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「ああ、もしもし?」

 うっすらと意識が浮上する。
 まだ身体が重く身動きの取れない状態で、それでもリトが誰かと話しているのだけは分かった。自分の部屋があるくせに何故この骸が眠っている部屋で話すのか。文句を言ってやろうとも思ったが今はまだ身体が重い。そして彼女の声は心地良い。再びうつらうつらとしながらも耳を澄ます。

「こちとら美人で気立ての優しい酒屋のお姉さんなんだけどさあ、アハハ!誰だって?あんた誰からの番号かちゃんと確認したかい?あーそうそう。ちょーっとポカやらかしちまってさあ、取りに来てくれたらありがたいんだけど。場所は分かるだろう?じゃ、宜しく頼むよ。頼んだよ、…それは」

 …大事なモンなんだ。
 誰と話をしているのかは分からないが相手の人間が男なのは分かった。しかし最後の言葉の何と優しいことか。待ってと誰かから負いすがれるような声が電話の先から聞こえたが無慈悲にもリトはそれを切る。一見聞いたところただ彼女かなにかやらかして後始末を頼んだようだが彼女から一切悪びれた様子も感じられず、リトらしいと言えばリトらしいのか。
 目を開くとやはり隣には彼女が壁に背を預け座っている。電話をしていたはずなのだが話していたはずの通信機器が見つからなかったが恐らくすでに服の内側へと仕舞ったのだろう。
「起きたかい」相変わらず気配には聡く、骸を見つめる目は優しい。この瞳が何故か懐かしくなってしまうのは何故だろうと思いながらも骸はゆっくりと起き上がった。

「クフフ、何か失敗したようですが?」
「聞こえていたか」

 聞かれていたと知っても大して焦った様子もない。否、この女が慌てる事なんてあるのだろうか。例え天変地異が起こってもそんな表情を浮かべやしないのだろうと何とはなしに思った。もっとも昨日、骸が知らない人間から受け取ったものを飲もうとした時にはひどい形相をしていたものだったが。
 楽しげに目を細め、くつくつと喉を鳴らす彼女は骸に茶を寄越すと「仕方ないんだけどねえ」と零す。

「本当は自分ひとりじゃやりきれねーって分かっててもそれでも頼り方がわかんねーしさあ。結局はこうやって誰かに助けてもらうんなら最初から頼めばよかったーだなんて思うわけだ」
「自分の実力すら弁えない愚か者というわけですね」
「ハッハ、なかなか言うじゃないか。そうやって生きてきちまったんだから仕方ねーだろう」

 自身の紫紺の髪をくしゃりと掴み笑う様子に、自由に生きているという割に枷に嵌っているのは彼女も同じかもしれないと漠然と感じずにはいられない。世界を違えどもそこは同じなのか。彼女のその底抜けの明るさも、やはり何かあるのだろうか。だがそこを掴ませて、読み取らせないのがこれもまらリトである。
 発言の詳細を聞こうとするも「さて」と己の膝を叩きながらゆっくりと立ち上がる。この話はもうお終いらしい。

「じゃあ私は外に行くが体調はどうだい?」
「行きます」

 そうか、と朗らかにリトは笑い昨夜と同様手を伸ばし、骸は躊躇うことなくその手をとる。不思議ともうこの手が煩わしいとは思わなかった。


 廊下を歩く時に話してはならないような、そんなルールはないらしい。長い廊下を歩く際もリトは鼻歌を歌っていた。昨日はどうやらあのまま骸が逃げ出さないかと不安になっていたところもあるのだろう、相変わらずどこからか取って食ってやろうというギラギラとした視線を感じることもあったがそれが何であるかを知ってしまえばもう恐ろしいこともない。
 試しにリトの居ない方向に視線を遣ってみたが確かに鬼のような顔をした女が此方を見ていたものの手を出そうしてこようとはしなかった。悔しそうに顔を歪め歯噛みしている様子を見るからに、これも彼女が張っているという結界とやらの加護なのだろう。自分にはこれに対しての力はないもので、きっとこれからも彼女とこうやって手を繋ぎ移動するしか方法はないのだと身をもって知る。
 ふん、ふん、と知らない歌が冷たい廊下に響く。声はどちらかというと女性にしては少し低めで、その音はやけに心地いい。

「ところで骸」
「何でしょう?」
「あれから、何か思い出したことはないかい?」
「そう、ですねえ」

 相変わらず記憶は曖昧のまま、戻ることはない。イタリアの地からどうやってこの別世界へと飛んできてしまったのかということを思い出すことも、ない。何か糸口さえあれば全てが芋蔓式にでも思い出してしまえるのではないかとも考えたがそのきっかけさえ見つからなければ始まりもしなかったのである。
 その為にはまだ、時間が必要だ。まずはこの痛む傷を癒やすことからか。そう思ったがゆえにこのリトという女の所から逃げることも無く、ただこの怪我が癒えるまで、そして記憶が戻るまで此処にいる事にしたのだった。記憶喪失とは少し違う。だけど帰る場所が思い当たらないなんてまるで骸自身が帰ることを望んでいないようだった。――…いや、そんな事はないと強く言い返すことも出来ない辺り、何とも言えなかったのだが。

「…君をどこかで見たことがあるような気がします」
「他人の空似だろうが、それは誰か分からんのだね?」
「ええ」

 骸を心配し、走ってきたあの時の事は印象深い。リトではない女。彼女と同じ色彩を持つ、眼帯をした女。何処かで見たことがあるのだ。否、自分の事を知っていたのだから恐らく知り合いなのだろう。しかしそれでも記憶が戻ってくることはなかった。まだ、その時ではないというのか。
 そう告げると「そうか」とリトは俯いた。ひどく寂しい瞳をする女だと思う。年齢は聞いたこともないが恐らく骸よりも少し年上だろうか。若く見えないこともないがこの話し方と言い、落ち着きようといい同年代の異性には見られるものではなかった。
 母性愛と言ったものに触れることは無かったが彼女はまるで、母親のようなそんな存在に近しく感じてしまう。だからこそこうも早々と警戒心も自然と溶けてしまったのだろう。
 自分の事のように悲しむリトを見てその表情を和らげたいと思う。それは当然のようで、普段の骸からでは考えられぬ事であった。勿論そんな事を彼女が知る由もないのだが。

「ああ、それとですね」
「ん?」
「僕は酒より、甘いものが好きです」

 茶目っ気たっぷりに伝えると思った通り優しい笑みを浮かべ「今日は何食おうかねえ」と扉を開いた。

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