第1章・1−8 

 男子生徒は薄ら笑いを顔に貼りつけながら、ゆっくりと口を開いた。
「いつまでもバカなことを言ってると……」
 次の瞬間、脇腹を細く硬いもので突っつかれた。
 男子生徒の硬い指先が、私のやわらかい部位を的確に攻めている。くすぐったさが胴部全体に広がり、背筋がぞわついた。
 私は声にならない叫びをあげた。腹筋がひくひくと震え、すぐに居ても立ってもいられなくなる。
 床に手をつき、全速力で飛び起きた。身をよじりながら、一目散に男子生徒の上から退いた。
 途中、膝で男子生徒の身体のどこかを踏んでしまったような気がする。けれど、気にしている余裕なんてない。
 私は床を転がるように這いつくばり、男子生徒の手の届かないところまで逃れた。
 たった一瞬の出来事だったのに、気がつくと私は肩で息をしていた。

 私は床に尻をつきながら、男子生徒に柄にもなくキッと強い視線を向けた。
「わ、脇腹を狙うのは反則だって!」
 いまだに脇腹にむずがゆさが残っていて、気持ちが悪い。脇腹をくすぐられるのは苦手だった。
「うっさいな。ここ、図書室なんだけど」
 男子生徒は苦虫をかみつぶしたような顔をしながら、のろのろと身を起こす。床に片膝をついた体勢で、みぞおちを押さえながら私をにらみ返してきた。
 やっぱり、私は男子生徒を踏みつけていたらしい。
 図らずとも男子生徒に一撃を与えていた事実によって、くすぐられたせいで荒ぶっていた私の心は落ち着きを取り戻した。

 男子生徒は片膝を立てた体勢で、深々と長いため息をついた。
「反則もクソもあるかよ。あんたウザすぎ」
「うん、よく言われる」
 私は力強く男子生徒の言葉を肯定した。
 実際は、気心の知れている幼なじみ以外からは、ウザイとはあまり言われないけれど。友だちとつるんでいるときの私は、かなり泰然自若としていると思う。
 男子生徒は憮然としながら額を押さえた。「付き合ってられねー……」とこれみがよしにぼやいた。
 私の胸のなかに、なんだか釈然としない気持ちがわきあがってくる。
「最初に私に絡んできたのはキミのほうでしょ……」
 私も男子生徒に呆れ返りながら、ちょっとした文句をこぼした。
 まあ、相手の態度に対して度しがたい気持ちになるのは、お互いさまだと思うけれど。

 いつまでも地べたに座り込んでいるのもなんだから、私はゆっくり立ち上がった。試しに背筋を伸ばしてみると、まだちょっと腰が痛かった。
 鎖骨あたりまで伸びた髪が乱れていたから、跳ねた髪をてのひらで軽くなでつけておいた。ついでに、耳の上に付けた花型の髪飾りの位置も直す。
 胸元を見下ろすと、角タイがほどけかけていた。たぶん、男子生徒に強く引っぱられたせいだ。
 私は角タイを結び直しながら、男子生徒の脇に歩み寄ろうと、無造作に足を踏み出した。角タイを整えるのに夢中で、足元なんて確認せずに。それがいけなかった。

 ぱりんと、床から硬質な音が聞こえてきた。薄いプラスチック板が割れるような音。うわばきの底から、なにかを踏みつけたような異物感が伝わってくる。
 私はとっさに足を止めた。
 謎の破壊音は、男子生徒の耳にも届いたらしい。男子生徒は「あ……」と間の抜けた声をあげた。ぽかんとした表情で、私の足元をじっと見つめている。
「今、私、なにか踏んだよね……?」
 私は覇気のない声で、だれかに問うわけでもなく疑問を口にした。
 男子生徒は返事をしてくれなかった。ただひたすら、謎の音の発生源を注視している。
 いやな予感を覚えながら、私はおそるおそる片足を上げた。

 足の下から、眼鏡が現れた。いや、「眼鏡の残骸」のほうが正しい。
「うわぁ……」
 私は動揺して、変な声を上げてしまった。
 案の定とはいえ、電撃を食らったかのように心臓が震えあがった。じわりと、てのひらや髪の生え際に汗がにじみでてくる。身体が熱いのか冷たいのかよくわからない。
「……僕の眼鏡」
 男子生徒の魂が抜けたような声が聞こえてきた。さっきまでハリがあったのに、一気に五十歳くらい老けてしまったかのような声だった。
 どうやら、私が眼鏡を壊してしまった事実は、男子生徒の精神に大ダメージを与えてしまったらしい。
 けれども、私は男子生徒に対して、なんの反応もできなかった。謝ることも、取りつくろうことも。眼鏡の残骸を見下ろしたまま、凍りついて動けなかった。

 男子生徒の顔の一部だった眼鏡は、たった一回踏んづけただけなのに、見る影もなく破壊されていた。
 細い黒縁のフレームは、あちこちが折れ曲がってぺったんこになっていた。細長い楕円形だったレンズも、バキバキに割れている。
 さっき、男子生徒に脇腹をつっつかれて床を転がったときは、運よく眼鏡をつぶさずに済んだみたいだけれど。
 結局、私の不注意で、男子生徒の眼鏡を壊してしまった。

 私はビクビクとしながら、ゆっくりと男子生徒を見やる。男子生徒の表情を確認するのが怖かった。
 床に屈みこんだ男子生徒は、両手で頭を抱え込んでいた。私を罵倒してこないあたり、相当落ち込んでいるのかもしれない。
「ごめん……」
 気持ちが沈んでいくのを自覚しながら、私はぼそりと小さな声で謝った。私の謝罪が相手に届いたかどうかは、まったくわからない。
 男子生徒はしゃがみこんだまま、かつて眼鏡だった物体をじっと見つめていた。私の声に、なんの反応も示さない。
 いくら待っても男子生徒が私を責めてこないあたり、なんだか不気味だ。嵐の前の静けさに似ている。
 相手に責められないと、かえって居心地が悪くてしょうがなかった。なんでもいいから行動を起こさないと、頭のなかがぐちゃぐちゃになってしまいそうだった。

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