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 腹が減っては戦も出来ぬだろうと次に連れていかれたのは静かなバーだった。先ほどの店と雰囲気も似通っていたがここもどうやら知り合いらしい。「よう」と扉を開けた途端こちらへかけられる声に手を挙げて返すとカウンターへ骸を連れスツールに腰をかけた。
 当然ながら骸の方が背は随分高い。軽く腰掛けた骸に対し私も背が欲しいわと嘆きながらよじ登ると店員がすかさず冷たい水と共に手前にメニューを置く。

「取り敢えず食うモンくれ」
「…リト、君はいい加減栄養価を考えて食事を摂るべきだ」
「だーもう!お前は親父か!」

 彼女について行き分かった事だがこの界隈において、リトという女は皆から知られ、慕われているようだった。この店にくるまでもすれ違う人間に随分と親しげに話しかけられ、そして隣を歩む骸に対して「お前さんもかわいそうに」と口を揃えて声をかけられる。なぜ憐れまれたのかは分からなかったがそれは大方この自分を連れ回す彼女が破天荒だからなのだろうと勝手に思い込むことにして大人しく頷くだけに留めておいた。
 しかし一体このリトという人間は何なのだろうか。力があるとは到底思えなかったがそれでもあの時に見せた殺気は一般人が出せるような代物ではない。それに、この世界も。まるで御伽噺のようなこの世界は何なのかという答えすら出ず、今に至るという訳だった。「そういや」骸の隣でまた例のごとく酒を注文したリトは肘をつきこちらを見遣る。

「そもそも、どこから来たんだい?その記憶はあるか?」
「…イタリアです」
「いた…りあ?」

 店員が不思議そうにその地名を口にするところをみるとこの場にいる人間はその存在すら知らないのだろう。ハアと内心息をつかずにはいられない。状況は思っていたよりも絶望的だった。
 どういう原理なのかはわからなかったが知らない土地に…世界に、飛ばされてしまったのだ。こんな事象を聞いたこともなければ体験したことなど誰に聞いても無いだろう。これに関し何か詳しい者でも居ればいいのだが彼らの様子を見るからにそれは難しいと言えよう。

「イタリアという地の何処に?この辺りに似たような場所はあったかい?」
「そう、ですね」

 何も知らない人間にうそぶく必要も無い。出来るだけ細密に、覚えているだけの情報を伝える。とある大きな建物から逃げる最中に怪我を負ったこと。それから随分と離れた広場の木の下、誰にも見えぬよう残った力を振り絞り自身の身体を隠すスキルを使ったこと。気が付けば此処にいて、リトにより拾われたこと。
 今大事なのは情報を共有し、一刻も早くここから去ることである。帰る場所など未だに分かったものではないが、ここが自分のところではないことは確かなのだ。幸運なことに少なくとも彼女は敵ではなく寧ろ手助けをしようという思いがありありと見て取れる。

 だが自分がどうやって此処へ来たかということもそうであったが何故あそこで倒れたのか未だに思い出すことは出来ない。”ボンゴレ”という組織に所属してあり、自分は幻術を使える術士であること。その力を効率よく使うために必要なリングを失っていること、しかしながらこの世界ではそもそも幻術の力すら全く発動できないことは把握していた。
 つまり、…今の自分は身を守る事すら危ういという訳で。

 思い出せないのは全てではない。

 それは断片的だったが致命的で、これまで関わってきた人間の顔を思い返す事が出来なかったのである。何があったかなどは覚えていても人の顔がすっぱりと、全て。記憶喪失、というわけでもないだろう。恐らく一時的な記憶障害に陥っているだけに違いない。だが誰かに助けを求めるのは自分の矜持が許さなかった。それだけはしたくないと骸の中で自身が叫んでいた。余程その連中とは折り合いが合わなかったのか、信頼出来なかったのかは定かではないが何も持たない今、自分のその感覚だけが頼りだ。そもそも、思い出せないのであれば頼ろうにも方法がなかったのだが。

「ふむう、成程なあ。早く帰れたらいいんだが」
「そうですね。こんな所では安心して眠れやしない」
「アッハッハッ、言うじゃないか。じゃー寝酒でもどうだい!」

 ならこの話は終わりだとばかりに遠慮なく注がれる酒のオンパレードが始まっていた。口をつけ少しでも減ろうものならばリトが容赦なく並々と注いでいき、服の下で静かに冷や汗が流れていく。
 自分が人が嫌いであることは覚えている。他者を信用するまいと思いこんでいたところもあっただろう。だからこそ今までこういった席は極力避けてきたような気がするし、人前でアルコールを摂る時は大体が隠密任務の時にターゲットや有力人物から情報を聞き出す時ぐらいでまさか自分がこんな場にこうも自然な形で参加する時がくるかとは思ってもみなかった。
 女の、リトの存在がそうさせたのだろう。目を細め笑いながら自らも幸せそうに呷っていく。

「あーでも頼むからゲロんなよー。先刻ようやっと連日連夜家の壁にやらかしてくれた輩を捕まえたとこなんでなぁ。そういやお前さんを見つけた時も犯人かと思って取っ捕まえようとしたっけか。まー骸の場合はゲロじゃなくて吐血だったんだけどなあ」
「ゲ…君は吐瀉物と僕の血を同じ扱いするのですか」
「ゲロでも血でも同じモンさ。だって身体が不要だ容量オーバーだ助けてくれと思ったから吐いちまったんだろ?」

 一言返せば二言も三言も返ってくるのが彼女であった。
 組織内に女性はほぼと言っていいほど居なかったような気がする。それでも社交の場に嫌々ながらも顔を出せば寄ってくる異性は少なくはなかったがそれでもこの女は異様で、異質で、それでいて不思議と不快感はない。

 自分の周りにこういった人間が居れば、少しは今の環境も違ったかもしれないと考えたが首を振ってそれの可能性を打ち消した。
 煩くて仕方ない毎日になるに違いないのだ。

「君みたいに自由に生きれれば、生きることも楽しいでしょうね」

 ふと洩らしたそれは嫌味のつもりであった。お前のように何も考えることもなければ辛いことも苦しいことも何もなかっただろうと。何もかも笑い飛ばしていただろうと。この世界に住んでいる人間とは皆こうなのであろうか。自分が卑屈な考えを持っている事は認めざるを得ないがあまりにも彼女と思考がかけ離れすぎている。

「…どの世界のどの人間も、自分で枷を作りたがるもんだなあ」

 けれど、その言葉を聞き流すことなく紫紺の目がうっすらと細まり骸は間違いなくその目に見入ることとなってしまった。
 彼女の視線は驚くほどに、とても穏やかであったのだ。
 まるで慈愛に満ちた母親のような目でこちらを見る。あの時と同じだ。自分を心配して全力疾走してきた先ほどと。骸自身は彼女の事を知らないが彼女は本当に自分の事を知らないのか。何故だかそんな疑問すら湧いて出る。

「鎖なんざ人間生活を送るのには不要なものだろう?己で枷をつけておいて、外し方は作らなかったのだからそら苦労するわなあ」
「…君の考えは、僕には少し眩し過ぎます」
「アッハッハッ、そーかいそーかい。私もまあ、昔は色々とあったんだけど面倒臭くて全部捨てちまったクチさ。何ならお前さんも、捨てちまってみるかい?」
「…そうですね、それもいいかもしれない」

 しかしそう答えた骸に対する浮かべる表情は何故だかひどく悲しげで。

「ま、お前さんにゃ待ってるもんもあるだろう。そんなこと、簡単に言っちゃあその人らが可哀想じゃねえか」

 自分とは違って。
 そういう風にも聞き取れるような言葉に、儚さを感じた瞬間だった。


 饒舌だったリトは、だがしかし店を出た途端それが嘘であるかのように引いた。
 ほんのり赤かった頬は、緩やかな雰囲気はいつの間にかきりりと表情ごと引き締まっていく。その変化を目の当たりにすれば何かが起きたのだと分かる。それでいて彼女の哀しげな瞳は何を思っているのか。

「…何か、ありましたか」
「否、仕事の時間だ」

 何事もなく人混みを歩んでいく。やや早足で歩むリトの姿は背が低いのが災いしてすぐに見えなくなりそうだ。ついてこいとも、これからどうするのかと問われることもなかった。しかしついてくるなと言われてもいないのであれば今は取り敢えずこのリトという女の傍にいるのが一番安全で、元の世界に戻るには間違いないだろうと判断し骸は人混みを掻き分けついていく。リトはそれを見て少しだけ微笑むと骸の手をとり、更に早足で歩み出す。
 裏の路地に入ると先程までの暖かな景色とは一変して、薄暗い闇が広がっていた。

「ここで待ってな」

 恐れる様子もなくリトは突き進む。ようやく離された手。少し離れただけだというのにどうしてこうも空寒くなってしまうのだろう。まるで無知な赤子に戻ったようなそんな不思議な気分だ。彼女の傍はそれほど温かだったのだ。怖いなどという感情が自分にあったのだろうか。この闇に飲み込まれてしまいそうな不安感は一体。

 間もなくして軽い彼女の足音が聞こえ、そしてリトが連れ帰ったのは面を被った子どもだった。しかしその子どもにに足はない。足音は彼女1人分であった。――あまり信じたくはなかったが幽霊の類だろう。この世界は何でもありなのだということは先程の喧騒の中で知っている。

「お、姉ちゃん」
「見つけるのが遅くなってすまんかったな」

 ちらりと骸へ遣った視線はまるで見ていろと言わんばかりで大人しく頷くとリトはそのまま子どもと向き合った。かける声は、こちらの心に響くほど優しい。
 リトはその子供と目線を合わせるべくしゃがみこみ、面をつけたままの子供の額に口づけ、そして囁くように呟く。

「さあ、おやすみ。お前の場所はここじゃないんだ」

 子供がそのまま頷いたかと思うと足だけではなく姿全体が透けていく。
 顔を見ることは無かったが安らかに、そして静かな空気であった。

―――やがて子供の姿は消え去り、リトの手元には子供の手にしていた風車のおもちゃがからりからりと音を立てていた。

「…彼は一体」
「この世界にゃ、稀にああやって死んだことにも気付かずさ迷う人間がいる。私はそういう子らを見つける才に恵まれていてなあ」
「哀しい力ですね」

 そうだな、と儚げに笑うともう用は済んだらしい。片手に風車のおもちゃを携え何事も無かったかのように歩き出すと骸も慌ててそれを追った。彼女は一体今、何を思っているのだろう。先程の子どもに思いを馳せているのだろうか。見つける事が彼女の仕事なのだと言っていたが、リトが普通の人間ではないと感じていたのはこれの所為だったのだろうか。

 その後のことは、あまり記憶にない。
 リトの温かい手に誘われ去ったその場から部屋に入るまでの数刻は夢のように曖昧で。気が付いたら、例の真っ白な部屋まで戻っていた。

「おやすみ」
「…おやすみなさい」

 いつの間にかその空気に絆されていたのだろう。流されていたのだろう。
 先程の子供にしたように、リトは骸の額に柔らかな唇を押し付けると急激に眠気を覚え、…そのまま深い眠りへと。

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