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 やもめ先生は、奥さんを医療事故で亡くしてからも、とても家族思いのお父様らしい。やもめ先生とは、学生時代からずっと一緒だった下田先生が言っていた。下田先生曰く、奥様はやもめ先生の医療事故が原因で亡くなったと。
 だから残された(あるいは残してしまった?)お子さんだけは大切に、のびのびと育ってほしい。しかも女の子は大好きな奥様によく似た子だから、また愛情が格段に跳ね上がるのだという。
 こんな先生と、私が男女交際なんてありえない。
 私だって、とまで考えて、ふと思った。
 私は今年で、もう四捨五入をすれば三十路となる。なのに、なんだ。私がおぼえている限りでは、恋愛経験を最後にしたのは、中学校二年の頃というのは、一体どういうことなのだろう?
 高校時代は何をしていたのだろうか?
 私はどうして看護師を目指したのだろうか?
 『おねえちゃん』と、頭の中で誰かが私のことを呼んだ。
 『ごめんなさい』
 ぼろぼろと泣きながら言う小さな女の子に、私は見覚えなんてなかった。
 『おとうさんと、おかあさんのお金、とられちゃった』
 この女の子は一体誰なのだろうか?
 『仕方ないわ、大丈夫だから。あの人たちは、そういう人なの。自分の兄弟や姉妹が死んだって、へっちゃらな人なの。だからもう、こんな人達と会わないようにしよう? お姉ちゃんと……だけで生きていこう? お姉ちゃんがお父さんやお母さんの分まで働くから、だから……は泣かないで』
 高校の制服を着た私は、ぼろぼろと泣きじゃくる女の子の肩をしっかりと掴みながら言った。きっと聞こえないところは彼女の名前なのだろうけれど、どうしてだろう? どうしても彼女の名前が分からないのは。
 「源さん? どうしたんです?」
 後ろから急に、やもめ先生が言ってきた。
 「久しぶりの夜勤で疲れた、とか言わないでくださいよ? 数時間後に遅番ありますよ?」
 気がつけば、視線は私一人占めだった。新米お医者さんの青年も、オニナガも、私を見ていた。
 「大丈夫ですよ」
 にっこりと笑うと、やもめ先生も、オニナガも、新米お医者さんの青年も、なんともなかったかのようにふるまってくれた。

 結局仕事が終わったのは、お昼頃だった。なんだかんだでの残業時間八時間だ。一般職で残業時間がこれほどまでに伸びていたら、きっと大騒ぎになるだろう。ましてや今は煩いからな、なんて思いながら、無事にマンションまで到着。
 「疲れたわ」
 ぎりぎりの意識でマンションまで運転をする。疲れているときは車の運転を控えるように、なんてことを言われるけれど、正直仕事帰りの人間が疲れていない、なんてことがあるだろうか? ましてや看護師といった何時間も神経を集中させるような職種。疲れていないほうがおかしいと思うのは、私だけだろうか? 
 けれど、これらをも吹き飛ばさんと言わんばかりの田舎道は、比較的スムーズに車を走らせることが出来る。
 車のエンジンを切って、ドアを閉めて、荷物を取り出して、鍵を閉める。お昼ごろに仕事が終了し、帰宅時間は怒涛の昼過ぎ。今からお風呂に入ってご飯を食べて、数時間後の仕事に控えなければならない。
 「桜庭さん、良いご身分だわ」
 私が勤務をしている病院は、基本的に残業手当や夜勤手当、というものがしっかりとつく。城紀さんは、今回の一件で残業手当がつかなかったらしいけれど、今回ばかりは特例であって、基本はもらえる。
 そして新人ばかり、実習生が大勢を占める病院だから、基本的に年数が長い人間に関しては、勤務時間が容赦ない。一日の勤務が終わったと思えば、数時間後にはまた勤務、なんてことも珍しくはない。桜庭さんの次の勤務は、明日の早番。つまり今日一日はゆったりと出来ているということ。
 もちろん給料の差額は出るのだろうけれど、どこかしら、良いご身分だわ、なんてことを考えてしまうのは、どうしてだろう?
 かつん、かつん、と階段を登る。私の今住んでいるマンションはオートロックなしの、マンションと言ってもコーポに近い。家賃も比較的安めで、風呂トイレ別。ここだけはどうしても譲れなかった。田舎だから家賃なんて、都会に比べたら大した額ではない。二階だから洗濯物も干すことが可能なうえに、ベランダとロフト付き。さらには周辺に最寄駅がないということだけで、ワンルームと金額があまり変わらなかった。だったら少しは贅沢が出来る二部屋あったほうがいいだろうということでこの部屋を選んだ。
 カバンの中からポケットを取り出し、凍りつくかと思った。
 「はっ……?」
 玄関前に、女の子がうずくまっていた。あほほどに出た急患要請で脳みそがパンクしたのか?
 あるいは幻影でも見ているのか?
 なんてことが頭の中をぐるぐるとまわるけれど、ありえないと一蹴できた。もしも幻影を見ていれば、運転に支障をきたしていただろうし、脳みそがパンクしていたら、運転なんてできない。アクセルとブレーキを間違えているところだ。
 近所の女の子だろうか? 近くに女子高校生が住んでいるなんてこと、利いたことが無かったけれど、少しだけ、迷惑だな、なんて思った。
 「ねえ、ちょっといい?」
 座り込んでいる女子高校生に話しかける。
 「そこさ、どいてくれないかな? 私の家なのよ。あなたがいつまでもそうしていると」
 『私家の中に入れないから』と言いかけて、言葉が出てこなかった。
 真っ赤に泣きはらした瞳に、真っ黒な髪。白い肌と、何かを感じさせる十代半ばの女子高校生。今時黒髪の女子高校生なんていたのか、なんて思ったぐらいだった。看護実習生としてくる女の子たちだって、頭の色を染めてきては、オニナガに一発説教を受けているというのに、この子の髪の色は真っ黒だった。
 「覚えて、ない、の?」
 覚えてない? 一体何をだ?
 「えっと、わたし、あなたに何かしたっけ?」
 記憶になかった。まさか患者さんが私の住所を調べてやってきたとか?
 だとしたらどうしてだ?
 急患で運ばれてきて助けることが出来なかった患者さんなんて、実はかなりの数でいる。この数が、実はもう手遅れの状態で運ばれて来たり、あるいは昨晩のように人数が足らなかったり、いろいろと考えられることはある。
 けれど、だ。
 もしも私が彼女の大切な人を亡くすようなことをしたというのであれば、どうして私に白羽の矢が立つのだろうか?
 普通であれば担当をした医者だとか、あるいは事故であれば加害者となるべき人物だとか。百歩譲って婦長でもあるオニナガとか。どれほど間違っても、所詮は雇われの身であり、オニナガほどの責任者でもなければ、言うほどの実力者でもない、ただ普通の看護師である私には、何も言ってこないはず。
 「だったらいいです、失礼しました」
 目をこすりながら、立ち上がり、私の横を通り過ぎて行った彼女は、階段をゆっくりと降りて行った。
 「…………家出少女、かな?」
 事件や事故に巻き込まれないと良いのだけれど、なんて考えながら鍵穴に鍵を回す。がちゃりという音とともに、ドアノブがゆっくりと開く。「ただいま」なんて呟いて。





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