
 リードに引きずられる犬のように、むりやりはしごから下ろされるのは、いくらプライドの低い私でも屈辱的だ。一般的な女子高生なら憤死しかねない。
 たぶん、男子生徒もわかっていてやっているのだろうけれど。

「うーん、どうしようかなぁ」
 私は男子生徒に反撃するために、楽しげな調子で相手を焦らした。相手の神経を逆なでして、相手が腹を立てたところを、こちらのペースに引き込むのが目的だ。
「はしごから降りる気がないんだったら、むりやり降ろしてあげるけど?」
 男子生徒は私の顔を真正面から直視しながら目を細め、私の角タイを乱暴に引っぱった。相手の面持ちは相変わらず冷淡で、私の挑発に乗った様子は見られない。
 まずいなぁ、と私は内心青くなる。でも、どう対処すればいいのかわからなかった。

 男子生徒は細身なのに、思いのほか力が強かった。
 相手に引き寄せられるがままに、私は前かがみになってしまう。たぶん、男子生徒も一応手加減はしているのだろうけど。
 ピンと張ったタイに、左右の頸動脈がきゅっと絞め上げられた。
 太い血管の血流がせき止められている感覚に、身の毛がよだつ。怖気が首筋から背筋へと広がり、寒くもないのに肩が震えた。
 大嫌いな感覚に、頭の芯が急激に冷たくなっていった。顔面からも、さぁっと血の気が引いていく。
 私は吐き気を抑え込みながら、男子生徒にきついまなざしを向けた。
 首元を締めつけられるのが苦手だから、わざとタイを緩めに結んでいるのに。男子生徒は私の努力をムダにするつもりなのだろうか。

 私の引きつった表情を見て、男子生徒はますます笑みの色を濃くした。私の角タイをてのひらに巻きつけ、私の上半身を遠慮なくたぐり寄せていく。
「……ネクタイの正しい利用法を知っているあたり、なかなか嗜虐的な性格ね」
 むりやり口の端を吊り上げ、私は男子生徒に毒づいた。強烈な不快感に襲われているせいで、声がかすかに揺れていた。
 相手をあおるつもりだったのに、逆に余裕のなさを露呈してしまったかもしれない。

 男子生徒は憫笑を浮かべながら、私に顔を寄せてきた。乾いたせっけんのにおいが、鼻腔に流れこんでくる。
 顔周りの血の巡りが悪くなったせいか、舌の付け根がピリピリとした。
「あんたにはしごの上から見下ろされてて、ちょっとイライラしてたんだ」
「……だったらそれを先に言えばいいのに」
 息苦しさに落ち着きをなくしつつあった私は、わずかに語尾を荒らげてしまった。でも、なにか喋っていなければ、精神的なゆとりがますますなくなってしまいそうだった。
「言ってくれなきゃわかんないって」
 強気な発言をしたけれども、声がかすれていた。必死に息を吸っているはずなのに、酸素が肺に入ってこなかった。このままだと、過呼吸になってしまうかもしれない。

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