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 目が回るほど忙しいとは、まさしくこのことで。
 「子供が熱を出したの! 水も飲まなくて、ずっと嘔吐をしてばっかりで、どうしたらいいのかが分からなくて」と幼子を抱えながら、顔の色を土色にして走ってきたのは、まだ若い奥様。
 「熱はいくつありましたか?」
 「九度八分ほど」
 「もう一度病院でもはからせていただきます。すぐに診断できるように準備いたしますので、少しだけお待ちください」
 五番館で仮眠を取っている小児科の先生をたたき起こし、
 「急患です! 重体者三名、意識不明の重症者一名、軽症者八名です」と、救急隊がどかどかと重傷者を運んできた。これは六番館と三番館で仮眠中の先生も呼ぶべきだと受話器を取ろうとして、さすがにオニナガが怒鳴る。
 「一体あの子たちは何をしてるのよっ!」
 あの子たちが、言わなくても分かる。
 桜庭さんと城紀さんたちだ。彼女たちがいたら、少しぐらいは何とかなったのかもしれない。
 正直に言うと、彼女たちは使えるかどうかと言われれば、怪しいところが盛りだくさん。加えて「ちゃんと看護の学科で四年間学んだよね?」と言いたくなるほどの腕前。正直、四年間何をやっていたんだと言いたくなるのは、私が高卒だからだろうか?
 いや、関係はないはずだ、たぶん。
 「源パイセン」と呼んだのは、麻友子ちゃんだった。
 「どの番館の先生を呼んだらいいですか? わたしはまだ新人ですので、現場に直接入ることはできないと思うのですが」
 ああ、そうか、と思い、現実は思っていた以上に大変だと改めて思った。本日夜勤で残るのは桜庭さんの班と城紀さんの班、だけど私以外の人は帰ってしまっていない。プラスでオニナガと新人研修の数名に新米お医者さん、もしくは見習いの子二人。加えて数名のお医者さん。麻友子ちゃんや新米お医者さんたちに、現場を任せるのは、まだ早いのだ。
 「…………三番館の下田先生と、五番館のタケツグ先生。五番館の先生には『走ってきてください、急患です。五番部屋です』って付け加えておいて。下田先生は即オペ室」
 「わかりましたっ」
 麻友子ちゃんに受話器を渡す。大丈夫、彼女はちゃんとやってくれる子だと信じ、自分は現場に入ろうとした時だった。
 「源さん、急患で入ってきた患者さんなんですが、最近できた高速道の環状線トンネルで事故が発生したみたいで」
 「…………環状線、トンネル?」
 彼の言葉が、嫌なぐらいに頭の中に響いた。私は、どこかでその言葉を聞いたことがあるような気がした。遠い、遠い昔に。
 男の人の声だっただろうか? 落盤事故、だったような気がする。
 「源さん?」
 声をかけられてはっとした。
 「大丈夫ですか?」
 救急隊の彼の声で、自分がぼんやりとしているのが分かった。
 何を考えていたのだろうか? 今は仕事中だというのに。

 全員を助けることなんて、出来ない。時によっては全員を見送って終わってしまうことだってある。
 今日は二人を見送ることになったけれど、それでも運はいい方だと思う。酷い時には、運ばれてきたけれど手の付けようがなかった、なんてことだって、決して珍しくはないのだから。二回目の急患が運ばれてきて、やっと一息ついたと思ったのと同時に時計を見て、時刻を確認する。
 「もう三時だわ」
 事務の子たちまでもが新人揃いなので、入院の手続きは、私とオニナガとで手分けをして処理をしていた。
 「まったく、桜庭さん、少しはいい子だと思ってたのに! 城紀さんにいたってはもうだめね!」
 握っていたボールペンをへし折らんと言わんばかりの怒りをあらわにしながら、書類を処理していくオニナガ。書類と言ってもオニナガがやっていることは、単純な作業で、難しい方を私がしていた。理由なんて簡単、シフトをオニナガが作らなければならないから。
 「急に帰るなんて、私初めて経験しました」と私が言えば、後ろで麻友子ちゃんが、首が取れるのではないのかと言わんばかりに頷いていた。
 「私だって看護師としてこの病院に勤めて長いけど、初めてよ? というか、こんなことありえないでしょ」
 ばきっ、と何かが壊れる音がしたのは気のせいだと信じたい。
 「だいたいあの子たち、学校の推薦でこの病院に入ったのよ? 学校の成績も極めて良好だし、学校側も『とてもまじめで良い子ですので』って言うから採用したって言うのに。年配の患者さんの意向はまったく組まないわ、若い男性の患者さんには媚び売ってごたごたするわ。しまいにはこれよ? わたし、権限あったら即別の病院に飛ばすか、辞めてもらうわ」
 「永志野さんでもそういったことって無理なんですか?」
 レポートを書いていた手を止めたのは麻友子ちゃん。
 「そういった権限は私にはないの。私はただの雇われ側。病院によっても違うんだろうけど、ここの場合はすべてを院長が決めるの。だからここの看護師たちは『よっぽどのこと』や『院長の目に留まる』ことが無い限り、クビなんてことはないのよ」
 へえ、なんて思ったのはきっと麻友子ちゃんだけではないはず。「だからといって、何をしてもいいというわけではないのよ?」と念を押していったオニナガ。
 けれど、とも思えた。
 「病院勤めで夜勤だとわかっていて、しかも人が少ないと知っていて、それで急に帰っちゃうって言うのは、永志野婦長の言う『よっぽどのこと』や『院長の目に留まる』のうちに入らないんですか? だってここは『地域の人たちのための病院』であり『けがをした人たちを治療するための施設』じゃないんですか? 本来治療できるはずだったのに、人手が足らなくて治療できず、見送ることになりました、なんてことになったら、地域の人たちのための病院でも、けがをした人たちを治療するための施設ではなくなりますよね?」
 素朴に、疑問に思ったことだった。今日の夜勤は急患要請が二回で終わったから良かった。
 もしもこれが、もう一回、もう二回、なんてことになっていたら『申し訳ございませんが』と言わざるを得ない。最悪、これが引き金で「あそこの病院にたらいまわしにされた」なんてことが噂として広まってしまえば、何人も見送る羽目になれば、最悪、病院を畳まなければならない。近隣では大きな病院なんてなくて、個人病院ですら車で一時間近くかかるような田舎で、少なくとも私が知っている病院は、ここ以外ともなれば、かなりの遠方になってしまう。もしもここの病院がなくなってしまい、救急車が出動することになれば、間違いなく命を落とす確率は、格段に跳ね上がる。
 「そうね」
 オニナガが持っていたペンを机の上に置き、じっと机の上に置かれた書面を見つめる。
 「ちょっと、考えてみないといけないかもしれないわね」









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