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「連れがビビってんだろうが。もうちょっと女らしくだなァ」
「うるせえ、私が何を話そうが勝手だろうが」

 管を巻く女は恐ろしく酔っ払っていた。
 先程まで骸に対して目を据わらせ自分がお前を運んだ事はお前のためじゃないから調子に乗るなと何度も何度も言われ無理やり頷かされ、そして今に至る。骸も隣で酒を肖ってはいたがそれにしても飲む速度が尋常ではない。おかわりと言わないでもカウンターの向こうにいる店員に対しドンと空のグラスを置くと「はいはい」と苦笑しながらそのグラスをまた透明な液体で満たしていく。その飲み方は決して味わっているとは到底思えなかった、それでも女の選んでいる銘柄は上等なものだとわかる。

「大体なあ、こんなはした金で私が動かせられてると思うも涙が出てくるわ」
「ハイハイ。もう毎日聞いてっから」

 すまんね、と言いながらカウンター越しに女を相手にする男は骸の前に水を一つ置くと苦く笑んだ。それに対しどうもと軽く会釈し口へ運ぶ。然程腹も減ってなければ喉も渇いていなかったというのに一気に飲み干すと店員は目を細め、カウンター越しに骸の前に立つ。
 全身が黒ずくめの男だった。身にまとうものは恐らく制服のようなものだったのだろうがそれにしても髪も、瞳も全てが黒く、また肌も褐色ではあったが話されている言語は日本語であった。此処は日本なのだろうか。しかし自分はイタリアに居たはずである。意識を失ってからどれほど時間が経ったのかは知らないが短時間で移動出来る距離ではない。
 訳の分からないことばかりであったが水を飲み干すとホゥ、と息をつく。何の変哲もない水であるはずなのだ、味もないのに何故だか落ち着く味がする。

「これはここの山の水でなァ、積もった嫌なモンも浄化されるぞ」

 店員が嬉しそうに骸に話しかけるがその間にも女の手元にある酒は減っていく。謎めいた女はただの酔っ払いに成り下がっていた。戦闘すると思っていたもののこう出鼻をくじかれてしまえばどうすればいいのか逆に分からない。
 とうとう女はカウンターへと顔を突っ伏し、赤く染まった顔を此方に向けて目を瞑る有様。今まで異性とこういった場所へ来たことはあるがこんな女は初めてだった。こちらに向ける無防備な寝顔はあどけなく、少し力を込めればそんな細首などへし折れてしまいそうだ。

 逃げるつもりではない。

 決してそういうつもりはなかったが戦うこともないのであればもうこの女に用はない。自分は女から注がれた僅かな酒と、水しか飲んでいないのだから払う義理もないだろう。骸は物音も立てずに立ち上がると店員へ静かに頭を下げカランカランと扉を鳴らして外へ出た。

「…おい、リト」
「ああん?」
「いいのか?お前の連れ、出てったぞ」

 店員は女と長年の知り合いであったが今日は珍しく酒を呷るペースが早い。
 酔い潰れるなんて事はここ最近滅多に無かったというのに。何かあったのかと店員は思案するが十中八九先ほどの男の事だろう。聞きたい気持ちはあるがそれ以上にこの店に連れてきたというのだからただの拾い物でもあるまい。そう分かっているからこそ早々に揺り起こし、女を叩き起こす。あげた顔は目元が赤くなっており、息は当然ながらアルコールの香りがひどい。
 女は横につれてきたはずの男が消えていることにようやく気がついたらしい。頭を掻きながら立ち上がった。

「あー…やばいか。やばいなあ。連れ帰らんと」
「!言ってねーのか」
「んー、まだその時じゃねーんだ」

 金を支払うと本当に今の今まで酔っていたのかと言わんばかりのスピードで店の扉を開けた。
 カランカランと再度鳴り響く鈴。客もいなくなった店で、店員は呟く。

「…お前も、ほんとーに世話焼きだよなぁ」


 店の外はやはり繁華街のようだった。
 見事に飲み屋ばかりですれ違う人間は年齢層も、性別も半々といったところだろうか。どちらかというと仕事帰りの人間が寄っているような感じではなく、まるで祭りにでも来ているような感覚に襲われた。綺麗に髪を結った浴衣姿の女性や、甚平姿の男性、それからお面をつけた子供。記憶にもないのに何処と無く懐かしいと思わせられるような、そんな平和な光景が目の前に広がっている。

 女のいうことを信じていなかったわけでもないが、本当に違う世界へ来てしまったようだ。これでは帰る方法を調べるのにも骨が折れそうで、思わずため息をひとつ。やはりあの女の元へ居る方が安全なのかもしれない。あれは少し知っていそうな気がするのだ。
 しかしこの世界はあまり骸に敵対した人間も居なさそうであると判断したのも確かなわけで。人に世話になるなどというのは真っ平御免でありさてどこから調べるかと逡巡したその時だった。

「お、兄ちゃん新入りかい?」
「若いのに大変だねえ、飲むか?」

 いつの間にか屋台のようなところで店を構えていた男が骸に向かって何かを差し出す。
思わず反射的に受取ればよくわからない透明な液体がグラスいっぱいに並々と注がれていた。
 これは何かと問う前に骸にしなだりかかる若い女性。不思議と重みは感じられず、そして今どきの女らしからぬ香のかおりが鼻腔をくすぐった。

「だーめだよう。この子リトが連れてきていたんだから」
「えー、あいつがわざわざ?そりゃ珍しいことで」
「まあ整った顔もしてっからなあ。やっぱリトのやつ今でも旦那取らねーと思ったら面食いか!」

 どうやらリトというのはあの彼女の名前らしい。そこまで広くもない街のようにも見えるし全員が知り合いであるというのも可笑しくないことなのだろう。和やかな空気に取り囲まれる事なんて殆どなかったような気がするのに、何故こうも温かい気分になるのだろうか。
 ――それにどうしてだろうか、ここに来てから己の中で警戒心と言ったものが粗方取り除かれてしまっている気がする。手に持つ飲み物は一体何なのか。自分に寄りかかる女は誰だ。そして自分の周りに居る誰もが何者かも分からないというのに払いのける気すら湧き上がってこない。
 他人の親切を素直に受け取った事もないというのに不快だと感じなかった。それすら疑問に思わなかった。ただ分かるのはこの液体が非常に、美味しそうだと思えたことだ。自分の周りにたくさんの人間が居る。ぎゃいぎゃいと騒ぎ、笑っていることが不快ではないと感じることに違和感を覚える。自分の感覚は狂ってしまったのだろうか。元々の自分はこういう場面こそ厭っていたのではないか。そんな事を思いながら、勧められるままにグラスへ口をつけ、

「おい!」

 まさに飲もうとした瞬間だった。腕を強く掴まれ、驚きにそれを落とす。ガラス製だと思われたそれは骸の足元で割ることはなく、地面に着くと同時に霧散した。その後グラスの行方を見ることはなく視界は女の顔でいっぱいとなる。

「無事か!」
『…っ骸様!』
「!」

 一瞬、彼女の姿が誰か他の人間に被さった気がした。誰だ、今のは。ぱちりと次の瞬きですぐに消え去ったあの女は誰だったのだ。
 残ったのは幻影でも幻覚でも何もなく、一人の女だった。あの、自分の事を拾ったという女である。自分の腕を強く持つ女は、先程まで酔い潰れていたはずの女だった。紫紺の瞳は不安げに揺れ、骸を一心に見つめ、それがこそばゆい。

「ああ、良かった。無事か」

 グラスが落ちたであろうその場を強く睨みながら、それでも骸にかける声は優しく、手が僅かに震えている。間違いなく自分の為に走ってきていたにちがいない。間違いなく自分の為に声をかけているに違いないとぼんやり思いながら、不思議に思わずにはいられなかった。

 何故自分のためにこの女は汗だくになるまで走っていたのだろう。
 何故自分のことをこんなにも必死に探していたのだろう。

 損得抜きで自分の身を案じられたことは随分と久しい気がする。
 紫紺の女が振り向くといつの間にか周りにいた連中は姿を消していた。何とも逃げ足の早いことでと悔し紛れにつぶやいたのを骸は聞き逃さなかった。

「飲んで、なさそうだな」

 ハア、と息を深くついて骸を見上げた。
 改めて見ると背は骸の肩ほどしかない小柄な女だ。体の線は華奢で、この世界の人間達と同じような浴衣姿。白地に真っ赤な牡丹の花を携えたそれは彼女のために誂えたのだろうと思えるほど似合っている。

「お前さんが私をいまいち信頼できてねえのは重々分かっちゃいるがここの世界において、ほかの奴らから受け取り物を食らうのはやめて欲しいんだが」
「君のものならばいいと?」
「ああ。信用足らんのは今後どうにかするとして、だ。とは言ってもまあ私が出来る用意なんぞ先ほどの握り飯程度だが。お前さんが欲しけ「骸」……ん?」
「僕の名前ですよ。お前と言われるのは少々癪でしてね」

 絆された訳ではない。それは言い切れたが少しだけこの人間の事が気になってしまったことも確かなわけで。彼女の言葉に被せるよう名前を告げると今度はお前の番だと言わんばかりにその柔らかな頬に手を伸ばし視線を合わせる。もう名前は知っているが彼女の声で、言葉で聞かなくては気が済まない。

 不思議そうにする女は意味が漸く分かったのだろう。やがてその鮮やかな牡丹が霞んでみえるような極上の微笑みを向けた。

「リト。私の名前はリトだ」

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