第2章・1−3
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私は城戸の机の前に回り込んで、城戸の肩にそっと手を伸ばした。
なぜか、小学生時代の記憶が脳裏によみがえった。夏草の先に止まっているトンボに背後から近づいて、透明な羽をつまんだときの思い出。
ハラハラドキドキしながらトンボを捕まえようとした過去と、城戸に触れようとする現在が、頭のなかで重なる。
私の指先が、城戸に触れた。
途端、城戸の肩がびくんと跳ね上がった。
驚いた私は、あやうく手を引っ込めて飛び退きそうになった。けれども、なんとか踏みとどまって、城戸の肩に手を置き続ける。
城戸の体温が、カッターシャツ越しに、じんわりと私のてのひらに伝わってきた。なんとなくしあわせなぬくもりだ。
「だ、だれ?」
ひっくり返った声を上げながら、弾かれたように城戸が顔を上げた。
城戸の黒々とした瞳と、私の視線が重なる。地味に顔と顔との距離が近いから、城戸の虹彩に、私の姿が写っているのが確認できた。
私は二、三度まばたきしてから、心拍数を元に戻すために小さく息を吸い込んだ。
「やあ、城戸。今日もかっこいいねぇ」
のどかな調子で挨拶をしながら、ニッと口の端を吊り上げてみた。
透明な手にこじ開けられたかのように、城戸の目が極限まで見開かれる。
「さ、笹? なんでここに……」
「そんなにびっくりしなくてもいいのに。私はただ、城戸の顔を見に来ただけ」
私は軽く肩をすくめながら、にこやかに城戸に言葉を返した。城戸の大げさすぎる驚きように、私もいささか面食らっていた。
普段、城戸は休み時間に、他人から話しかけられたりしないのだろうか。……しないのかもしれない。
狼狽する城戸からは、話しかけられ慣れていない雰囲気がひしひしと伝わってくる。
さっき、脇目もふらずに本を読んでいたのも、昼休みにだれからも声をかけられないと確信していたからだろう。
城戸は私を見上げながらたっぷり数秒固まった後、突然、私の手を高速で払いのけた。
ぺちんと小気味よい音を立てて、私のてのひらが城戸の肩から吹っ飛ばされた。城戸も手加減はしているのか、痛くはなかった。
ちなみに、私は痛いのも嫌いではない。口にしたら、城戸にヘンタイ呼ばわりされそうだから、黙っているけれど。
私は払われたばかりの手の甲を、もう片方の手でさすった。
あまりに軽すぎる殴打に、ネコにパンチを食らわされたような気分になった。
ネコパンチは、いい音がするわりに威力がない。つまり、城戸パンチはネコパンチと同質なのだ。まあ、城戸はネコほど余裕のある生き物には見えないけれど。
私は別に顔面を殴られたわけではないのに、あえて払われた手を頬に当ててみた。ショックを受けたような表情を作りながら、城戸を凝視する。
「……やだ、親にも殴られたことないのに」
弟と幼なじみと小学生のころのクラスメイトに、顔面を殴られた経験ならあるけれど。
精神的にダメージを受けたふりをしている私を尻目に、城戸はすばやく本を閉じた。薄い鉄の仮面をかぶったかのような無表情で、冷たい瞳を向けてくる。
……やっぱりだまされないか。私はこっそりと舌打ちをした。
「帰れ」
城戸は一言一言がはっきりとした発音で、私に強く命じてきた。キリのようにとがった視線は、私を強く拒絶している。
私は相手に怯むことなく、不敵な笑みをこぼした。
「帰れって言われて、すぐに帰ると思う?」
すかさず城戸に問い返してみた。自分の教室に戻る意思がまったくないことの表明だ。
城戸は片手でこめかみを押さえ、
「やっぱりそうくるか……」
と低い声でうめいた。みるみる間に、城戸の眉間にしわが寄っていく。
どうやら、たった一言で私があっさり引き下がるわけがないと、城戸も想定していたようだ。
今までにたった二回とはいえ、ふたりきりで濃厚な時間をすごしたおかげで、城戸も多少は私とのやりとりに慣れてきたのかもしれない。
私の城戸に対する熱烈かつ強引な絡みは、私について城戸に理解させる上で、無駄ではなかったみたいだ。
「『やっぱり』って、私のこと、少しはわかってくれたの?」
私は顔をほころばせながら、城戸にさらなる問を重ねた。うれしがっている気配を言外に漂わせながら、小首をかしげてみる。
「……まさか」
城戸は私の問を鼻で笑った。
「別に、あんたのことを理解していなくても、会話のパターンくらいは覚えられるだろ?」
酷薄な笑みを浮かべながら、私に確認してくる。
「そんな……城戸が私のこと、覚えてくれていただなんて」
私は感極まったふりをしながら、両手で顔の下半分を覆った。照れたように、上半身をくねくねとさせてみる。
あっという間に、城戸の嘲笑が渋面へと変わった。イヤミの達人である城戸にとっても、他人からの当てこすりは不愉快らしい。