09


尋之さんに送ってもらい、なんとか8時20分にはデスクについた俺は、まだ来ていない上司に胸をホッとなでおろした。椅子に座って書類を整理していると、昨日より幾分か顔色が良くなった隣の席の先輩に声をかけられた。

「晴海、昨日帰んの早かったじゃん。理由、それ?」

先輩が指差した方向には俺の身体、きっとこのスーツのことだろうと理解するのは難しくなかった。ただ、理由は別にあるためになんと言おうか悩んでいると無言は肯定と捉えた先輩が先に口を開いた。

「めちゃくちゃ高そうだなーそれ。奮発したな。何、ついにお前も転職すんのか?」

苦笑いしながらも理由はわかるといった顔でそう言った先輩の疲れ切った表情に勢いよく首を振った。

「違います違います!ちょっと、気分転換?で」
「なんで疑問形?ま、限界きたら早めに逃げるのが利口だよなー。俺は完全に逃した」

そういって乾いた笑いを吐き出した先輩はPCに顔を向けて作業を再開した。
俺も、先輩も、この会社に心をだいぶ蝕まれている。口を開けば逃げることすらできない自分への揶揄を飛ばして、卑屈になり、最終的にはどうすることもできないと諦める。
そんな会話をしながらもなんとか生きている俺たちは、いったいなんのために働いているんだろうか。

今朝、穏やかだった心はたった数分でブラック企業に勤めることへの不満と不安、絶望にかき消されていく。

『頑張ってるね、偉いね』と言ってくれた尋之さんの言葉と笑顔を思い出して、なんとか気持ちを奮い立たせながらPCの電源を入れたところで、きっかり始業時間に出勤してきた上司が声を荒げながらデスクに向かう。

「おい!昨日俺に資料送ったの誰だ!!」

昨日、部長に資料を送らなければと、確か顔を青くしながら頑張っていたのは他でもない隣に座る先輩だったと横をチラッと見れば、案の定血の気が失せた顔でデスクからゆっくりと立ち上がっていた。

「すみません、私、です」
「ああ、お前か!なんだあの資料は!!まともにまとめることもできねえのか!一時間もあればあんなもんできるだろうが!!今から30分で作り直せ!いいな!」
「はい、すみませんでした・・・」

何が駄目なのか、改善すべき点は一つも上げずにただただ怒鳴るだけの上司は唾と不快な言葉だけを先輩にぶつけるだけぶつけて、さっさと部屋から出て行ってしまった。
力が抜けたように椅子に座った先輩は大丈夫ですかと声をかけることも憚られるほどにひどい顔色をしている。

周りの社員たちは、巻き込まれたくないんだろう、触らぬ神に祟りなしと知らぬ存ぜぬを突き通すように黙々と己の仕事に打ち込んでいる。

少しの間天井を眺めていた先輩は完全に生気を失った顔でPCへと向きなおした。

昨日あんなに苦労して集めていた資料を、簡単にやり直せと、しかもたった30分でと言った上司に普段はもうあまり感じなくなった怒りがこみ上げてくる。きっと、尋之さんが間違っていない、その通りだと俺の不満や愚痴を聞いてくれたおかげだ。正しくないことに対して、間違っていると思える勇気を持たせてくれた。

まぁ、上司に言い返したり、追いかけて行って拳の一つでも入れられたらさらにいいんだろうけど。
そんな事をする勇気はこれっぽっちも持ち合わせていない俺は、とりあえず、今できることをやろうと先輩に声をかけた。

「先輩、手伝わせてください」
「・・・え?」

さっきも言った通り、俺も先輩も、心が蝕まれている。そしてそれは、俺たち2人だけじゃなくて、周りで見えない、聞こえない、知らないふりをしている社員全員がそうだ。
誰も、誰かが理不尽に怒られていたとしても、手を差し伸べることはない。自分の抱えるもので精一杯だから手伝える余裕なんかないんだと、デスクの上で自分の世界に入り込む。そんな空気がさらに会社の空気を悪くしている。

だから、俺のこの一言が、先輩にとってどれほど衝撃的なものなのかは分かる。
目を見開いたまま固まって動かない先輩に、手を差し出して資料をくれとジェスチャーをすると、我に返った先輩は目頭を押さえて震える手で先ほどダメ出しされた資料の入ったUSBメモリを渡してきた。

「ごめ、ん。晴海。あり、がとうっ・・・!」
「いいんですよ。あの上司の頭がおかしいんですから。どうしたらいいですか?」

ようやく目頭から手を外した先輩の顔は、先ほどよりも大分明るくなっていて、潤んだ目を隠そうともせずに俺に指示を出した。

「わかりました。じゃあとりあえず、ここの統計と、あとシステムのまとめですかね。10分で仕上げます」
「すまない。本当にありがとう」
「いえ、じゃあ頑張りましょう!」
「あぁ。・・・本当に、スーツは気分転換だったんだな」

ぼそっと呟いて先輩は作業に取り掛かった。
なんとなく、スーツの出所を隠すために吐いた嘘だったが、確かにあながち間違っていなかったのかもしれない。尋之さんに会ったことで、気分転換ができた。先輩を助けたいと思えるほど、心に余裕ができた。

この会社に勤めてから初めて、俺は清々しい気持ちで仕事に打ち込んだ。


30分後、眉間にしわを寄せてタバコの匂いを振りまきながら戻ってきた上司に出来上がった資料をデータと紙で渡す先輩の手がかわいそうなくらいに震えている。
俺よりも長くいるから、上司への恐怖心も大きいのかもしれない。

一緒に作り直した身として、何を言われるだろうかとドキドキしながら乱雑に紙をめくる音を聞いていた。

目を通し終えたのか、デスクにバンッと叩きつけた音でビクッと揺れた先輩に上司が静かに声を出した。

「なんだよ、やればできるんじゃねえか。最初っからやれってんだよ。くそ」

これは。何も文句の付け所がなかったのだろう上司は少し悔しそうにUSBとカバンを持って席から立ち上がった。先輩が作った資料で打ち合わせを行うんだろう上司はでかい足音を鳴らしながら部屋から出て行った。

上司のデスクの前で呆然と立っていた先輩がゆっくりと振り返って目が合う。
そんなに離れていない距離なのに気づけばお互いに駆け寄ってハグをする。

「やった・・・!俺入社してからあんな顔した上司初めて見た・・・!」
「ですね!スカッとしました!ありがとうの一言くらい言いやがれってんですよ!」
「だよなぁ!でも、本当に助かった・・・!晴海ありがとう・・・!」

ぎゅっと抱きついてくる先輩は、俺よりも細くて、今にもポッキリと折れてしまいそうだった。
よかった。先輩が、壊れる前に手を差し伸べることができて。

会社のど真ん中で抱き合う俺たちを好奇の目で見ることはあっても、誰も咎めないということはきっと、先ほどの上司を見てスカッとしたのは俺たちだけじゃないってことだろう。

もしかしたらこれを機に、会社の空気が変わるかもしれない、と俺は密かに楽しみにしていた。


しかし、打ち合わせから戻ってきた上司がすこぶる不機嫌で、どうしたのだろうかと静観してると先輩の席に向かってUSBを投げつけて叫んだ。

「契約取れなかったわ!!こんなクソ資料じゃな!!!ろくに仕事もできねえで、給料もらってんじゃねえよ!!クソが!!!」

完全に、自分のプレゼンが上手くいかなかったことを先輩に責任転嫁しているとしか思えないその言葉に、とうとう怒りが我慢の限界に達して席を立とうとした俺を、先輩が全てを諦めたような顔で首を振り、制した。

少し浮かせた腰を静かに下ろすと、上司は自分のデスクにカバンを投げつけて部屋から出て行った。

そもそも、提出した資料でいいと、OKを出したのは自分だったじゃないか、と、拳を強く握り締めて上司が出て行った扉を睨みつけていると、隣の席で先輩が立ち上がるのを感じた。

「先輩・・・?」

声をかけても返事をしない先輩はおぼつかない足取りで、フラフラと上司の後を追うように部屋を出て行った。
どうしたんだろうか、もしかして、そうだ、もしかしたら。

勢いよく立ち上がったせいで倒れた椅子の音に全員の視線がこちらに向いたがそんなことは気にしていられなかった。
もし、先輩が今、もう疲れたと言って、自分を、自分の命を終わらせようとしていたとしたら!

扉を開いて廊下を見渡すが、どこにも先輩の姿は見当たらない。
そこまで広くないこのビルだ。行く場所は限られているだろうと、一歩足を踏み出したところで下の階から悲鳴が聞こえた。手遅れかと足がすくんだが、すぐに床を蹴って階段を降りようとしたところで、中段に呆然と立つ先輩が視界に入った。

「っはぁ、よかった・・・!先輩!」

さっきの悲鳴は、先輩に対してじゃなかったのだと、駆け寄って安心したのも束の間、先輩が虚ろな目を向ける視線の先には、血の海の中、倒れる上司がいた。



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