8


 リトという女に不思議な力が備わってあるということは昨夜の件で知ったことだがそれともうひとつ、ことのほか酒が好きだということは

「アッハッハッ!やっぱ酒は美味いねぇ!」

 ――…誰の目から見ても明らかだった。
 やはり彼女に興味を抱いたこと、何かを感じたことは間違いだったのだろうかと早くも後悔が骸を襲っていた。

「そんな残念そうな顔をしてやんな」

 ことりと音を鳴らし骸に水を与えたのは彼女に連れられ初めて入った店の店員だった。此処と、もう1軒。リトが連れて入る店での食事は問題もないということでカウンターの端でその様子を見ていた。
 彼の名前を黒という。何でもここの街は名前すら捨てた人間が多く、大概が適当な名前か、名無しが多いらしい。だから名前を名乗らぬ者も多く敢えて問うこともなくお前さんと呼ばれることも多いだとかいう説明を数日目にして初めて聞き、リトが最初から骸の事に対し名前を聞かなかったのも『お前さん』と呼んでいたこともようやく今にして納得できた。
 ちなみにもう一軒先にいる店員の名前は白。何でもこの黒という男と共に流れ着いた者で、彼と正反対に全身が白いからとリトに名付けられたのだという。何とも安易な名前に骸は自身の名前を忘れないでいてよかったと思うばかりだった。

「お前さんには見えるかわかんねーしリトは何も言わねえだろうから少し教えてやるけどな」

 そう呟くようにして骸へと耳打ちをする。

「リトの周りにモヤみてえなモンは見えるか?」
「!」

 リトはカウンターに座っていた客と共に楽しげに話していた。だからこそ黒がこちらに来ていたことに気付かなかったのだろう。何のことかと思いながらも言われた通りリトを見る。それはいつもと同じだった。紫紺の髪を緩やかに束ね、その同色の瞳を柔らかく細めるその女は間違いなくリトであり、唯一骸がこの世界で信じてもいいと思えた者だった。――しかし。
 黒に言われじっと目に力を込めていれば今まで気が付かなかったものが見え始め瞠目した。
 
 それは黒いモヤであった。

 他の人間達と楽しく飲み食いしているその中心のリトにの周りにある黒いものを見た。それは彼女を浸食するが如く。それは彼女のすべてを飲み込もうとするが如く渦巻き、形を変えながら彼女に纏わりついている。…何だ、これは。

「昨日、お前さんも見たんだろう?この世界にゃよく他の世界からの人間が流れ込んでくる。国籍も時代も多種多様でお侍がいる時もありゃ海賊がやって来ることもある。
そんな中で、たまにいるんだ、ああいう奴は。死んでるくせにそれに気が付かず幽霊みてーに歩き回って悪さする奴がさ」

 あれが幽霊だというのか。
 昨日の子どもの方が幽霊らしい姿を保っていたようだが…これではまるで悪霊だ。そんなものに付き纏われているというのに何故彼女は平然と笑っているのだ。あれは、身体に異常を来さないのだろうか。

「あいつは否定しているし好きでやってるとは言っているが、リト自身やけにああいう輩に好かれちまってな。俺達はあれを妄念と呼ぶんだが…妄念を自分で1回取り入れて、ああやって浄化する」
「そんな馬鹿な」
「人間業じゃねーだろ?アレがあいつの特異な力で、元々の職業は憑き物落とし、ってやつだったみてーだ。…まああいつも他のところからやって来てんだが、その世界では異端過ぎたみたいでな」

 特異すぎる力は身を滅ぼす。それは骸も十二分に理解している。

 己の力を欲し、色んなところからスカウトも、それから力だけでも得ようとする輩は何処にでもいるのだ。リトの能力もいまいち理解しきれてはいないが使いようによれば人を苦しめることだって可能だろう。そうこうしているうちにも確かに彼女は他の人間と話しながら自身に纏わり付いたモヤに手を伸ばしては少しずつ消していく。浄化していく。取り入れているというのだろうか。時折苦しそうな表情をするものの酒を飲み、話している内にその黒色のものはやがて消えていく。…これが、こんな事が浄化というのか。
 異常な光景だった。
 リトと相対している者はそれが見えていないのだろうか。彼女はこれほどまでに苦しんでいるというのに。

「こっちに来た頃にはそりゃもう荒れに荒れてたんだけどなあ。よく歪みきらずに済んだとは俺も思うさ」
「…」
「離別も裏切りも辛いからと極端に人と馴れ合うのが嫌いだったあいつが連れてきたのがお前さんだ。どうか彼女をよろしく頼むよ」

 返事などできるはずもない。自分だって彼女を利用しているのに変わらないのだから。
 それでも、今は。記憶が戻るまでは。
 そう不思議と思ってしまったことがなんだか居心地悪く、注がれた酒を一息で飲み干した。

「――…うっぷ」
「だらしない」

 ……先程まで少し見直そうとしていたが前言撤回だ。
 そろそろ帰ろうかという言葉が彼女から出た時には随分と時間が経っていた。とんでもない量の酒を飲んでいたことは知っている。お陰さまで帰る時の道をようやく覚えた骸が居なければ彼女こそその辺で寝こけていたに違いない。
 細い腕を自分の肩へと回させ、自分の方へと体重をかけさせると二人三脚のような足取りでゆっくりと歩いていく。いっそのこと横抱きにした方が良いのではないかと思ったがそうして寝てしまわれればもしも万が一道に迷った場合に非常に困る。当然ながらこの世界にタクシーのようなものはない。
 黒いモヤはいつの間にか無くなっていた。
 浄化しきれなかった場合はどうなるのだろうか不思議に思ったが恐らく彼女の性格上全てやり遂げてしまうのだろう。失敗はなかったに違いない。推測ではあったが…恐らく、彼女にとって妄念の浄化の失敗は死を意味するのではないかとさえ思えるのだ。

「リト、ちゃんと歩きなさい」
「骸の背が高すぎてこっちは腕が釣りそうだ」
「ならば一人で歩きなさい」

 今からまたあの鬼女のいる家に帰らなければならないのだ。あれも早く退治なり何なりすれば良いものを黒曰くの妄念とはまた違ったものなのだろう。

「あいつは、救われたかなあ」

 ポツリと呟く内容に、それ以上の説明はない。
 しかしながらもう何となく意味は分かっていた。恐らくそれは昨日の幽霊か、妄念かどちらかの話だろう。妄念の方はよくわからなかったが昨日の幽霊の話であれば言えることはある。

「だから消えたんでしょう。君の力だ」
「…そうかあ」

 彼女が呟いた言葉は、果たして誰かの肯定を必要としていたのかどうかは分からなかった。慕われてはいたがどうにもそれ以上に仲の良い人間は居なかったようにも見える。ならばあの苦しみを一人で抱え、酔いと苦しみを背負っていつもはこの道を一人で歩んできたのではないかとさえ思えたのだ。美化しているのかもしれない。彼女のことを評価しすぎていたのかもしれない。だけど骸はそう言わずにはいられなかった。
 それが、伝わったのか否か。心の底から嬉しそうに、リトは笑った。

「それなら、良かったなあ」

 それは、本当に嬉しそうに。
 哀しい程に優しい女だ。骸はそう感じていた。



 リトの部屋は骸が寝ている場所の隣だった。半分眠っている状態の彼女を連れ、隣の部屋の引き戸を開けるとからりからりと小さな音が鳴った。部屋の真ん中、机の上に置かれたのは立てられた小さな風車のおもちゃ。持ち帰ってきたもののどうしていいかわからず置いていたというところだろう。

『見つけるのが遅くなってすまんかったな』

 あの時の彼女の儚さを覚えている。それでいて、懐かしい思いは未だに抱いていた。やはり何処かで会ったことがあったのだろうか。
 リトに水を飲ませるとどうやら少しは回復したらしい。頭がズキズキすると訴えながら大人しく布団を敷きだした。無防備というべきなのか、何も起こるまいと思っているのか。否、恐らく両方なのだろう。あまりにもこの世界の人間は警戒という言葉からかけ離れすぎている。

「リト」
「ん?」
「いつか、僕が死んでも君は」

 …見つけてくれますか。
 酔っているのは自分もなのかもしれないと骸は言葉を紡ぎながら思っていた。こんな事を聞きたい訳ではなかった。こんな事を話すつもりではなかった。しかしあの時、彼女から少し離れた時の心細さを覚えている。もしも見つけられなかったら。もしも迎えに来られなかったら。大人である自分が何とも幼稚な、と普段の自分ならば思ったのかもしれない。だが今はそんな思考さえ湧いて出ることはない。この世界は不安定なのだ。一見、楽しく、可笑しく、気楽に見えているかもしれないが一つ道を外したその先は孤独と闇が広がっている。それの何たる寒々しさか。
「ばーか」リトはそれでも、言葉の割には本当に馬鹿にした様子など一切なく自分の額に触れる。改めて熱い手だった。紫紺の瞳はやはりリトの記憶の通り柔らかく細められ、そこには少し情けなく笑う自分が映っている。

「おまえさんはしっかり生きてる。しっかり地に足つけて、胸を張れ。お前さんのことを見ている奴らも、帰りを待っている奴らもいる」

 それにと微笑む。

「簡単にゃ死なせんよ」

 目の前にいるというのに何故こうも遠く聞こえるのだろう。何故、目の前で話しているというのに伝わっていないのだと思うのだろう。もっと話さなければ。もっと、…伝えなければ。

 気が付けば彼女の頬に触れていた。
 気が付けば、彼女のその柔らかな唇を食んでいた。

 その呼気はアルコールの匂いが感じられ、あまり飲んでいなかったはずの骸も彼女と同様酔っているようなそんな感覚に陥る。驚いた顔のまま硬直した彼女の顎を引っ掴み、もう一度深く口付けた。呼吸を、彼女の中から酸素を奪い取るような激しいそれにかくんと力が抜け、リトは骸のなすがままに組み敷かれる。
 「骸?」真っ白なシーツに、意図がいまいち汲み取れていないだろう不思議そうな顔をしたリトの髪が広がった。否、今はいい。今は…どうでも、いい。いつの間にかするりと己の内側に入り込んでしまった彼女をどうにかして繋ぎ止めたいと思ったのは当然の欲求だった。離れてしまいそうなそんな気がして、しかし彼女を縫い止める術を知らない。するりと彼女の浴衣へと伸ばす手。その柔肌の、何と熱いことか。

 果たして、その行動に、覆いかぶさりリトの唇に再度触れるその行為に抵抗する様子はまったく見当たらなかった。

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