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 そっと楼の左頬に触れた綾の手が、やたらと冷たかった。
 『わたしね、生まれつき体があまり強くなかったのよ。なのに両親の大反対を押し切って東京の大学に行って、学校の留学制度を利用して海外に行って、辰則さんと出会ったの。今はすごく後悔してる』
 綾さんは、すごく優しい女性(ヒト)なのだろう。自分が日本語でもわかると、目の前にいる自分の子供と同学年の子が、日本語でも理解できると言っているのに、わかっているはずなのに、あえて中国語で話してくれる。ゆっくりと、相手の心を優しく開くように、けれど自分の思いでもゆっくりと相手に体感してもらうように話してくれる。
 『理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?』
 頬にそえられた冷たく細い手がベッドに落ちた時、綾さんは笑いながら言った。
 『最初はね、自分の好きな人と一緒にいて何の文句もないだろ。ずっとこの人といっしょだったら、どんな困難だって乗り越えられるって思ってたの………でもね、それは最初だけなんだって、幻なんだって気がついたときに、すごく後悔したわ』
 意味が分からない、理由になっていない、もう少し詳しく聞かせてほしいと、言いかけた時だった。急に綾さんが冷たい手で左手を包み込むように触れた。
 『少しだけ、想像してみて? 高校生の間ずっと日本にいて、三年ぶりに故郷に帰って、家の玄関を開けてみて? 玄関で待っているのは何?』
 他家の母親だからということもあって、自分は素直に従った。綾さんの言うように、少しだけ想像してみる。
 高校三年間はとりあえず日本で、楽しい思いをして。
 三年後に中国に戻って、玄関を開ける。とびっきりの笑顔と、ほんの少しだけ西洋の面影を残す異父の妹の姿。ただいまと、走ってきてくれるだろうか?
 『家の中に入って、もしもお母さまが、楼君のお母さまが床に臥せていたら、あなたは理由を尋ねることができるの?』
 病室には冷房なんて入っていなかったはずだ。なのにどうしてだろう、今、背中に悪寒が走ったのは。
 『理由を尋ねることが出来たとしても、もしもあなたのことをとても心配し、心を病んでしまったとしたら、楼君、あなたは自分のお母さまにどんな顔で会うことができるの?』
 心臓が嫌なぐらいに跳ねる。理由だなんて知らない。
 けれど、考えたこともなかった。
 『だまされたと思って聞いてて? なんともない、大丈夫だなんてせいぜい二十歳前後ぐらいまでよ。そのあとは、どうもがいたって駄目だってこともあるんだって、はっきりとわかってくるの。自分の体調や、環境。力づくでなんとかなることだってあるけれど、それでも通用するのはほんの僅かなことなんだって、きっとわかってくるわ』
 綾さんの言いたいことはわかる。大雑把にいうと劉黄と言っていることと大して変化がない。親の許可ぐらいとってから日本に来たらどうだ、ということ。
 『だけどね、楼君』
 『夏に、連絡を一本入れます』
 綾さんと同じタイミングで言ってしまい、ほんの少しだけ身を引いてしまったが、ここで引いてはいけないと、誰かが言った。
 『夏に連絡を一本入れます。絶対に、です。ちゃんと、楽しんでいる、と言えば、あの人も分かってくれるでしょうし…………それで納得してくれるかは、未知数ですけれど』
 本当にあの人は何を考えているのかが、まったく分からない。妹の入院のときだって、同じだった。何を思ったのか、治療費が倍以上かかるアメリカで治療を受けさせようとか、医療施設の整った都会の病院ではなく、田舎の病院で治療させようとか。とにかくあの人の考えが全く読めなかった。
 だから夏に電話を一本入れて、それで納得してくれるかはわからないけれど、これしかないだろう。
 『上々よ! 私が日本人だからってわけじゃないけど、日本での高校生生活を十分に楽しみなさいな!』
 乱暴に頭をぐしゃぐしゃと撫でる綾さん。やはり、あなたは
 『………………姐さんだ』
 血の繋がっていない父親が生粋のアメリカ人だったから、英語も少しだけ話せるようにはなっていた。少しだけとは言っても、おそらく同じ年ごろの子と比べたら、少しだけうまく話せる程度。ネイティブの人たちと話すともなれば、また別だ。
 「誰が姐さんよ?」
 劉黄にぶつけた真っ白なクッション、訂正、まくらを左手でしっかりとつかみ、今にも投げてきそうな姐さん、もとい綾さん。
 「綾さん英語わかるんですか?」
 「外国語学部出身者馬鹿にすんなっ!」
 ぼすっと、真っ白なまくらが顔に直撃したのは数秒後のこと。








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