01


実は密かに癒しにしていたお隣さんが引っ越してから一ヶ月が経った。
ボロいアパートだけど立地は悪くないし、家賃も安い。上京してから初めて住んだこの部屋にそれなりの愛着はあるが、お隣さんが来てからは更に好きになっていたのに。落胆しつつも、ここ一年ほどでよく見かけるようになった高級車とそれに乗って現れる高身長なイケメンを思い出すと仕方がないと諦めもつく。

一度だけ、ヤバそうな男に連れられて出ていったところを見かけた時は声をかけようか迷ったが、もしトラブルに巻き込まれでもしたらと、小心者な俺は結局何もすることができなかった。
そしてそれから1週間は、お隣さんの生活音が聞こえずに内心ハラハラしていた。あのイケメンと戻ってきて普通に暮らしてるのがわかってかなり安心したのと、罪悪感が薄らいだ。


今日も今日とて、終電になんとか間に合ってまばらに開いた座席に座る。
寝不足と疲れで頭をふらふらと揺らしながら帰宅をする俺が勤める会社は、所謂ブラック企業というやつだ。残業時間が毎月80時間なんてザラだし、なんなら俺は今月100時間を達成したところだ。更には上司からのパワハラもすごく、熱は39度を超えてからだとか、残業しなきゃならないのは自分の力不足だとか。理不尽この上ないことをしょっちゅう言われる。それに給料も残業を考えるとだいぶ安く、体調を崩して辞めていく人が後を絶たない。
毎日毎日、転職したい、しなければと考えてはいるもののそんな時間も気力もない俺は、ズルズルと今の会社に居続けている。

「ギャハハハ!まじかよ!やべえな!!」

回らない頭で、俺は一生このまま生きていくのか、と自問自答していると、優先席に大きく足を広げて座る若い男が大声で電話をし始めた。なんとも頭に響く声だ。まぁ、この時間に優先席を必要としてる人はいないだろうから、まだいい。小心者の俺は、注意しないことの理由を正当化して目を閉じた。いや、閉じようとした。
ガァン!!と大きな音が車両の中に鳴り響いた。
今にも寝落ちしようとしていた俺の身体は意に反してビクッと大きくはね上がり、隣に座っていた恰幅のいいサラリーマンにジトリと睨まれてしまった。

すみません、と頭を下げて横目に優先席の方を見ると、スーツを着た長身の男が長い足を、電話をしていた男の顔の横につけていた。なんと伸縮性のあるスーツだろうと、どうでもいいことを考えていると間延びした声が耳に入る。

「お兄さーん。ここ、お家じゃないですからね〜?オトモダチと電話しながらじゃないと寂しくて電車乗れないのかな〜?」

なんともゆるく、柔らかい話し方だというのに言葉の棘が凄まじい。
案の定、電話をしていた男はスマホをポッケにしまうとすぐに立ち上がって隣の車両へと逃げていった。

かっこいい。俺にはできなかった注意をいとも簡単にしたスーツの男は、足を下ろして連結部分のドアに背を預けた。ずっと見ていた俺だったが、スーツの男を正面から見てすぐに視線を外した。
横から見た限りでは、細身の、普通のスーツに見えたんだ。しかし、正面から見てみれば中に来ているシャツは襟の大きい柄シャツ、もちろんネクタイはしていない。それによく見てみればスーツにも光沢のある柄が入っている。そして極め付けは彼の目だ。あの目でさっきの若い男は注意されていたのだとしたら、そりゃあすぐにでも逃げ出すだろう。それほどに鋭い目つきだった。見ていたことがバレて目が合っていたらどうなっていたことだろうか。明らかに、一般人ではなかった。

というか、ヤクザって電車乗るんだ。また関係ないことを考えていると、降りる駅まであと一駅だった。すっかり冷めた眠気とバクバクと激しく打つ心臓の音に落ち着かない。バッグをぎゅっと抱きしめて駅に着いた瞬間席を立った。
開く方のドアに向かおうとした時、スーツの男がドアから背を離して外を眺め、長い足を一歩踏み出した。まじか、同じとこで降りるのかよ。早く開けとドアにピッタリと身体をくっつけて開いた瞬間、ダッシュで改札へ向かった。疲れと寝不足の体には堪えるが、それよりも精神状況の方が大事だ。

改札につき、いざ出よう!とした時、ポッケに手を入れるが定期券が見つからない。
端によってカバンを漁るが一向に見つからないそれに、肩を落とす。仕方ない、と駅員室に向かうため立ち上がったところで足音と、男の声が聞こえた。

「ふざけんなよオヤジ、俺今日車使うって言っただろうが。あ?・・・マサノブが?なんだよ早く言えよ。じゃあ仕方ねえわ。おう。明日な、わかってるって。へーへー。ちゃぁんと行きますよー」

電話をしているらしい男の声がどんどん近づいてきて、立ち上がったはいいものの一歩を踏み出せずにいると、ポンッと肩を叩かれた。

「ひっ!・・・あ、え?」

身体を大きく揺らして後ずさりながら振り返ると先ほどの男が立っていた。俺の目の前に手をあげてゆらゆらと揺らしている。そしてその手には無くしたと思っていた定期券が握られていた。

「お兄さん、めっちゃ急いでましたね〜?これ、落としてましたよ〜」

はい、と言って差し出された定期券をポケッと眺めていると、軽く笑った男は俺の手を取って定期券を握らせてきた。あ、と思った時には男の手は離れていて、俺の肩をポンッと再び叩いて改札を出て行った。

流れるような彼の動作に見惚れてしまい、多分5分はその場に固まっていたと思う。我に返った俺は急いで改札を抜けて、バス乗り場へ向かった。

終電で帰ると、最後のバスが発車するまで7分しかないのをすっかり忘れていた。ほぼ毎日終電まで残業して帰るというサイクルだった為、イレギュラーなことがあった今日はよく走っているなと、急がなければならないのに考えてしまう。
ようやく、バス停が見えたところで俺の足はピタッと止まった。バス停から発車して30秒ほどだろうか。いつも乗っている最終のバスが少し先の信号で停車するのが目に入った。

何をやってるんだろう、俺は。
なんだか無性に泣きたくなって、もうバスの来ないバス停のベンチに腰掛けた。

ここが極寒の国だったら、外で寝てしまうと死んでしまうほど寒い夜だったら。くだらない事を考えている自覚はあるが、このままここで眠ってしまおうかと本気で思う。

さっきは泣きたいと思っていたのに、涙を出すことすらできないらしい俺の身体は、生きていると言えるのだろうか。
ジリジリと心が蝕まれているのは大分前から感じていた。こんな会社に勤めてしまったのが運の尽きだと飽きためたのも大分前だ。

死んでしまおうと、考えたことはなかった。故郷にいる歳の離れた兄妹たちはまだ金がかかる歳だし、俺が死んだら両親は自分たちを責めるだろう。
今俺が生きて、働いている理由はそれだけだった。家族に辛い思いはさせたくない。それに、金がいる。

よし、と上京してから何度目か分からないほどの言葉を口にしてベンチから立ち上がり、俺は愛着のあるボロアパートへと足を進めた。



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