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 私は確かに彼に「お願い」をしたはずだった。姉が、お姉ちゃんが元々の夢を成就できるように、と。
 けれど、その中に私の存在はどこにもなかった。
 「結局、私は」
 どのみち私は姉にとって邪魔な存在だったのかもしれない。私とお姉ちゃんが一緒に幸せになる、なんてことはどこにも存在しない。
 当たり前だと、誰かが笑う。お姉ちゃんは両親が早くに死んで、親戚に一切金銭面及び経済面で頼ることなく生きていくために、看護師となった。
 けれど、両親が交通事故で死ぬことが無ければ、お姉ちゃんは料理人としての道を歩んでいたのかもしれない。歩きなれたマンションまで一直線に歩き、階段をゆっくりと登って行く。ポケットの中から鍵を取り出して、がちゃりと、本来ならばまわるはずだった。
 「…………あれ?」
 けれど、鍵は一向に回らなくて、それどころか鍵穴にすら入らなかった。
 「なんで?」
 一瞬だけ自転車のカギと間違えただろうかとも思ったけれど、私は自転車を持っていない。幼い頃、両親から「自転車は危ないからやめなさい」と言われて以降、私も姉も自転車を持っていない。車も持っていない私からしてみれば、私が今現在持っている鍵は家の鍵ただ一つ。オートロックもないこのマンションで、家の鍵なんて一つで事足りる。
 もう一度と思い、鍵穴にいれようとするも、そもそも鍵の大きさが違うのか、入ってくれそうにない。きょろきょろと見わたし、まさか部屋を間違えたのかと確認をする。部屋には「203号室」と書かれていて、鍵にも「203号室」と書かれている。
 ならばあれか、別のマンションに入り込んでしまったというのか? ありえないけれど。
 もう一度試してみて、やっぱり鍵穴と私が持っている鍵では大きさが違うのだとわかる。よく見てみれば、鍵穴も、丸井円形状なものに対して、私が持っているのは縦に穴が開いているやつ。これではどうあがいたとしても、入れることはできない。
 「ずいぶんと苦戦しているようだが、良いか?」
 後ろから、不意に聞こえた声に勢いよく振り返り、鍵を落としてしまった。
 「あなた、たしか」
 名前は知らない。けれど、「姉の願いをかなえるのには私はおおよそいらない」と、はっきりとわからさせてくれた、ヒト以外の人。
 「お前さんに言い忘れがあった」
 ふわふわと宙を浮く彼は、顔を青くしながら言った。
 「お前のお姉さん、お前さんのこと覚えてねえわ」
 一瞬、彼が何を言っているのかが全く分からなかった。

 「み、源パイセン、何を言っているんですか?」
 今日はさんざんだった。桜庭さんや城紀さんたちが無断で帰ってしまった。こういう時に限って急患の人たちがわんさか来て、せっかく仮眠を取っていた先生たちをたたき起こすこととなってしまった。
 けれど、たたき起こしてしまった下田先生や竹矢先生は、笑いながら「仕事ですから仕方ないですよ」や「患者さんの命の峠はもう終わりましたから」と許してくれた。本当にありがたいと思い、けれど噂には、私だって興味があった。
 源パイセンは立花先生を誘惑するような人ではない。身体やお金を使って、ましてや立花先生が一番の弱みとしているであろうお子さんを使ってどうしよう、なんてことを考えるような人ではない。
 お子さんがいるのであれば、お子さんを第一として仕事をしてください。
 世帯もちであればご家庭を大事にしてください。
 お子さんが熱を出されたのであれば、わたしでよければ代わりになりますから、付き添ってやってください。
 ちゃんと、先生たちのことを考えたうえで発言をする人だ。ましてや立花先生の子供を使って、先生と再婚なんて、ありえない。
 だって源パイセンは、妹さんのことを第一と考えていたから。
 『源パイセン、その子、妹さんですか?』
 私が来てすぐのころ、あの人は一枚の写真を見せてくれた。
 『うん、かわいいでしょ?』
 にっこりと照れながら言う源パイセンに、なんだか私までもが幸せな気持ちになりそうだった。
 『うちさ、両親を早くに亡くしてさ、親戚も、恥ずかしい話だけど、自分の兄弟や姉妹が事故で死んだっていうのに、頭の中で自分は一体どれだけのお金をもらえるんだって計算してるような連中ばっかりでさ。妹もちょっと馬鹿して、親戚連中らにお金盗られてさ。結局二人で生きていくのには看護師しかないかなって思って、本当は料理の道に行きたかったんだけど、妹いるなら仕方ないかなって』
 『そう、だったんですね』
 休憩時間中、源パイセンはとても幸せそうに言った。
 『けどさ、あいつ最近卵焼きを作るの覚えたみたいで。お姉ちゃんのお弁当作るって張り切ってるんだよね。おかげさまでお弁当が卵焼きでいっぱい。コレステロール高すぎて殺す気かっての』
 とても幸せそうに、うれしそうに言っていた。源パイセンの弁当箱は二段重ねで、一段には普通通り、ご飯にちょっとした梅干しやふりかけ。けれどもう一段はみっちりと詰まった卵焼きだった。
 あの時の源パイセンの笑顔はとてもうれしそうで、私も姉妹がいたらこんなふうになりたいと思ったぐらいだった。
 なのに、なんだ。
 「い、妹? 私一人っ子のはずなんだけど」
 ビーカーをしっかりと握りながら言った源パイセンに、たまたま来ていた竹矢先生までもが驚いていた。この病院内で働く人間であれば、たとえ普段は医療従事者とあまりかかわりのない医療事務の人間だって知っている。源パイセンは妹さん思いの看護師さんだということと、両親を早くに亡くしたから看護師になったんだということ。加えて、他の同じぐらいの年齢の看護師さんに比べたら、かなり腕もいいということ。
 「そんなわけないじゃないですか、だって私が初めてこの病院に実習できたときだって、源パイセン、妹がいるんだって嬉しそうに言ってましたよ」
 何かの間違いであってほしい。どれだけ間違っても「実はウソでした」や「実は妹だと言っていた子は、私の娘でした」は、あってほしくないこと。
 「そうですよ、俺らに『両親を早くに亡くしたから一般職はあきらめて看護師になって、今は妹と二人暮らしだ』って、源さん言っていたでしょう?」
 新米医者の渡部(わたべ)が言う。こいつも、少しはまともなことを言えるようになったんだな、なんて思う暇はなかった。
 「何を言っているの? 私はずっと一人っ子だよ? 妹なんていないよ?」
 平然と言う源パイセンに、私も渡部も、何も言えなかった。
 『妹の鈴がね、作ってくれたのよ』
 私が実習で初めてこの病院に医療従事者としてきた日、源パイセンは緊張しきっている私に、ほんの少しの慰めのつもりか、効果音がつきそうな顔でお弁当を見せてくれた。二段弁当に一つは卵焼きがみっちりと詰まっていて、実習生で来ていた何人かの人たちと一緒に食べたのを、今でも覚えている。
 けれど、なんだ。源パイセンがまさか今までずっと嘘を言っていたなんてことは信じがたい。どうして、なんで、だってという感情が、ぐるぐるとまわる。
 「あなたたち、いつまでそこにいるの?」
 いつの間に入ってきたんだと言わんばかりのオニナガに、下田先生までもが驚いていた。
 「いつまでもべっちゃくっていいわけではないの。ただでさえ今日はおバカ二人がさっさと帰ってしまって人手が足らないんだから。さて、働く、働く」
 両手をぱんぱんと叩くオニナガに、私は源パイセンをもう一度見つめる。決して嘘を言っているような顔ではない。
 ならば、今まで嬉しそうに私たちや後輩たちに『妹の鈴がね?』と言っていたあれは、一体なんだったのだろうか?









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