第一話 11



 執務室からは、私たちがいた廊下は、言うほど離れていなかった。歩いて数秒ほどの所。そんなところで私と『あしながおじさん』は魔法の基礎について話していた。
 本当によろしいんですか、と小声で言った。
 「印鑑なら壊してもいいんだよ、別にあんなもの…………おっさんだって何度も壊してはこっそりと直してるんだし。この前暖炉壊しかけた時はさすがに焦ったけど……マーマレードなら気にすることないさ」
 こう言ってくれるから助かるんだけれど、本当にいいのだろうかと思う。後ろに並んでいる子供たち(総勢一八名)は、有名焼き菓子店の二時間待ち必須のマーマレードを食べれると聞いて、足取りがやたらと軽い、気がする。
 だけど、本当にいいのだろうか? 
 「ハルちゃんは気にしすぎなんだよ。あんなもの、あとで問い詰められたら、その場で知りませんって言えばいいんだから」
 「そんな」
 『そんな言い方ってありますか?』と言いかけた時だった。執務室にたどり着いた『あしながおじさん』は、ドアノブに手を置き、くるりと後ろを振り返った。今か今かと待ちわびる幼子たちの人数を数えている。
 ああ、個数が大丈夫かどうかの確認をしているのか、なんて思い、『あしながおじさん』がドアを開けた刹那だった。
 「あんたってば、本当に何も知らない子ね! そんな状態でどうやってあの学校を卒業したって言うのよ!」
 『先代の魔王陛下の愛しき姫君』の罵声が廊下にまで響いた。目を丸くする子供たちは、執務室にいる彼女が誰なのかもわからず、突然起きた出来事に関しても理解が出来ず、ただ呆然と目の前の光景をを見ていた。
 「普通はこんな難しい言葉なんて知りませんよ! だいたいなんで私がこんなことしなくちゃいけないんですか?」
 「次期魔王様になろうっていう天使が何を言ってるの! せっかくキサメさんが『前例なんてひっくり返してなんぼ。何事も初めてなんだから』って、天使を魔王候補にってしてくれてるのに!」
 「だからって無理言わないで下さいよ! 私にこんな難しいこと任せないでください!」
 「何開き直ってんの馬鹿! 難しい言葉があるなら、ちゃんと辞書なり使って当然でしょ!」
 どこから取り出したのかが全く分からない『先代の魔王陛下の愛しき姫君』は、机の上に五冊の辞書を勢いよく置く。かなりご立腹のようで「わからない言葉があればこれで調べる! 人に聞く前に自分で調べるのは基本中の基本!」と怒鳴っている。
 ふと、父のことを思い出した。彼女と同じことを言っていた。仕事中に辞書を数冊ほど、机の上に置くのは基本中の基本。わからないことがあるのであれば、自分の力で調べる。辞書に載っていないことであれば、数日、下手をすれば数週間以上前の新聞をさかのぼってでも調べる。だからあの家には常に新聞の切り取りを行ったファイルがあった。ファイルの背に書かれた法律の名前。あの頃の私には、一体あれが何を意味するのかが分からなかったけれど、今だとなんとなくわかった。あれも、辞書の一種なのだと。
 「……………やばい、逃げねば」
 小さな声で、横にいた『あしながおじさん』が言った。
 「おじさん?」
 よく見ると、『あしながおじさん』の顔は真っ青だった。小刻みに震える体は、何かの恐怖から怯えるようで。
 「おじさん! マーマレードはあ?」
 後ろで列を作っていた幼子の一人が言った。この声が『先代の魔王陛下の愛しき姫君』の耳にも届いたのか、彼女がくるりと振り返り、わたしはてっきり「今は修行中だから出て行って!」と怒られると思っていた。
 「キサメさん! お会いしたかったわ!」
 えっ、と思ったのも束の間だった。『お姉ちゃん』が何事かと顔を上げたのとほぼ同時に、『先代の魔王閉館の愛しき姫君』が『あしながおじさん』に抱きついた。
 「……いつ戻られてたんです?」
 「ついさっきですっ! ずっと、ずっと一人でさみしかったわ! もうわたしはあなたがいなくて、悲しくて、さみしくて、凍えて死んでしまうかと!」
 「…………左様でございますか」
 私がまだ一二かそこいらの餓鬼だから理解できていないのか、はたまた私のような一二の小娘でも理解できる人はできることなのだけれど、私の鈍い頭では理解できないのか。とにかく私の頭の中は思考回路がぴたりと止まっていた。
 相変わらずねえ、と書類を手にしている『おねえちゃん』。もしかして、
 「おねえちゃん、何か知ってる?」
 「………知ってるけど、まだ早い………そこのマーマレード持って行きなさい」
 『おねえちゃん』が指をさした方向には、有名焼き菓子店の紙袋が三つある。しかもどの紙袋もいっぱいに入っていて、持つのには苦労しそう。
 「アマネ嬢………おまえ、いつの間に知ってた?」
 何を知っていたの?
 「いつの間にって……………先代の魔王様が崩御なさる時から城本部にいる人は、もうほとんど知ってると思う」
 「それって、もうほとんどだろうが」
 先代の魔王様が崩御なさる時、つまりはおおよそ三年から四年ほど前から『おねえちゃん』は知っているということ。でも、一体何を? 
 列を作っていた幼子たちが、嬉しそうに「マーマレード」と口にしながらどこかへと行く。げっそりとしている『あしながおじさん』と、やれやれといった表情の『おねえちゃん』。私は、
 「ハルちゃん?」
 不意に『おねえちゃん』が言った。
 「これ以上はハルちゃんにはまだ早いよ…………マーマレードを食べてきな。あれ、美味しいから」
 にっこりと言った『おねえちゃん』。なんだか、悔しい。











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